レジスタンス
カオリさんが、僕が彼女の下で働き出してすぐに、何も知らない僕に教えてくれた。第二級反発勢力隔離地区、シンジュク、隔離された者達、危険分子として、潜在的レジスタンス勢力として、管理される人々、通称、セカンド。それが、僕であり、このシンジュク西公園に住まう僕の仲間達だった。日本政府が「言論と表現の法」によって規定する「反発勢力」には三種類あった。第一級が、思想犯、政治犯など、現行の日本政府の政策に対して、反発的な意見・思想を持った人々のうち、とりわけ民衆への影響力が強いとされた人々のことだ。名だたる学者達、著名な小説家、民主主義の価値を訴え続けた革命家、極端なイデオロギーを唱え続けた右翼・左翼の勢力に属する人々。彼らはその主張の色に依らずただ彼らの持つ思想が政府の正当性を損ないかねないという理由によって、第一級反発勢力として分類される。ある者は死刑に、ある者は思想犯用の刑務所に、ある者は監視を受けながらの生活を強いられ、ある者は国外に逃れて政府に反発する活動を続けている。彼らがいわば、抵抗の最前線にたつ人々。撃たれても撃たれても、血の滴る身体を無理矢理に起こしながら、自らの理想を貫こうとしている者達なのだった。そして第二級、彼らは「言論と表現の法」に逆らってでも、政府に反発的な自らの表現活動を辞めなかった者達、表現を試みた者達であった。編集者、ジャーナリスト、小説家、詩人、演劇家、歌手、ダンサー、評論家、エトセトラ………、第二級反発勢力に分類される者達の多くは、「言論と表現の法」の施行前の職業的な表現者達、そしてその子供たちだ。このシンジュク西公園の住民達の半分近くは、この第二級反発勢力に分類される者達で構成されていた。そして第三級反発勢力。彼らは、「言論と表現の法」への反発に、より物質的な利益を見出した者達であった。戦いはビジネスになる。反発は金を動かす。「言論と表現の法」の施行に前後して、自らのリソースをレジスタンス勢力に配分しながら、そこにビジネチャンスを見出した者達。ヤクザ者、武器商人、チンピラ、私的ボディーガード、セキュリティ会社のメンバーなどなど、間接的に第一級、二級の反発勢力をアシストする者達が、第三級反発勢力として位置づけられることになった。もっとも、第三級反発勢力の多くに対して、政府の迫害は無意味であった。彼らは、10年前の「言論と表現の法」の施行以前から、既に暴力団排除法をはじめとした、社会秩序維持のための各種法によって規律されていたし、何よりもともとの性質としてアンダーグラウンドをその生業とする者達にとって、法による押しつけなど無きに等しきものだったからだ。
そもそも「言論と表現の法」が作られた目的は、「国民の統合」であったらしい。以前に、カオリさんは僕に語った。約20年前、21世紀もまだ前半であった頃、日本は歴史上の転換点を迎えていた。若年人口の極端な減少によって、日本経済はこれ以上の進歩を諦め、いかにして衰退を押さえ込むか、保険制度や年金制度など、社会保障諸制度を維持するか、ということが問題となった。その問題について、政治部門は、増税によって対抗しようとした。金のある者から金のない者へ。若者から老人へ、という単純な流れをより複雑化した形で制度化し、できるだけ公平な分配を実現することで、社会保障制度による最低所得を保障しようと試みる政治的動きが有力に立ち現れた。しかしこの動きは失敗に終わる。世論は、社会保障を維持することを主張し、かつそれが一層充実することを望みつつも、増税には絶対に反対するというスタンスを崩さなかったからである。さらに連立与党は、次なる策として、移民の積極的な導入と外資の誘致により、経済及び財政の立て直しを図った。中国、ロシア、ブラジル、インド、韓国など、昔新興国と呼ばれていた国は、かつての日本とほぼ同じ、豊かな生活水準を実現し、そしてさらなる市場を求めていた。そしてこれからの世界経済の主役として成長が期待されていたASEAN諸国の人材は、洗練された形でのビジネスの方法論や、技術力を求めるべく、先進国と呼ばれた地域での労働をキャリアの一環として考える者が多くなっていた。また当然貧しい地域の者達は、依然として経済水準の高い日本での仕事を望んでいたのである。とりわけ、当時の日本は、遺伝子の改良について、非常に先進的な技術を持っていた。高品質の農作物の実現、強化された肉体の実現、臓器再生の実現、過去の遺伝的記憶の喚起の実現……、学問レベルでの研究は勿論、これは一国の産業構造を転換する潜在力を持っている分野であると、論者は語った。これが日本立て直しのための最終手段である、と当時の首相は宣言した。リスクのあるところにしか成功はない。痛みを伴うことのない「優しい治療」は、死に対する肉体的敗北を意味するのだ、と。