14. 互いの覚悟
その夜。
私とクリストファー殿下は、夫婦の寝室でようやく二人きりになった。
向かい合い座ったまま、互いに一言も発することなく、室内には重苦しい空気だけが漂っていた。殿下は眉間に皺を寄せ、腕を組んで視線を落としている。
「……とんでもないことになっちゃいましたね」
ついに私は口を開いた。おそるおそる様子を窺ってみるけれど、殿下は相変わらず苦虫を噛みつぶしたような顔で口を噤んでいる。
(……まさか結局王太子妃になるだなんて。きっと父は狂喜するだろうな。……でも……)
目の前の夫は明らかに困惑し、参ってしまっている。結婚式の時に顔が近付いただけで、あれほど露骨に不快そうにしていたお方だもの。まぁ私もだけど。突然本当の夫婦になる必要性に迫られたとて、すんなりと受け入れることは難しいわよね。
……でも、もし私ではなく、他の女性だったら……? 私よりは幾分マシだとか、そう思えるお相手が、他に見つかるかもしれない。
これ以上困りきっている姿を見るのが忍びなく、私は小さな声で提案してみた。
「……離縁していただいても構いませんよ、殿下。私のことは……」
どうぞお気になさらず、修道院送りになったとしても、それもまた運命と受け入れますので……などと言おうと思っていたが、クリストファー殿下は弾かれたように顔を上げ、強い視線で私を見つめる。
「馬鹿なことを。そんな中途半端な気持ちで、君と結婚したわけじゃない」
「……え?」
私が問い返すと、殿下はやや気まずそうに視線を逸らす。
「いや、もちろん言いたいことは分かる。当初の計画とはまるで違った結果となってしまった。あれほど練った白い結婚契約の内容も、全て水泡に帰したわけだ。……だが、だからといって君を見限るはずがないだろう。俺たちは神や国民の前で誓い合い、正式に夫婦となった。この結婚が白かろうが白くなかろうが、君と共に国政を支える一柱となり、生涯を歩んでいく覚悟に変わりはない」
「……殿下……」
彼の真剣な表情とその真摯な言葉は、私の胸を打った。私はこの方にとって、都合の良い白い結婚の相手というだけではなかったらしい。あの秘密の契約を抜きにしても、殿下は私のことをちゃんと妃として認めてくださっている。
「……君は?」
クリストファー殿下はそう言うと、再び私の目を見つめる。
「俺の気持ちは今話した通りだ。ひそかな白い結婚を続ける第三王子夫妻ではなく、王国の未来を担う王太子夫妻となるにしても、変わらず君と共に人生を歩んでいく覚悟は、すでにある。状況が変わったからといって、妻まで変えようなどとは微塵も思わない。……その……、つまりだ。後継を残すための努力も、もちろん君としていきたい。……と、思う……」
……最後の方は幾分自信なさげに聞こえるのですが。そして眉間の皺が一層深くなっていらっしゃいます、殿下。
「君の気持ちは、どうなんだ。後継を成すことは、王太子夫妻としての大きな責務の一つだ。この半年間のように、公務にさえ邁進していればいいというわけにはいかなくなった。俺は王子である以上、その立場から逃れる選択肢はないが……君にはまだ、他の選択肢を用意してやることもできる。君がどうしても王太子妃など無理だと言うのなら、俺にできる限りの手助けはするつもりだ」
(……クリストファー殿下……)
たった今ご自分の覚悟の程を示しておきながら、ここに来てまだ、私にだけは逃げ道を用意しようとしてくださっている。ジョゼフ殿下の生誕祭の場で、私に救いの手を差し伸べてくださり、私にとっても都合の良い結婚契約までしてくださった。さらになお、状況が一変した今、私に選択肢を与えようとしてくださる。
ご自分は逃げることはできないのに。
これまでこの方に対して感じたことのなかった、言い表せない複雑な想いに、胸の奥が熱くなった。
触れ合うのは嫌だ。恐ろしいし、気持ちが悪い。私のその感覚に、今のところ変化はない。けれど、それでもこの方のおそばを離れたいとは思わなかった。
「……私も、クリストファー殿下と同じ気持ちです。たしかに、互いに合意の上での白い結婚契約は、私にとってこの上なく都合の良いものではございました。殿下に心から感謝いたしましたし、可能ならば、ずっと続けていきたかったです。……ですが、」
打ち明けながら、一層覚悟が固まっていく。私は目の前の澄んだ青い瞳を見つめ、堂々と言った。
「そもそもはこの私とて、王太子妃となるべくバークリー公爵家で厳しく育て上げられてきた身です。白い結婚が続けられないからといって、尻尾を巻いて逃げ出すつもりはございません。培ってきた知識の全てを活かし、殿下の隣でこの王国のために生涯尽くし、そして……後継を産みます」
殿下はその美しい目を見開き、私を見つめている。自分に言い聞かせるように、私は言葉を重ねた。
「ですから改めまして、クリストファー殿下。白い結婚契約は撤回し、今後は普通の夫婦として、よろしくお願いいたします」
クリストファー殿下は安心したように、ほんの少し表情を緩めた。
「……ああ。ありがとう。……となると、問題は……」
そう言いながら殿下が視線を滑らせた方向に、私もつられて目を向ける。
二人が見つめる先には、毎夜防波堤を築いて眠っている、キングサイズのベッドがあった。