26. クリス様の登場
「……湯浴みなら毎日きちんとしておりますし、本日もたしかに社交用の姿ではございませんが、清潔に整えたものを身に着けてございますので、どうぞご安心くださいませ」
私の言葉に、王妃陛下が大仰な声を上げた。
「ま……、ほら、この調子ですわ。すぐに私に反発なさって。困ったものね。こう言っては何だけど、他のご令嬢に心を移してしまったジョゼフの気持ちが、私少し分かるのよ。あの子も可哀想だわ。最初から婚約者が他の令嬢であれば、きっとこんな結果にはなっていないでしょうに」
「……」
重ねた指先に力が入る。お腹の中がふつふつと滾ってきたけれど、私は努めて平静を装った。
しばらく周囲の女性陣が「まぁ、本当に……」だの、「ご心痛お察ししますわ、王妃陛下」だのガヤガヤ言っていたけれど、しばらくすると王妃陛下が、私に一人の女性を紹介した。
「さ、もうそんなに不貞腐れたお顔は止めてちょうだい、フローリア妃殿下。こちらのご婦人はね、ワイズ伯爵夫人よ。隣国の大使夫人なの。あなた、まだお会いしたことなかったでしょう? ご紹介しようと思って」
そう言われて顔を上げると、たしかに、最奥の王妃陛下の隣に困った顔をして座っていらっしゃるご婦人には見覚えがなかった。茶会に招かれて来てみたら、突然王妃と王太子妃の間でドロドロとした醜い嫌味合戦が始まり困惑しているのだろう。お可哀想に。
内心そう思いながら、私はその初対面の大使夫人からのご挨拶に、丁寧に挨拶を返す。もう失礼したかったのだが、「せっかく来たのだからあなたもお座りなさいな」という王妃陛下のお言葉で、空いていた末席に着座する羽目になってしまった。
自分から一番遠い席に私を座らせて満足したのか、王妃陛下がご機嫌な様子で言った。
「ふふ。せっかくだからクリストファー王太子殿下もお呼びしたのよ。そろそろいらっしゃるんじゃなくて?」
(……な……)
その言葉に、私は思わず王妃陛下を凝視した。クリス様まで呼び出してあるとは。一体なぜ……? 真意が分からず、得体の知れない不安が胸の奥に広がっていく。
この場に集まっている女性陣は、一斉に色めき立つ。「まぁ、王太子殿下にお会いできますのね」「嬉しいわ」などと口々に言いながら、若いご令嬢などはチラチラとサロンの入り口の方に視線を送っている。
ほどなくして、クリス様が姿を現した。驚いたことに、ギルフォード伯爵も一緒だ。
クリス様は末席に座る私にすぐに気が付き、一瞬目を見開いた。そして眉間に少し皺を寄せ、刺すような視線で王妃陛下を見定めた。
「突然のお呼び出し、一体何事かと驚きましたが、茶会でしたか」
茶会ごときに呼び出してくれるなと言わんばかりのクリス様の辛辣な口調に、思わず笑ってしまいそうになる。
「……なぜお一人ではないの?」
王妃陛下も眉をひそめ、ギルフォード伯爵にちらりと視線を送る。
「ちょうどギルフォード伯爵と政務書類の確認をしていたところです。これから共に昼食をとるつもりでしたので連れてきましたが、どうせすぐに失礼するので構わないでしょう。……ごきげんよう、皆さん。どうぞ、よい時間を」
簡単な挨拶を済ませたクリス様は、今にも出ていきそうな雰囲気だ。ご令嬢方は目をキラキラと輝かせ、そんなクリス様に口々に挨拶をする。
そんな中、ギルフォード伯爵は私にニッコリと微笑みかけてくださった後、王妃陛下の元へと向かい、儀礼的な挨拶をした。その隙に、クリス様が私のそばへと近付いてくる。そして彼が「リア、君も我々と一緒に……」と声をかけてくれた、次の瞬間。
「……おや。ワイズ伯爵夫人ではございませんか」
ギルフォード伯爵の明るい声が聞こえてきた。伯爵は王妃陛下のそばにいた例の大使夫人に向かって、嬉しそうに話しかけている。大使夫人の方も「まぁ……!」と声を上げ、目を輝かせる。
「あら、お知り合いでしたの?」
王妃陛下がそう言うと、ギルフォード伯爵が答えた。
「ええ。亡き妻が存命の頃、夫人には懇意にしていただいておりました」
「懐かしゅうございますわ。学生の頃、こちらへ留学中にギルフォード伯爵夫人と知り合いまして。帰国後も長年お手紙のやり取りをしておりましたの」
「我々の結婚式にもご参列いただいたのですよ」
「まぁ、そうでしたの」
王妃陛下は冷めた目に愛想笑いを浮かべ、二人の言葉に相槌を打っている。けれど、興味のなさは透けて見えていた。
しばらくしてクリス様がギルフォード伯爵に声をかけ、この場を去ろうとなさった。私にも一緒に昼食をと促してくれる。普段着で末席に座っている私を見て、何かを察してくださったのだろう。
けれど、私が立ち上がろうとした、その時だった。
王妃陛下が高らかに声を上げた。
「あら、そうだわフローリア妃殿下。あなた、先日落とし物をなさっていたそうよ」
「……え?」