1. 王太子からの婚約破棄宣言
(何をしているの私……! 早く……早くこの手を取らなくては……)
自分のすべきことははっきりと分かっているのに、どうしても体が動かない。
皆が見ている。王家の方々が、このイヴリンド王国中の貴族たちが。そして……父が。
フロアの中央でこちらに手を差し出したまま、怪訝な表情で私を見つめる、ジョゼフ・イヴリンド王太子殿下。そのややくすんだ銀髪の下から見える漆黒の瞳が、私に対する苛立ちで徐々に険しい光を帯びる。
ざわめきだす大広間。無意味に流れ続ける音楽。
彼に伸ばそうとするこの手は大きく震え、その動作を拒絶する。
私は結局、差し出された殿下の手を取ることができなかった。
「音楽を止めろ!」
どのくらいの時間が経ったのだろう。ついにジョゼフ王太子殿下が鋭い声を上げた。俯いていた私の肩は大きく跳ね、広間は静まり返る。
目の前に立つジョゼフ殿下は、さらに一歩、私に距離を縮める。反射的に私はその分後ずさった。
(……あ……)
しまった。そう思った瞬間、殿下の低い声が頭上に響いた。
「……一体何のつもりだ、フローリア。この俺の生誕祭で、婚約者であるお前がファーストダンスの相手を拒むばかりか、そのように俺を避け、距離を取るとは。まるでこの俺を汚いもののように扱うではないか。……以前からお前は無愛想で、可愛げがないとは思っていたが……。そんなにも俺が汚らわしいか」
「……っ、」
静まり返った大広間中の視線が、私に注がれる。きっと父も今、射殺すほどの鋭い視線で私を睨みつけていることだろう。
だけど、言葉が出ない。あれを見てしまったとは言えない。ここで理由を説明するわけにはいかない。
どうにか謝罪しようと口を開いてみるけれど、さっきの光景が脳裏に焼き付いていて、言葉を発したら嘔吐してしまいそうだ。
殿下は大仰なため息をついた。
「……もういい。こちらも我慢の限界だ。大切な記念の日を、こうしてお前に台無しにされた。バークリー公爵家の長女であり、長年の婚約者でもあるからと、俺なりにお前を丁重に扱ってきたつもりだ。だが……、このような屈辱を受けてまで、お前を尊重する理由はない。フローリア・バークリー、俺は今日この場で、お前との婚約を破棄する!」
(────っ!!)
殿下のその言葉に、心臓が痛いほど大きく脈打った。大広間中から息を呑む気配と、悲鳴のような小さな声が上がり、ざわめきがまた徐々に大きくなる。
「……ジョゼフ」
その時、国王陛下の迫力ある低い声が響いた。この場にいるのは貴族たちばかりではない。国王陛下、それに王妃陛下や側妃様、さらに、第二、第三王子殿下もいらっしゃるのだ。自分の失態の大きさを痛感し、背中を冷や汗が流れる。
ジョゼフ殿下は国王陛下の方を強い視線で見定めると、声高に言った。
「国王陛下、重々承知しております。王命による婚約を交わしたバークリー公爵家の令嬢を簡単に切り捨てることは許さぬと、そう仰りたいのでしょう。ですが陛下、俺は以前から何度も申し上げておりました。フローリアは俺を侮っていると。さらにはこうして国中の重鎮が集まっている場で、俺に恥をかかせた。これはもう、俺への明確な拒絶と受け取って間違いないでしょう。この者は俺の妃となり、俺を支えていく気持ちなど毛頭ないのです。いかに優秀な令嬢であろうとも、こんな女とは連れ添うことはできない。俺は今日限りでフローリアとの縁を切り、あちらにいる、エヴァナ・オーデン男爵令嬢を我が婚約者として迎えることを宣言します。……おいで、エヴァナ」
(……え?)
ジョゼフ殿下はつらつらとそう宣うと、広間の端に向かって呼びかけた。すると。
「殿下ぁっ!」
オレンジがかった赤い巻毛に栗色の瞳の可愛らしい令嬢が、桃色のドレスを揺らしながらジョゼフ殿下の元へと駆け寄ってきた。全員の視線がそちらへと移る。
その令嬢はジョゼフ殿下の元へ辿り着くと、そのまま殿下の胸の中へと飛び込んだ。
ジョゼフ殿下は守るように彼女を抱きしめ、そして私を睨みつける。
「エヴァナはお前とは全てが違う。愛らしく素直な努力家だ。いつも陰で俺を支えてくれていた。俺はこのエヴァナと共に、イヴリンド王国の未来を守っていく」
……まさか、この場に彼女を呼び出すとは。
目の前でしかと抱き合う二人の姿は、つい先ほど庭園の奥で見かけた彼らの濃厚なラブシーンを思い出させ、胃の中が熱く滾るような感覚がした。反対に指先はすうっと冷たくなっていく。めまいを覚え、私は無意識に両足を踏ん張った。
オーデン男爵令嬢は、ジョゼフ殿下の胸に埋めていた顔をチラリとこちらに向け、私だけに見える巧みな角度で、勝ち誇った笑みを漏らした。
数多の視線が、大広間のあちこちから体に突き刺さる。晒し者になっているのが辛くて、私は肩を竦め、ギュッと目を閉じた。消えてなくなりたい。
その時。
凛と澄んだ声が、広間のざわめきを裂くように響いた。
「そうか。ではそちらの令嬢、俺が貰い受けよう」