30. 挨拶
私たちのファーストダンスの後、続けて貴族たちのダンスが始まった。国内外の来賓たちの歓談も始まり、場は一気ににぎやかに、明るい雰囲気になる。けれど王族席の方からは、いくつかの冷たい視線がこちらに飛んできていることに私は気付いていた。……とはいえ、挨拶をしないわけにはいかない。
「おいで、リア」
「はい、クリス様」
一曲だけ踊った私たちはすぐにフロアの端に下がったけれど、今夜のクリス様はいつにも増してお優しい。今もこうして私の手を取り、フロアの中をエスコートしてくださる。
「……クリス様、友好国の王女殿下もいらっしゃっています。ダンスにお誘いしなくてもよろしいのですか……?」
もうこんなに女性と踊れるようになったのだし、儀礼的にも、少しは他の方と踊った方がいいのではないだろうか。クリス様が私と踊っているのを見ていた他国の王女殿下や有力貴族のご令嬢方からも、期待するような熱い視線を感じる。
けれど、私の手を引きながら少し前を歩いていた彼は淡々と答えた。
「冗談じゃない。君とだから踊ったんだ。他の女性の手を取るなど考えられない。君が特別なだけだ」
「……っ」
「それに、心配しなくてもルミロがちゃんと王女と踊っている。大丈夫だろう」
(私が、特別……)
ご自分の妃だからという意味でそう仰ったのだろうけれど、私自身が気持ちを自覚した今となっては、クリス様のこんな些細な一言が胸を高鳴らせる。
じわじわと頬が火照ってくるのを感じながら、私はクリス様と共に王族席へと向かった。
国王陛下から労いの言葉をかけられた後は、ずっと刺すような視線でこちらを睨んでいたユーディア王妃陛下の前へと移動する。その真っ赤な瞳から放たれる敵意には、思わず怯みそうになる。
「とてもロマンチックで素敵な時間でしたこと。見惚れるほどのダンスでしたわ、クリストファー殿下。これまで全く踊らないから、よほど苦手なのかと思っていたわ。貴族たちとの関係に亀裂が入りそうなほど、どのご令嬢方とのダンスも冷ややかにお断りなさっていたのに。妃殿下と踊るあなたは随分と楽しそうだったわ。今夜は別人のようねぇ。ふふ」
嫌味っぽい王妃陛下の言葉にも、クリス様は全く感情を乱される様子もない。
「妻は特別ですから。踊りたくなる相手に、ようやく出会えたというだけのことです」
クリス様がそう答えたその瞬間、王妃陛下の顔色が露骨に変わった。まるで煮え滾る感情をそのままぶつけるかのように、クリス様を睨みつける。
(……そんなに怒ることかしら。これほどまでに私達を目の敵にするのは、やはりクリス様がジョゼフ様に取って代わって王太子の座に就いたことを恨んでいるから……?)
私も適当に挨拶をし、その後王族席の中でも末席にいるジョゼフ様たちの元へと移動する。彼は嫌々この場にいるといった雰囲気だ。なんだかすっかり歳をとってしまったように見える。覇気がなく、猫背気味で自信なさげだし、その漆黒の瞳には光がなかった。
「……母上にどうしてもと呼ばれて出て来たんだ。失脚した身だけどね。こういった公式行事には、一応王族として顔を出すべきだって」
「さようでございますか。お疲れ様です」
「ふん。新体制となった王家の寛容さを貴族らに示すための演出だってさ」
クリス様にそう答えるジョゼフ様は、全てを諦めてしまったような、何もかもがどうでもいいようなご様子だ。来たくなかっただろう。だって恥さらしもいいところだ。もう王族扱いでもないのに、こんな目立つ場所の末席に座らされて。
しかしその隣にいるエヴァナ嬢からは、ジョゼフ様とは真逆のギラついた空気を感じる。王妃陛下に負けないほどの激しい憎悪を滾らせた目で、さっきからずっと私のことを見据えているのだ。失脚元王子と共に辺境の地に送られたことを恨んでいるのだろうか。……いや、私を恨まれても。どうしよう。このまま素通りしてもいいけれど……大人気ないわよね。一応挨拶はしておこうかな。
「……ごきげんよう、エヴァナ様。今宵は遠路はるばる、ご苦労様」
(嫌味に聞こえたかな……)
エヴァナ嬢が身に着けているドレスは一見華やかだけれど、こうして近くで見ると布地はくたびれ、刺繍は雑だ。ところどころほつれているし、どう見ても上等な品ではない。金銭的余裕のない暮らしぶりが窺える。
