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国民的女優とその後

 その後、特に何も起こることはなかった。

 学校内ではもちろん、帰宅後もスキャンダルとしてネットニュースになることもなければ、SNSに情報が拡散されることもない。

 もしかしたら何かしら投稿しているかもしれないが、公衆の面前に出ることはない。少なくとも俺や氷華の目に入ることはなかった。

 あの先輩とやらは啖呵をきっただけで、有言実行するとは限らないし、所詮口だけだったということか。

 あの雰囲気ならそれも十分有り得る。小物感が凄かったし。しょうもない脅しをする時点で小物なんですけどね。


 「もし週刊誌に売られたならマネージャーから電話かかってくると思うんだよね。事実確認の電話がさ」


 氷華はソファーでスマートフォンを触りながらそう答える。

 どうやら顔に出ていたらしい。

 優しい眼差しが俺に突き刺さる。


 「そうか……え、待って。あの『仲の良い友達です』みたいなコメントって実際に本人に聞いてんの」

 「なんでそんなビックリしてんの……」


 氷華は呆れたような、声色を出す。


 「そりゃ聞いてるよ。事務所が勝手に公表できないでしょ。別に私たちアイドルってわけじゃないしさ。恋愛禁止なら事務所主導でコメントすべきだろうけど」

 「知らなかった……」

 「常識だと思ってたよ」


 まだまだ知らないことだらけである。

 となるな、あのコメントって案外信憑性があるのかもしれない。

 事務所の都合の良いように発表しているものだと思っていた、


 「とにかく私に連絡がないってことはまだあの写真も音声も売られてないんだろうね。私のスキャンダルなんて超大きいはずで他社に取られるわけにもいかないだろうし、仕入れたらすぐに事実確認するはずだもん」


 自信がありすぎる。

 ただ、氷華の言う通りで、氷華のスキャンダルって日本中に激震を走らせる。贔屓目抜きでこのくらいの評価だ。

 インパクトで言うのなら、総理大臣が任期中に浮気してました……ってくらいかな。


 「だから大丈夫。心配しなくて大丈夫だよ。まだなんも起きないから大丈夫」


 氷華は立ち上がると、俺の元へとやってきて、頬をむにっと摘む。

 そして引っ張ったと思えば、上へ下へと好き勝手動かして、パッと手を離す。


 「それに言ったでしょ。仮になにか起きたとしてもどうにかなるって。なるようになるよって」


 氷華は俺の後ろへ回ると、優しく頭を撫でる。懐かしさが蘇った。

 小さな頃を思い出す。

 優しく暖かな手が俺の髪の毛を包み込むのだ。

 昔はこんなんだったな。

 ワガママで泣き虫だった俺を氷華はあやしてくれていた。

 彼女は当時から一歩先を歩いていたのだ。

 小さいながら大人だらけの現場に連れて行かれ、大人たちに囲まれながら演技をする。

 そりゃ無意識でも大人になるよね。

 今はヤンデレという違う域で一歩……いや、数歩先を歩いている。

 ちょっと俺には追いつけそうにない。

 追いつきたくもないけど。


 「例えそれが私にとって、みーくんにとって思い描くものじゃなくても。どうにかなるし、どうにかして見せる」


 今の氷華はあまりにもカッコイイ。

 ヤンデレ要素は見る影もない。

 昔の氷華があのまま成長したらこうなるんだろうなって感じだ。

 もしかして俺は今、夢を見ているのではないだろうか。

 夢を夢として認識することができる明晰夢ってのも存在する。きっとそれだ。そうに違いない。氷華が家で、二人っきりで、こんなカッコイイ姿を見せるはずがない。


 「ちょっと今変なこと考えてたでしょ。みーくん。せっかく真面目な話してたのに」


 氷華は俺の顔を覗くように顔を見つつ、頬をむくっと膨らませた。

 あざとさ全開なその表情と共に、俺の頬をむにっと引っ張る。

 なされるがままで口は無理矢理開かれ、頬にじんわりとした痛みが走る。

 どうやらこれは夢では無いらしい。

 理想のカッコイイ鷺ノ宮氷華は目の前に存在するのだ。


 「みーくんからすれば嫌かもしれないけどね。私と一緒にどっか知らない場所へ逃げるってのは。でも、そういう選択肢もあるんだよ。ってのは覚えておいて欲しい。だからそんな思い詰めるほどじゃないんだよって」


