国民的女優と愛の巣にて
今日から一週間、氷華は家を空ける。
宮城で撮影があるらしい。
「みーくん! 新幹線で絶対に帰ってくるから!」
「帰って来なくて良い。帰って来なくて良いから」
「え……ねぇ、なんで? ねぇ! なんで? もしかして私と会いたくないとか? ふーん、そっか。ふーん。それならお仕置が必要だね。私のことしか欲さない身体にしてあげようか」
「なんでそうなるんだよ。毎日毎日帰ってきてたらお金勿体ないじゃん。大体新幹線なんて往復幾らすんだよ」
「別にお金なんて湯水のようにあるんだから気にしなくて良いんだよ」
「気にしてよ。少しは気にしてよ! あとは……そう、氷華の身体が心配だから。撮影って心身ともに疲弊するでしょ。俺、役者じゃないし、その道に明るくないから詳しいことはわかんないけど。それならゆっくり休んで、一週間後元気な状態で会おうよ」
「みーくんは私の事心配してくれてたんだね。ふふふ、私のためを思って……私のため……私のため……ふふふ。そうだね。そうしよっか。お土産に牛タンとずんだ買って帰るね」
「うん、待ってるよ」
というような感じで送り出した。
宮城くらいなら日帰りは別に不可能ではない。
一週間続けるとなると身体的負担は大きいのだが。でも、氷華ならやりかねない。そんな恐ろしさがある。
なにはともあれ、これでゆっくりできる。
どっかに監視カメラが仕掛けられていなければ尚のこと良いのだが……。まぁ、どっかにあるのだろうな。というか、前科があるので多分どっかにカメラを隠しているはず。
もちろん探し出そうとすれば氷華は信用してないんだと不機嫌になるし、見つけてしまえば逆ギレされる始末。
ちょっと……いや、だいぶ面倒だ。
一人は大体一ヶ月ぶりだろうか。
テレビの音声が虚しく流れるだけで、思っていたよりも静かな空間であることを思い知らされる。
ヤンデレ氷華との生活も案外楽しいと思っていたということだろう。
でも、やっぱりヤンデレじゃない方が嬉しいな。
◆◇◆◇◆◇
いつもよりちょっとだけ早目に登校する。
家にいてもやることないし。
かといって、学校に来たらやる事あるのかと問われるとそういうわけでない。
実際問題、やることなくてこうやってただただぼーっとしているだけの時間を過ごす。
「暇だ……」
「おう、暇なのか」
「絶望的に暇だ……って、おおおう」
ひょこっと現れた男に驚き、思わず肩を震わせてしまう。
「なんか久しぶりだな」
へへっと笑う短髪の男。
爽やかなイケメンだ。
肩幅は大きく、身長もデカイ。でも、スラッとした体型に見えるのはそれだけ身体が引き締まっているということなのだろう。
「マジで久しぶりじゃん。一年の時以来じゃね」
「ちゃんと話すのはそうかもなー。たまたま朝練早く終わって教室入ろうと思ったら澪がぼけーっと座ってたから何してんだコイツと思ってさ」
野球のグローブを抱えている。
精力的なことで。
「てか、氷華ちゃんは? 今日はいないの」
「ドラマの撮影で今日から一週間休み。仙台だってさ」
「仙台って政宗じゃん。あ、愛姫メインの作品がドラマ化するんだっけ。それの撮影か」
「詳しいことは何も聞いてないけどそうなのかもね」
「そういうのはしっかりと聞いておけよ。澪の特権じゃん」
「陽彩が思っている以上に家ではそういう会話しないぞ」
「冷めてんなー」
「あっちが熱すぎんだよ」
俺の言葉に陽彩はあぁと威勢のない返事をしたのと共に微苦笑を浮かべる。
「変わんないんだな。氷華ちゃんも」
「変わってくれたらどれだけ嬉しいことか」
陽彩は氷華の裏側を知っている数少ない一人だ。
貴重な存在である。
「でも、澪がゾッコンだったアニメキャラもヤンデレなんだし、案外悪くないとか思ってるんじゃないの」
「アニメはアニメ、現実は現実だよ。そもそも現実のヤンデレとメンヘラは需要ないんだって」
「そういうもんなのか」
「そういうもん。そういうもん」
ほーんと、興味深そうに頷く。
陽彩は野球一筋でアニメとかそこまで詳しくないからね。
「そんな澪だけど、彼女はヤンデレ……と」
「まだ付き合ってねぇーから」
「なになに。まだ付き合ってないの? あんなに仲良くて同棲してるのに? 付き合ってねぇーのかよ」
「現状でさえこんななのに付き合ったらどうなるか考えてみろよ」
陽彩は肘をつき、んーと口を尖らせる。
「ヤンデレが加速しそうだな」
「しそうじゃなくて絶対にするんだよ。下手したら俺殺されるぞ」
「アハハ、有り得るかもな。葬式には出てやるよ」
他人事のように笑う。
いや、他人事なんだろうけど。
放課後。
今日は陽彩を家に連れてきた。
たまたま放課後に部活がないということで、たまには遊ぼうぜっていう話になったのだ。
ファーストフード店やカラオケなんかでダラダラ時間潰すのも悪くはなかったが、せっかく家が空いているので招待することにした。
「ここが愛の巣かー」
「おい、愛の巣言うな」
「概ね間違ってねぇーだろ」
ケラケラ笑いながら陽彩は家に上がる。
「思ったよりも片付いてるんだな」
「俺だけが住んでるわけじゃないしな」
「たしかに氷華ちゃんそういうところはキッチリしてそうだもんね」
「他のところもキッチリしてくれると嬉しいんだけどな」