エヴァナ嬢は恨みがましいねっとりとした目で私を見据えて答えた。
「こんばんは、王太子妃殿下。お幸せそうですこと。よかったですわね!」
(……子どもか)
その場を離れても、エヴァナ嬢のじっとりとした視線を背中に感じていた。
その後次々と声をかけてくる貴族たちとにこやかに挨拶を交わしながら、ようやく家族の元へとたどり着いた。
「お母様……! ダニエル!」
父は私の横を素通りし、クリス様に簡単な挨拶をすると、そそくさとどこかへ行ってしまった。……あの日王都の通りで私たちに浮気現場を見られた上に、クリス様から苦言を呈されたことが尾を引いているのだろう。どうでもいいので無視して、私は母の手を取った。
「元気にしている? お母様」
「ふふ。ええ、もちろん。いつもお手紙をありがとうございます、妃殿下。今夜は特別にお美しいわ」
そういう母も、相変わらず心配になるほど儚げではあるけれど、セピアがかったシャンパンゴールドのドレスを品よく着こなし、とても美しい。いつまで経っても私の自慢の母だ。
その後ろでは、弟のダニエルがアメジストのような紫色の瞳をキラッキラに輝かせて私を凝視している。少し癖のあるアッシュグレーの肩まである髪は、後ろでポニーテールにまとめられている。昔からずっとこの髪型なのだ。
母の手をそっと離し、弟に笑顔を向ける。するとダニエルは花が開くようにぱあっと笑った。
「姉様! ……っ、じゃない、王太子妃殿下、お会いしたかったです!」
(く……っ! か、可愛い……っ!!)
「ダニエル、私も会いたかったわ。本当に久しぶりね。隣国でのお勉強はどう?」
王太子妃らしい落ち着いた笑みを浮かべ会話を交わしながらも、頭の中では再会した実弟に悶絶していた。
(ああ……可愛い私のダニエル!! 思いっきり抱きしめて頭をわしゃわしゃしてあげたい!!)
内心キュンキュンしている私の気持ちなど知らないダニエルは、いつもの無邪気な笑みを浮かべてにこにこしている。
「はいっ、自分なりにめいっぱい頑張っています! 学園の先生たちは皆さん親切で授業が丁寧だし、分かりやすいです。あ、それと……、先日はクラスの代表でディベートにも参加したんだ。緊張したけど、上手くいったよ」
「まぁ、すごい」
「うん! それとね……」
最初はかしこまっていたのにだんだんと砕けた口調になってくる弟が可愛くて、頬が緩んでしまう。これでもバークリー公爵家の嫡男なのだ。歳のわりに本当に無邪気で可愛すぎるところがあるけれど、成績優秀で文武両道な素晴らしい子であることは間違いない。隣国での勉強と並行して、公爵領の経営もしっかりと学び身に付けている。
母と私の前で楽しそうに話していたダニエルが、ふいに私の背後を見て顔を強張らせた。
「……っ! ごきげんよう、王太子殿下。本日のお披露目、心よりお祝い申し上げます。それと、先日は私の誕生日に過分な贈り物をいただき、誠にありがとうございました。身に余る光栄にございます」
弟につられて振り返ると、そこにはクリス様が立っていた。家族と会話する私に気遣って離れてくださっていたのだろうか。私の隣に立ったクリス様が、母や弟に優しく言葉をかけてくださる姿を見上げ、胸が温かくなる。
しばらく四人で会話をしていると、そこにギルフォード伯爵がやって来た。他の貴族たちと同様に挨拶をくださった後、母や弟も交えてしばらく歓談を楽しんだ。
けれどそのうち、父の不在を気にしたギルフォード伯爵が辺りを見回す。
「……バークリー公爵は、どちらに?」
その言葉に、母は少し困ったように微笑んだ。
「……ええ、先ほどまでは一緒にいたのですが……、探してみますわ。では、まだご挨拶するのを待っておられる方々がいらっしゃるようですし、一度失礼させていただきますわね、殿下、妃殿下。どうぞ、よい夜を」
そう言ってダニエルと共にこの場を離れようとした母の後を、ギルフォード伯爵がすぐさま追う。
「ご無理なさらず。この混雑の中では大変でしょう。一緒にお探しいたします。お身体に障ってはいけません」
そう言って私たちに挨拶をし、伯爵は二人と共に去っていく。母を見つめる彼の目は、とても優しかった。ダニエルがついているから大丈夫だとは思うけれど、せっかくのご厚意だ。後日きちんとお礼を言っておこう。
離れていく三人を見送りながら、私はそう思った。