18. クリス様の苦悩
「……はい。承知いたしました」
私たちは立ち上がり、おそるおそる距離を縮める。……どうしよう、緊張する。いくら互いに上着を羽織っているとはいえ、こんな薄い夜着姿で腰を抱かれて踊るなど……夜会での礼装とドレス姿の時よりも、はるかに体のラインや体温を感じてしまうではないか。
そんなことを考えながら黙って突っ立っていると、クリス様が気まずそうに口を開いた。
「……手袋を着けても構わないか」
「っ! も、もちろんでございます。私も着けますね」
「ありがとう」
うん。たしかに、夜着姿に素手は一層無理だ。私たちには難易度が高すぎる。……けれど、互いに引っ張り出してきた手袋を着用してまた同じ立ち位置に戻ってくると、なんだか自分たちの珍妙な姿が妙に笑えてきた。くつろいだ夜着と上着に、フォーマルな白手袋。音楽もない中、夫婦の寝室でダンスの練習。私たちは一体何をやっているんだか。
「……ふ。面白いな、この状況」
クリス様も同じことを思ったらしい。珍しく楽しそうな笑顔を見せた。
「ふふ……本当ですね。でも、今の私たちらしいですわ」
「ああ」
……向かい合って一緒に笑い、緊迫していた場がだいぶ和んだ。今なら大丈夫かもしれない。けれどクリス様が一向に動く気配がないので、一言声をかけてみた。
「……では、よろしくお願いいたします」
「……。……ああ」
そう答えたクリス様の声は、少し上擦っている。彼から手が差し出されるのを、私は根気強く待った。
たっぷりと時間をかけ、ようやくクリス様がその長い指先を、じわじわと私の方へ差し出した。彼を萎縮させないようにと、よりゆっくりとした動きで、私はその手の上に自分の指先をそっと重ねた。
「……っ」
クリス様の手がかすかに震え、息を呑んだ気配が伝わる。ちらりと顔を見上げると、彼は強張った顔で私の手を凝視している。私はそのまま辛抱強く待った。
やがてクリス様の右手が、私の腰の辺りへと伸ばされる。けれどその手は私に触れることなく、宙で止まってしまった。クリス様はしばらくの間逡巡し、そしてついに、再び右手を動かした。
私の夜着に、彼の手が触れる。腰の辺りにほんの少し感触が伝わる程度の触れ方ではあったけれど、今夜はもうこれで十分な気がした。
けれど。
「……このまま少しステップを踏んでみますか?」
私が彼の顔を見上げ、そう言った瞬間。
目が合ったクリス様は、ヒュッと息を呑むと、まるで汚いもののように私の手を振り払い、一歩後ろに下がった。
「……あ……っ」
しまった、というクリス様のその表情を見て、胸の奥に小さな痛みが走る。思わず私は目を伏せた。
クリス様は狼狽した声で、懸命に詫びはじめる。
「……すまない、リア。誓って言うが、君のことを不潔だとか、そんな風に思っているんじゃないんだ。君には一切、何の落ち度もない。さっきも言った通り、俺は君を一人の人間として尊敬している。女性として、君がとてつもなく魅力的だということも理解している。ただ……」
俯く私に向かって一息にそう言うと、クリス様は言葉を詰まらせた。そして深くため息をつく。
「……俺自身の問題だ。本当に、すまない……」
「……クリス様……」
彼はついにその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込むと、両手で頭を抱えてしまった。
「君を傷つけるつもりはないんだ。大切な妻だと認識してもいる。それなのに……ああ……」
背中を丸めたまま、まるで自分に言い聞かせるようにそう呟くクリス様のその姿は、何だかもう、どうしようもなく痛々しくて、不憫で。
私はつい隣にしゃがみ込み、その背に手を伸ばした。そしてハッと我に返り、慌ててその手を引っ込める。……そうだ。こんな時に、この人に触れて慰めることさえしてはいけないんだ。
「……クリス様、大丈夫です。ちゃんと分かっていますから。私のことはお気になさらないでくださいませ。ね? 今夜はもう、ここまでにいたしましょう」
「……」
しゃがみ込んだままズリズリと後ろに下がって少し距離を取り、私は頭を抱えているクリス様に声をかける。
「また時間を置いて、再挑戦しましょう。今夜はもう遅いですし……」
「……ああ……」
「お先にお休みくださいませ。さ、手袋を。片付けてまいりすので」
そう言って私が手を差し出すと、クリス様はようやくヨロヨロと顔を上げた。髪も乱れ、その顔はぐったりと疲れ切っているように見える。
「……すまない」
少し掠れた声でそう言うと、クリス様は素直に手袋を外して私に渡してくださった。手に触れないよう注意してそれを受け取ると、私は部屋の灯りを落とす。
クリス様がベッドに向かうのを見届け、私は天蓋を引き、一旦扉続きの私室に下がった。そして自分も手袋を外し、彼のものと一緒にテーブルの上に置くと、そのままバルコニーに出る。そこでようやく、私も盛大にため息をついた。
(これは……相当前途多難だわ……)
トボトボとバルコニーを歩き、欄干に両手を添え夜空を見上げながら、私はしみじみとそう思った。クリス様だって必死なのだ。王太子としてのご自分の責務をしっかりと理解しているからこそ、何より苦手な女性との、この私との触れ合いを、克服しようと頑張っている。けれど、このままじゃ……。
(……本当に……どうしてクリス様は、ああまで女性を苦手になってしまわれたのかしら……)
きっとクリス様には、過去に何かがあったのだろう。
深い心の痛手を負う、何か特別な出来事が。
私はもう、そのことを確信していた。
けれど本人が何も話さない以上、無神経にそこを掘り返すわけにはいかない。
(これから、どうしよう……)
こんな訓練を繰り返していれば、私たちは少しずつでも前進していけるのだろうか。クリス様の心は、それに耐えられるのかな。
私だって相変わらず男性に対するトラウマを抱えたままではあるのだけれど、自分よりもはるかに傷が深そうなクリス様を前に、もはや彼のことしか考えられなくなる。どうにかしたい。助けてあげたい。
夜風に吹かれながらしばらく思案を繰り返した後、私は静かに夫婦の寝室の扉を開けた。
天蓋の隙間をそっとくぐり、ベッドを見た私は、目が点になった。
(……あれ? クリス様……)
いつものように、キングサイズのベッドの奥の方に眠っているクリス様。私に背を向ける形で、規則正しい呼吸を繰り返している彼だが……ベッドの上には毎日必ずあるはずの、ブランケットの防波堤がなかった。こちらから彼の姿が丸見えだ。
(よっぽど疲れていらっしゃったのね……。防波堤作るのも忘れて眠ってしまわれるなんて)
もしかしたら、手を振り払ったことで私を傷付けてしまったと後悔して、気が回らなかったのだろうか。そう思うと、なんだかどうしようもなくクリス様のことがいじらしく思えて、胸の奥がキュッと甘く締め付けられる。
彼の背中を、無性に抱きしめたくなった。まぁ、彼にとってそれは拷問なのだが。
(……もう、いいか。今夜はこのままで。お休みなさい、クリス様)
彼の体にそっとブランケットをかけ、私はベッドの反対側の端でいつものように目を閉じた。
その翌朝は、クリス様の「うわぁっ!!」というすごい叫び声で目が覚めたのだった。