 氷華は気恥ずかしそうに頬を撫でるように触る。どことなく寂しさも感じる。


 ヤンデレの氷華を嫌がっているの案外本人にも伝わっているのかもしれない。というか、伝わってるからそういう言葉が出てくるのだろう。じゃなきゃ、そんな言葉出てこない。

 申し訳ないことをしたなという罪悪感に苛まれたのと同時に、俺なにも悪くなくねという気持ちが湧き出る。

 だって、ヤンデレは嫌でしょ。

 愛が重いだけでも顔を顰めちゃうのに。


 陽彩の言う通り、俺はヤンデレキャラは好きだ。

 それは覆すことのできない事実である。覆すつもりも毛頭ないのだが。

 なんか好きになるキャラクターが尽くヤンデレであったり、ヤンデレ化したりするのだ。

 主人公と付き合えないなら死んでやると言ってみたり、主人公の行動を逐一日記にしてみたり、主人公を当然のように監禁してみたり。

 ただ、その愛の重たさは二次元だから可愛いなぁ……で済まされるのであって、三次元ともなれば話は別だ。しかも、愛の重たさは俺へ向けられる。その重たさに俺は押し潰されそうになる。

 厄介以外のなにものでもない。

 時折命の危険さえ感じなければならないのだ。

 氷華はヤンデレレベルで言えば高いとは言えない。だがそれはあくまでも、二次元と三次元ひっくるめたらだ。三次元だったら十分過ぎるくらいなヤンデレちゃんだ。ほんと勘弁して欲しい。


