22. 心を重ねる
こちらが固まっている間にも、父と見知らぬ女性はどんどん近付いてくる。
「? どうした、リア」
「……っ」
よほど変な顔をしてしまっていたのだろう。クリス様が心配そうに私に声をかけてくる。けれど私は、返事もできずに顔を背けた。
見たくなかった。こんな特別な日に、わざわざあの人に会いたくなんてなかったのに。
頭が真っ白になり、咄嗟にクリス様の背中に隠れる。けれど無情にも、目の前からは女性の媚びた笑い声と、聞き慣れた男の声が近付いてくる。気持ちの悪い猫なで声。母や私の前では聞かせたことのない、妙に機嫌良さげな、いやらしい笑い声。
どうかこのまま通り過ぎてくれと願いながら、私はクリス様の背中の陰でギュッと目を閉じた。後ろをついてきていたラーラも父に気付いたのだろう、そっと私のそばに来る。
すると、その時。クリス様があっけらかんとした声を上げた。
「おや、奇遇じゃないか。こんなところでお会いするとは」
(……ん? ……げっ!!)
その声に思わず顔を上げると、クリス様の目の前には父がいた。父は彼を見上げ、口をあんぐりと開けて固まっている。髪の色が違おうが、地味な格好をしていようが、王太子は王太子だ。さすがに公爵家の当主が気付かないはずがない。そんな父に腕を絡めた隣の派手な女性は、頬を染め、クリス様のご尊顔を凝視している。
「で……! でん……っ」
父が引きつった顔で「殿下!」と言う直前、クリス様がまた人さし指を自分の唇に当てた。
「今日はお忍びなんだ。静かに頼むよ。……どうやらそちらも、お忍びのようだな。こんな場所で、随分とおおっぴらではあるが」
「……っ!! い、いえ、これは……っ」
父は今さら隣の女性の手を振り払う。商売の人だろうか。彼女は乱暴に手を振り払われたことなど気付いてもいない様子で、真っ赤な唇をポカンと開けたままクリス様の顔をひたすら見つめている。物語に出てくる魅了の魔法にでもかかったかのようだ。
狼狽する父に向かって、クリス様は淡々と言った。
「臣下の私生活にまで口出しするのも無粋かとは思うが、あなたの立場を考えれば、あまり褒められたものではないな。少し気が緩み過ぎではないか? 自身の評判が家の未来にどう影響するか、今一度よく考え直すといい。……思わぬところで足元を掬われぬよう、改められよ」
「……っ!」
父は一瞬目を見開き、露骨に不快な表情を作った。けれどすぐに一礼し、そそくさとその場を去っていった。派手な女性はハッと我に返ると、「ねぇ待ってぇ〜! あの色男誰よぉ〜」などと言いながら、父を追いかけて行ってしまった。
父は私には、ほとんど目もくれなかった。
二人が去ると、クリス様はフンと鼻で笑ってこちらを振り返る。
「ちょっと懲らしめてやった。相変わらずのようだな、公爵は」
「……ええ。お見苦しいところを。お恥ずかしい限りです」
かろうじて返事をしたけれど、気分は最悪だった。さっきまでの温かく幸せな気持ちが一瞬で消え去り、胸の中にできた真っ黒な深い沼に沈んでいくようだった。
ふいに、物静かで優しい母の笑顔が脳裏をよぎった。
「……まだ時間はある。せっかくの貴重な機会だ。もう少し二人で散策してみないか」
「…………はい」
そう答え顔を上げると、クリス様は穏やかな笑みを浮かべた。そして「向こうの公園に行ってみよう」と言うと、ほんの一瞬私の指先に触れ、軽く手を引いた。
(……っ!)
