2025年2月9日、日曜日
日記開始。現在私はK大学 学部の一回生であり、その立場の終わりにある。大学生として約一年間生活してみて気づいたのは一年とはなんと短いことか、ということである。短いとは言っても残念ながらそれはあまりに楽しくてあっという間に終わってしまったということではなく、あまりにも何も起こらなかったということである。もともと希望を胸いっぱいに抱えて大学生になったわけでもないからそこに大きな悲しみが伴っているわけではないが、やはりあまりに淡白な一年であったように思う。
学問への情熱もなければこれと言って熱中している趣味もない。やはり何かを見つけようと能動的に行動することが現状を打開する近道なのであろうが、何かに一生懸命になりたいという思いさえ薄っぺらなものであるからどうしようもない。しかしこのコピー用紙のように薄っぺらな思いと同程度の努力ならできるように思う。例えばもし"それ"が目の前に落ちていた時、しゃがんでそれをつまみあげる程度のことならできるだろう。
そこで日記である。これから毎日寝る前に日記を書くことにする。とは言っても普通に生活していてもこの日常に特筆すべきことはないように思われる。するとやはり日常の細部に目を向けなければならないだろう。その日の空、その日歩いた道、その日話したこと。どれも大したことではないだろうがそれでも日記を書くためにはそれを注視するようになるだろう。きっとその多くは私の人生に何の貢献もせず私の中から失われていくのであろうが、もしかすると、きっとそんなことは起こらないであろうがしかし、もしかするとその中に"それ"がひょっこりと顔を出すかもしれない。その時私はきっと"それ"をしゃがんで、つまみあげることができるだろう。
つまりこの日記は人生の宝くじに他ならない。多くの人は理解している。宝くじは当たるものではない。少し日常に彩りを与えてくれるだけのものであると。あの小さな切れ端に収まる程度の夢しか詰まってなどいないと。しかし同時に、人々は夢想するのである。もし大金を手に入れることができたら、もし一生働かなくても遊んで暮らせるだけの金が手に入ったら。私にはこれが非常に愚かな行為にうつる。理性的にありえないと判断しているのにもかかわらず、それにすがろうというのはまるで操り人形のようである。もしくは釣り堀の魚である。しかしどういうわけか自分がこんなことを始めるというのだから不思議なものだ。今もきっと見つからないものがもし見つかったらと思っている。やはり進んで馬鹿になろうというのだからその分の見返りが欲しいところではあるがそれすらないのが悲しいところだ。
さて、その第一歩として今日あったことを記していきたいと思う。今日は日曜日ということもあり高校時代の友人とゲームをした。とはいっても私は東京から大学進学とともに引っ越した身であるためネット上でである。しかしこれは今日の日記の主たる内容ではない。今日、猫を見た。
それは昼頃のことである。私は薄味な日常を過ごしていることもあり時間は有り余っているから、大学生としては料理をする方だ。時間も金銭にも余裕があるため料理は全く苦ではなくむしろ楽しいことではあるのだが、一つ問題となるのが材料の買い出しである。生まれながらの出不精の私にとっては近所のスーパーへ出かけるのもおっくうであり、できる限り出かけることが少ないように買い出しはしているがやはり常に終わりは来るもので、冷蔵庫が肉類を完全に失ってしまった今日、私はついに重い腰を上げたのだった。
家からスーパーまではせいぜい500メートル程度ではあるが、少しでも負担を和らげるため自転車を使っている。住んでいるアパートに併設された駐輪場のカギを開け、そこからちょうど20歩ほどのところから学生生協で最安値だった自転車を取り出し出発した。鶏のもも肉が100gあたり118円と安売りだった。
それは帰りのことである。行きと同じ道を通って駐輪場の前で止まる。右手で自転車を押さえながら左手でカギを取り出し差し込む。そして勢いよくドアを開けたとき、その存在が目に飛び込んできたのだ。それは猫だった。しかしただの猫ならばわざわざその存在という必要はない。ただ「猫がいた」と書けば良い。正確にはそれは"猫のようなもの"であった。まず鮮やかな緑色である。うっすらと緑がかった色ではなく鮮やかな、美しい緑であった。次に目に入るのが二本の尻尾だ。妙に長くしなやかな二本の尻尾がゆらゆらと揺れていた。もっとしっかり観察してみようと思って少しずつ近づいてみた。しばらくこちらを見ていたが、すぐに走り去ってしまった。