陽彩がギャップ萌えだ、ギャップ萌えとか言っているが無視する。
適当に映画を観て、適当にゲームをして、適当な時間で解散する。
特になにがあったわけではない。
生産性という観点においては一ミリも有用な時間ではなかった。
それは間違いないのだが、ゲラゲラと誰かを気遣うことなく笑っていられて、隠し事も特になく素直会話できるこの環境が最高に楽な空間であり、幸せな時間であった。
陽彩が帰宅してからしばらくするとスマートフォンに着信が入る。
ちろりと画面を確認すると、氷華の名前が表示されていた。
撮影で家を空ける時はいつも電話をしてくる。なんでも声が聞きたいのだとか。
声を聞いて、そのままぐっすりと眠りたいらしい。
それくらいなら可愛いもんだなぁと思う。
スマートフォンを手に取ろうとして、躊躇してしまう。
目線はスマートフォンから逸らし、目の前にある時計だ。
短針はまだ六を指している。
いつもであれば大体二十一時くらいに電話をかけてくる。
なんか若干早い。
何かあったのでは……思わず勘繰ってしまう。
撮影トラブルで撮影期間が伸びちゃったとか、そういうことなら良いのだが……怪我したとかそういうことだって考えられる。
未だに鳴り響くスマートフォンへ恐る恐る手を伸ばし、緑色の丸をスライドする。
「もしもし。氷華? どうしたんだ」
『みーくん。ねぇねぇねぇねぇ。なんで、どうして、ねぇねぇ』
電話越しに聞こえるヤンデレモードの氷華の声。その後ろには車の排気音が聞こえたりする。どうやら外で電話しているらしい。
でも、まぁ、大丈夫そうだ。
心配して損したと思いつつ、眉間に手をやる。
そして、黙ってそっと電話を切る。
「元気そうでなによりだ。うんうん」
電話であれば無理することなく遠ざけることができる。
氷華が長期撮影で留守にしている間の特権だ。
また着信がくる。
スマートフォンの画面に表示されるのはもちろん氷華の名前だ。
『みーくん、ねぇ、なんで電話切ったの? おかしいよね。なんでなんでなんでなんで。悲しいよ。みーくんがそんなことするような人だとは思ってなかったから』
電話に出るなり猛烈な圧を感じる。
声だけでここまでの迫力を演出できるのなら、声優も目指してみたらどうだろうか。
きっと実力派として名を馳せることになる。
女優で大成功しているからそんな必要ないのかな。
「あー、ごめんごめん。なんか電波の調子悪くて切れちゃったみたい」
電波が悪いってことにしておけば、また電話を切っても不自然じゃなくなるし、再度電話をかけてくることもない。
我ながら完壁な言い訳だと思う。
『家にいるのに電波が悪い……ね。ふーん。私、家にいる時電波悪くなったこと一切ないんだけど』
なんでこういう時だけ妙に鋭いのだろうか。
「あー、えーっと。そう。たまたま。そう、たまたまね、モバイル通信からWiFiに切り替わっちゃったみたいで……」
『ふーん、そっかそっか。それじゃあしょうがないよね。ふふふ』
「分かってくれたなら良かったよ」
胸を撫で下ろす。
『それじゃあもう電話切れないね』
毛という毛か逆立ち、恐怖という感情が全身に迸る。
安堵したり恐怖したり、恐怖したり安堵したり、と感情が目まぐるしく移り変わり、迷子になってしまう。
「……」
言いくるめられたことに気付い俺は黙ることしかできない。
氷華が一枚上手だったのだ。
『みーくんさ、なんで私がこんな電話かけてきたと思う? 分かるでしょ』
「そうだな。なんでだろうなー」
『ふーん。とぼけるんだね』
「とぼけてるわけじゃ……」
『まぁ良いよ。教えてあげる』
教えてくれるらしい。
優しいじゃん……って、俺感覚麻痺してね。
こんな電話かけてくる時点で優しいわけねぇーんだよな。
『私たちの愛の巣に異分子を招き入れたでしょ。許せない。許せない。許せない』
「異分子って……別に陽彩を連れてきただけじゃん。女じゃないし、氷華だって知らない奴じゃないし。なにも問題ないだろ」
というか、やはりどっかにカメラ設置してんな。
本棚の隙間とか、観葉植物の近くとかが怪しいだろうな。
あとで確認しておこう。
『問題大ありなんだけど』
「どこかだよ」
『二人だけの空間に他の人が立ち入る。そのこと自体が大問題なの』
「大問題なの……って」
ただの家なんだけどな、ここ。
神秘的な所でもなんでもない。
『許さない、許さない。絶対に許さない。上書きしなくちゃ』
「う、上書き……?」
『そう。動物ってここは私の縄張りってマーキングするんだよ』
「いや、人間はしないよ」
『関係ないから。ふふ、待ってて。待っててねもうすぐだから』
「もうすぐって……」
背筋がぞわりとする。
顔を顰めたのと同時にガチャりと玄関の方から扉が開いたような音がする。
いや、そんな馬鹿な……。
俺は恐る恐る玄関へ顔を出す。
そこには華奢で華麗な女性が佇んでいた。
日本国民の九割が知っている国民的女優であり俺の幼馴染の鷺ノ宮氷華だ。
普通ならサプライズだって喜ぶところだが、俺には喜という感情は一切芽生えない。
ただ苦笑するだけだ。
「みーくん。会えて嬉しいね」
黙ってリビングへ戻ることしか出来なかった。
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