その手はすぐに離されたけれど、私はその行動に驚き、しばらく彼の背中を見つめたのだった。
大通りの外れには、花壇や噴水が設えられた大きな公園があった。少し王宮の庭園の雰囲気と似ている。身なりの良いご婦人が小さな子どもの手を引いて歩いていたり、大きなキャンパスに絵を描いている人がいたり。点在するベンチには、仲良く語り合う老夫婦や恋人らしき男女がいる。クリス様は「うん。きちんと整備されているな」と呟きながら、空いているベンチの前までやって来た。そしてハンカチを取り出すと、ベンチの上を払うように拭く。
「あ、すみませんクリス様。私が……」
「いい。ほら、ここに」
クリス様は腰かけると、私にも座るよう促す。……こういう時、どのくらいの距離を空ければいいのか悩む。さりげなく小さな子どもが座れるくらいの空間を作り、私はそっと腰を下ろした。
するとクリス様は少し腰をずらし、私に距離を詰めてきた。内心ドキッとしたけれど、努めてポーカーフェイスを装う。
ラーラや従者、護衛らは、それぞれ少し離れたベンチに座ったり、その辺をごく自然に歩いたりしている。
さっきのショックが尾を引いているのか、隣にクリス様がいるというのに、ついぼんやりしてしまう。心地良い風が、ふわりと頬を撫でた。
(……お母様は今頃、どう過ごしているのかしら)
母の優しい微笑みが、また脳裏をよぎる。
父はよその女性と出歩いてばかり。私は王家に嫁いでいき、滅多に会うことはできない。その上ダニエルは隣国。
病気がちな体で、広い屋敷に一人。侍女たちが毎日甲斐甲斐しく世話をしてくれているとはいえ、きっと心細くて寂しいだろう。私が同じ立場だったら、きっととても寂しい。
「……一体何が楽しいんだろうな」
「……え?」
その声に我に返り隣を見ると、前方にある噴水のそばではしゃいでいる子どもたちを見ていたクリス様が、ぽつりと言った。
「俺にはさっぱり理解できない。素晴らしい妻が一人いれば、それで充分ではないのか。何を求めてそんなに次々渡り歩くのか。あの手の男は、俺が最も不可解とする人種だ」
父のことを言っているのだと悟り、私は思わず笑ってしまった。この王国では王族以外が側妃を持つことは禁じられているが、妻に対して不誠実な男性はいくらでもいる。特に貴族らは、まるでそれが男のたしなみだとでも言わんばかりに浮気を繰り返す人が多い。ギルフォード伯爵のような方が特別なのだ。
けれどクリス様は眉間に深く皺を寄せ、真剣に思案している。父の行動を全く理解できないらしいその姿に、なんだか心が和んだ。
「ふふ……。クリス様がそういったお考えの方でありがたいですわ」
「まぁ、俺はそもそも皆とは別次元だがな。女性に触れること自体に抵抗があるわけだから。……だが、」
クリス様はふいに眉間の皺を解き、真剣な表情で私に向き直った。
「もしも俺が他の者と同じように女性に触れられたとしても……、今後いつか、そんな日が来たとしても、……俺は生涯、君以外の女性に触れることはない」
「────っ」
一切の迷いがないその言葉と、私を見つめる真っ青な美しい瞳に、呼吸が止まる。クリス様は私に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を重ねた。
「俺は君にそんな顔はさせない。こんなぎこちない夫婦生活の中で、どこまでこの気持ちが伝わっているかは分からないが、俺はひたむきに努力を重ねる君を心から尊敬しているし、大切に思っている。まともに触れられなくても、君は誰よりもかけがえのない、俺の妻だ」
(……っ!)
嘘偽りのない彼のその言葉は、父によって長い年月傷付けられ、そしてジョゼフ様にまで裏切られ失望を重ねてきた私の心の中に、瞬く間に染み込んでいく。
どこにも触れられていないのに、まるでこの真摯な眼差しに全身を抱きしめられているようで。
言葉の代わりに涙がこみ上げ、クリス様の姿がぼやける。
ハッと我に返り、私は慌てて顔を背けた。その拍子に、膝の上に重ねた手の甲に、大粒の涙がぽとりと落ちた。
(やだ……みっともない。こんなところで涙なんて……。私は王太子妃なのよ。取り乱しては駄目……!)
どうにか気持ちを落ち着けようと、心の中で自分を叱咤していると、ふいに膝の上の手に何かが触れた。
(……? ……っ!!)
見下ろして、目を疑った。
クリス様のひんやりとした革手袋の指先が、私の片手を取り上げ、自分の方へと引っ張ったのだ。
私の指先は彼の手にそっと握られ、座っている二人の間に静かに下ろされた。
「〜〜〜〜っ!! ク……」
なぜだか顔が真っ赤に火照る。私は混乱したまま彼を見上げた。
クリス様は淡々とした表情で、通りの外れにある店を見ている。
「……あそこの店は紅茶の専門店か?」
「……え? あ、そうみたいですね。……み、見に行ってみます?」
照れくささと、きっと無理して手を握ってくださっているのだろうという申し訳なさで、私は若干挙動不審になりながらそう返事をし、立ち上がろうとした。するとクリス様がさらりと言う。
「そうだな。君がいいと思う品があれば、母君にでも贈るといい。俺も選ぼう」
「────っ」
(……どうして、私の考えていることが分かるんだろう)
母を想っていたことまで、お見通しだったのだろうか。
ふいに、もっとこの人に触れてみたいという強い欲求がこみ上げる。
けれどそれを押し殺し、私はほんの少しだけ、握ってもらっている指先で彼の手をきゅっと握り返した。そのまま手を離そうとしたけれど、クリス様は私の手を握ったまま立ち上がり、歩き出した。
手を引かれ静かについていきながら、自分の頬がどんどん熱くなるのを感じていた。
冷たかったクリス様の革手袋は、握っている私の体温でだんだんと温かくなる。
少し離れた後ろから、ラーラがグスッと鼻をすするのが聞こえてきた。