 ……。

 そう、とにかく、俺は悪くない。

 なんか俺が受け入れてないみたいな雰囲気になってるけど、違うからね。

 ヤンデレなのが悪い。


 「魅力的だと思うよ。それはそれで」

 「じゃあ学校なんかやめて今すぐ行く? マネージャーに女優辞めますって連絡しても良いけど」

 「やめないし、やめないで。最終手段としては魅力的だなって話だから」

 「そっか」


 氷華は露骨に肩を落とす。

 うぅ、心苦しい。

 そんな表情しないで欲しい。演技なのかな。


 「でも誰も私たちのことを知らない遠い遠い場所に行くのは本当にありだと思うんだ」


 氷華の瞳は冗談で灯せるようなものではなかった。

 本気と書いてマジと読む的な感じ。


 「いつかね。どうしようもなくなった時に逃げようか。俺も氷華も立ち行かなくなって、周りから石とか生卵とか投げられるようになった時は逃げようよ」

 「うん」


 別に犯罪を犯した訳じゃない、高校生という身分において、ちょっと高度な恋愛ごっこをしているだけ。

 ヤンデレな女の子と、それを受け入れずに適当に流し続ける男の絶妙な関係だ。

 嫉妬するものこそ現れても、全員が敵になることはないはず。

 いや、その嫉妬に塗れた人達の声がデカすぎるんだけどね。


 「氷華のことを知らない場所ってどこなんだって話なんだけどさ。海外かな。それもアフリカとかそっちの方」

 「日本が良いなー」

 「日本じゃ無理だろ。ド田舎でも鷺ノ宮氷華は有名なんだから」

 「ほら、一世帯しか住んでないようなド田舎とか。うーん、それかインターネットも電気も水道もガスも通ってないような山奥とか?」

 「それなら海外も似たようなもんだろ。なんなら海外の方が住みやすいまである」

 「そっか」


 具体的なようで全く具体的では無い夢物語を二人で描く。

 いつか、そのうち、もしかしたら……そんな仮定の話で進んでいく。

 叶うことはないし、叶うような展開は望むべきでないと理解している。それは氷華だって同じだろう。

 でも、それはそれ、これはこれだ。

 話すだけなら無料(ただ)、語るだけなら無料(ただ)なのだ。


◆◇◆◇◆◇


 人間とは不思議な生き物だ。

 その節々で不安に思っていることを夢に見るのだ。

 まるでシミュレーションでもしているかのように。

 勝手に脳みそが動いていて、生きているんだなということを実感させられる。


 「あぁ……変な夢を見たな。なんだったんだろう」


 氷華のヤンデレっぷりが全国にバレて、不純異性交遊だと大バッシングを受ける。

 テレビでも、ネットでも。学校に行けば道中で記者に囲まれ、帰宅すれば家の前で記者が待ち構える。

 氷華はいくらそんな事実はないと否定しても、世間は氷華叩きの方向へ話を進めたく、弁明を聞き入れることはない。

 そして、氷華は自ら命を――。

 って、ところで目が覚めた。


 額に手を当てながら、俺はぽつりと呟く。

 もさっと乱雑にはねる髪の毛を触る。

 カーテンの隙間からは朝日が差し込み、目は徐々に冴えていく。

 スマートフォンに手を伸ばし、時間だけ確認する。

 まだ朝の五時か。ちょっと起きるには早いな。

 いつもはぐっすり眠っている時間帯なのだが。変な夢を見たせいか。悪夢に魘されていたってことにしておこう。


 まだ一時間半くらいは余裕で寝られるなと思い、倒れるように寝そべる。

 白い天井を意味無く見つめ、したくもない欠伸を一つする。

 欠伸をすれば身体が眠いって勘違いするはずだ。眠らなきゃと脳みそが司令を出してくれるはず。

 瞳に欠伸によって出てきた涙が溜まり、視界は潤む。

 温かな涙を指で優しく拭い、ゆっくりと目を瞑る。

 瞼を貫通する明るい光。

 眠りたいという気持ちに覆い被さるようにしゃしゃり出る。

 意識をすれば外からは小鳥のさえずりも聞こえてくる。

 車のエンジン音なんかも聞こえてきて、目どころか脳みそまで冴えてきてしまう。

 こうなってしまえばもう二度寝は不可能だ。

 気持ちの良い朝を堪能する方向にシフトしよう。

 朝を満喫するにはまずスマートフォンを手に取る必要がある。

 スマートフォンは我々人類の生活水準を大きく向上させる文明の利器だ。

 ブルーライト? 中毒症状? そんなの知ったことか。

 コイツを奪われるのであれば死んだ方がマシだ。


 じゃなくて、今俺にはやらなきゃならないことがある。

 SNSアプリを開いて虫眼鏡マークをタッチする、キーワード検索という欄が表示されるのでそこに『鷺ノ宮氷華』と入力して検索する。

 数秒もしないで検索結果が表示される。

 最初は『話題』の欄が表示されるのでスワイプして『最新』へと移動する。

 すると、ズラっと検索結果が表示されるのだ。

 表示されるのは映画の宣伝であったり、コマーシャルを引用したものであったり、『鷺ノ宮氷華になりたい』とかいう訳の分からないメッセージだ。

 一晩明けて、写真やら音声やらが拡散されているんじゃないかと思ったがそんなことはなかったようだ。

 動くのなら夜中かなと思っていた。

 本当に口だけだったのかもしれない。

 こちらとしては動かない以上に都合の良いことはないんだけどね。ただ何も無いとそれはそれで警戒してしまうのもまた事実だ。


 特に用事もなくなったのでアプリを落とす。

 気持ちの良い朝であるが、やることがない。

 このままだと意味もなくだらだらと配信アップロードサイトで動画を見てしまう。

 良いのか、良いのか? 今日学校だぞ。

 せっかくの朝をそんなに無意味なことに費やして良いのか?

 とりあえずラジオ体操でもしておくべきか? いや、疲れるよな。

 自問自答しながら気付いたら赤色アイコンのアプリをタップしていた。

 手遅れだ。




 キッチンの方から香ばしい匂いが漂う。ウィンナーと卵の香りかな。

 ちろりと時間を確認する。もう七時になろうとしていた。

 時が進むのは早い。動画を見ているだけでこんなにも時間が進んでしまう。あぁ、虚無だ。


 この香りから推測するに氷華が朝食を作ってくれているらしい。

 いつもは俺が作っているのでなんだか申し訳ない気持ちになる。


 「朝から無闇矢鱈に動画を見るってのは良くないな。時間が溶ける溶ける」


 あまりの時間の進み具合に苦笑しつつ、スマートフォンを置く。

 くーっと背を伸ばし、起き上がる。


 階段を降りてキッチンへと向かう。

 香ばしくて、食欲を唆る匂いは歩けば歩くほど強くなる。


 「おはよう」

 「みーくん、おはよう」


 キッチンに顔を出し、声をかける。

 氷華は満面の笑みで俺を迎える。


 「珍しいな。朝食作ってくれるの」

 「みーくん起きてこなかったから。私も料理嫌いってわけじゃないし」

 「……そっか、ありがと」


 動画見てて時間を忘れていました、とはいえない。

 誤魔化すように笑いながら、感謝を口にする。

 嘘自体はなにも吐いていない。

 感謝していること自体は本当だし。

 ただ、忘れていたことを隠しているだけだ。


 「最近色々とみーくんにも負担かけてる自覚はあるし、少しくらいはね」

 「氷華と比べたら俺の負担なんて可愛いもんだろ。直接被害受けてるのは氷華なわけだし」


 俺はあくまでも間接的に被害を受けているだけ。

 というか、まだ被害を受けていない。あるのは被害を受けるかもしれないという危惧だけだ。

 氷華の心情を鑑みれば俺の負担なんて小さくて可愛いものである。


 「そんなの気にしなくて良いのに」


 氷華はそう言いながら一瞬キッチンを離れる。

 なにをするのかなと目で追っていると、爪切りを持ち出した。

 目を細め、首を傾げる。

 あれ、あれれ。

 朝食を作るのに爪切りって必要だっけ。

 人間の爪の煮込みでも作るつもりかな。ちょっと時間かかるような気がするな。ってか、聞いた事ねぇーんだけど、そんな料理。


 「その爪切りはなにに使うの?」


 恐る恐る訊ねる。


 「爪切りは爪を切るために使うんだよ?」


 氷華は何を言ってんだお前……というような目線を送ってくる。


 うん、そうだよね。

 爪切りは爪を切るための道具だもんね。

 でもね、それくらい俺も知ってるんだよなー。


 「朝ごはん作るのに爪切りって必要なのかなと思って。別に爪切りは無くても作れるでしょ? わざわざこのタイミングで切る必要も無いんじゃないかなって」


 地雷を踏まぬよう慎重に言葉を選ぶ。

 一歩踏み外せば奈落の底だと己に言い聞かせつつ慎重に、慎重に……。


 「でも、みーくんは疲れてるでしょ。なら私の爪を食べてもらわなきゃって思って!」


 さも当然みたいな表情だ。

 俺の常識がおかしかったのかな。爪って食べるもんだっけ。そんなわけないんだよなー。


 「爪の垢を煎じて飲むみたいに爪本体を食べさせようとするな」

 「えー、絶対に元気出るのに」


 氷華はむっと不服そうな態度を見せつつ、爪切りを元の場所へと戻したのだった。

 もしかして起きてこなかったら爪を食べさせられていたのだろうか。

 うぅ、恐ろしい子。


 卓上でご飯を食べる。

 テレビをつけるとニュースキャスターがこちらを見ながら喋り始める


 『昨日は全国各地で記録的な猛暑日を観測しました。その中でも全国最高気温である40.3度を観測した――』


 朝食を摂りながら、テレビニュースを眺める。

 まだ七月の中旬だというのにこの暑さだ。

 これが八月になったらと考えるだけで身震いしてしまう。

 果たして今年は何人の人間が暑さでやられてしまうのか。というか、俺は生きていけるのか。

 とりあえず塩分と水分はしっかりと補給しなきゃね。冗談抜きで死んじゃうよ。


 「うーん、氷華の話題は一切でないね」

 「だから大丈夫って言ったでしょ」


 氷華はウィンナーを突っつきながらドヤ顔を浮べる。


 「やっぱり心配なもんは心配なんだよ」

 「みーくんは心配性だなー」


 氷華はケラケラ笑う。

 俺が心配性なんじゃなくて、氷華があまりにも他人事なんじゃないだろうか。どういう心持ちであったとしても、その態度で居続けられるのは純粋にすごい。

 心配しなくて良いよって言われて、はいそうですかって言う訳にもいかない。

 本人は女優なんか捨てても良いと言うが、女優という肩書きを手放すのはあまりにも勿体ないと思う。

 今まで築き上げてきたもの。声名、地位、信頼、これらは欲して得られるようなものではないのだ。

 こんなことで失ってしまうのはあまりにも勿体ない。

 それに氷華は凄まじい演技力を誇っている。

 女優として、役者として、彼女はもう日本に欠かせない存在になっているのだ。

 日本の宝と言ったって過言じゃない。世界の宝にすら成りうる存在だ。あまりにも英語が苦手なので夢のまた夢なのだが。

 とにかくそんな彼女を失うのはあまりにも大きな損失だと言えるだろう。


 「むぐぅ……」


 フォークに突き刺していたウィンナーを俺の口へとぶち込む。

 言葉の通りだ。ぶち込まれる。


 「心配したってしょうがないんだよ。心配したら何も起こらないわけじゃないんだし」

 「そりゃそうだな」

 「だから気にしない。気にしない。ほら、ご飯食べないと冷めちゃうよ」


 氷華はそう言いながら美味しそうに食すのだった。


◆◇◆◇◆◇


 覚悟して学校へと向かう。

 公衆の面前に晒されていなかったとしても、学校内で広まっていないとは限らない。

 学校のコミュニティは狭い。本当に狭い。噂が一日で全生徒の九割に広がるくらいには狭い。

 日本中に情報を流すのに比べれば容易いだろう。

 噂と同じ感覚で流せば皆食いつくのだから、一々どうするべきかと考える必要もない。

 放流したらそれで終わり。


 ふと考える。

 仮に噂が流れていたとして、俺にできることはなんだろうか。

 丁寧にそれは誤解だと言って回るべきか。いいや、違うな。

 答えは一つ。堂々としていること。

 氷華がどのように場を収めようとするのかはわからない。

 であるのなら、どのように収めても良いように俺は堂々としている他ない。

 人任せでは無い。そこは勘違いしないで欲しい。


 ただ登校中も、昇降口でも、教室に入っても「氷華がヤンデレである」という話は耳に入ってこない。

 俺と氷華が付き合っているらしいというのは周知の事実となっているのだが。

 事実ですらないのだけれど。

 否定したらしたで色々と面倒臭さが残るので放置している。


 「よぉ、どういう風の吹き回しなんだ? 氷華ちゃん盗られたと思ったら、氷華を取り返してるし。なんなら付き合ってるとかいう噂が出てきてるし」


 突然教室にやってきた陽彩はグローブを頭に乗っけて、制汗シートで汗を拭う。

 チラッと教室の時計に目をやる。

 お前も見ろと口にはしないが目で訴える。

 陽彩は目線の動きだけで俺の意図を理解し、時計に目をやる。


 「もうホームルーム始まるぞ」

 「そんなん知ってる。朝練とホームルームの時間縫って聞きに来たんだよ」

 「なんでまたそんな」

 「訳分からんことになってるからに決まってんだろ。知らないところで話が転がってるのはなんかむしゃくしゃすんだよ」

 「要するにどうなってんだって問いただしに来たってわけか」

 「人聞きの悪い……でも間違ってもねぇーからより質が悪い」


 氷華が誰かと付き合っているらしい……という噂が流れた翌日に、俺と付き合っているという噂が流れる。

 俺とは付き合っていないと陽彩に否定してしまっているので、一つや二つ疑問に思うのは当然か。

 むしろ昨日のうちに押しかけてこなかったのが奇跡と言えるだろう。

 コイツならそういうことしてくるからな。


 「氷華がな……あぁ、色々あったんだよ」


 氷華からの視線。圧のようなものも感じる。

 説明しようと口を開いたが、圧に押し負け、俺は頬を触りながら誤魔化した。

 陽彩も最初こそ不満気であったが、氷華の目線に気付き納得するように頷く。


 「詮索すんなってことか」

 「陽彩になら事の顛末話しても良いとは思うんだけどね。あっちが嫌そうなら黙るしかないんだよな」

 「俺だって畜生じゃない。無理矢理教えろとは言わないさ」


 とんと机に手を置き、ぐっと顔を近付ける。

 こんがりと焼けた肌にすーっと通る鼻の筋。

 制汗シートのシトラスの香りが鼻腔を擽る。

 男だからなんとも思わないが、俺が女だったらイチコロだ。


 「とはいえ、結局付き合い始めたのかだけは気になるな。別になんでこんな感じに話がころがっているのかまでは探らないけど」


 そう言いつつも、嫌なら話さなくて良いぞと付け加える。

 目線の先は俺ではなく、氷華だ。

 俺も一緒になって目配せをする。

 特に反応はない。好きに話せってことだろう。沈黙は肯定だ。


 「付き合ってはない。前も話したろ。あれが全てだ。あれから何にも変わってない。むしろ時折悪化してる」

 「お前らのプレイに関しては聞いてねぇーよ」


 陽彩はケラケラと楽しそうに笑う。

 氷華の視線が痛い。


 「ま、とにかく、そうだろうなーとは思ってたよ。だからおかしいなって思ったわけだし」


 陽彩は納得したのか、うんうんと二度大きく頷くとひらひらと手を振って教室を去った。


 お昼休みになるまでは何も無かった。

 そう、お昼休みになるまでは……。

ご覧いただきありがとうございます。

投稿頻度を3日に1回に変更します。

次回更新は7月22日です。

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