一国家を人間の肉体に喩え、それを蝕む病の克服をどう成し遂げるのかを描いた彼の著書『優しい国の皮肉』(2031年)は、賛否両論含めて大いに話題を呼び、特に電子書籍版での売上が400万部を越えるなど、政治本としては異例の売上を誇った。彼は圧倒的なリーダーシップと共に次々に政敵を論破していき、日本が持つべき新しい国家像をグローバル化と移民の観点から全体的なヴィジョンとして示すことになる。しかし彼の強権的なやり方は、デマゴーグとして多いに批判を浴びることになる。とりわけ、移民の導入は、治安の悪化を招く、既存の雇用のパイを奪い合うことになるなどの批判が多く浴びせられた。これは従来の若者対老人という世代間の対立構造を超えて、より広い層に一定数存在している慎重派による批判であった。
この首相が過激な反対論者の凶弾に倒れたのは、2033年春のことであった、とカオリさんは述べる。あの銃声はね、世界を引き裂いたのよ。バラバラにね。シンジュク駅前での市井演説の最中であった。精力的に市民に自らの考えを訴えていた首相は、セキュリティに対して考えの甘いところがあった。銃声が鳴る。首相が倒れる。人混みが叫ぶ。ニュースはテロの勃発を興奮した声で告げた。
単に首相が殺された、という以上に、この事件をセンセーショナルなものとしたのは、首相を殺した女の経歴であった。女は、ある過激な新興宗教の幹部であった。子供の頃に自らの親を殺し、観察下に置かれる。その後娑婆に出てからも、盗み、結婚詐欺、横領、恐喝、売春の斡旋、嬰児遺棄と、各種犯罪を繰り返しては逮捕されていた。しかし、女は、40歳にして、新しい道に目覚める。それが宗教であった。教団が起こされて間もなく、その女は教団の教えに目覚め、入団を決意する。それ以降10年以上犯罪歴がなく、警察のマークは薄くなっていた。教団の教えはとてもシンプルなものだった。「神に使えよ」。教団は、あらゆる形での信仰を神は許す、と寛容な教えを説き、各自の自由意思を尊重しており、信者を急激に増やしていた。結局、誰もが神にすがりたいような時代だったのよ、とカオリさんは言っていた。
そして、女の経歴を特徴付けたのは、新興宗教の幹部であるということだけではなかった。女は著名な小説家であった。多くの場合、女の小説は、悪行の限りを尽くした女が、宗教的幸福に目覚め、自らの取り返しのつかない過去を悔い改め、救済を得るという筋書きをとっていた。女の人生を語っているかのような小説は、メディアに取り上げられ、多くの読者の感動を喚起し(私に言わせれば、とカオリさんは言う、それは安っぽい感動よ)、映画化もされていた。
こうした来歴を持つ女による、改革的な首相の暗殺事件。マスコミはこの事件を大きく取り上げ、話題とした。つまり、事件を面白おかしくしたてあげ、昼過ぎのワイドショーのニュースでの紹介から、偉そうな学者のコメントの引用に至るまで、最高のエンターテイメントとして扱ったのだった。要するに、日本の政治は既に死んでいたのだ。
2033年秋、一本の学術論文が提出される。『民主主義の破綻について』(霜月アキラ、東京大学、2033、)と題された論文において、著者は、古代プラトンの行なった民主主義への批判の引用から始め、国民が互いに矛盾する政策を、目先の痛みを避けることだけを考えて選択をする民主主義の下においては、国家政策としての持続可能性がないことを歴史的に論じ、春先の首相暗殺事件の銃声が、民主主義という「とても理想的な政治体制」に贈られたレクイエムであったと締めくくった。
この論文が注目を集めるきっかけになったのは、同年末の、日本の財政破綻である。『優しい国の皮肉』の実現は、世界に論文の存在を一気に知れ渡らせた。多くの国民が、職を失った。銀行に貯金されていた日本の円は、紙切れになった。食べるものに苦しむようになった。水を飲むのに、半日働かななければならない者がいた。路上には住む場所を失った者達があぶれ、この国は完全に希望を失ったかに見えた。一方で、事前にこうした状況を予測した者たちがいた。彼らの多くは財政破綻の以前から既に富裕層であったが、事前にリスクを察知し、国外に自らの財産を逃がしていたため、自らの生活を守ることができた。日本国内ではそうして生活格差が開いていった。ある者は路上で飢え、ある者は肥満のために死んだ。国内での階層間対立が激しくなり、国家的統合が損なわれていた。
そして、経済戦争がはじまる。日本の技術力、前述の通り、とりわけ遺伝子の改良技術は日本の独壇場となっていたが、そうした技術を持つ会社、技術者が海外企業に買収されるようになっていった。そればかりではなく、日本のマーケットは、次々に、海外勢に侵食されていった。
背中の財政崩壊、面前の経済戦争。そして左右には階層間格差に根付く格差。この国は、行き場を失った哀れな虫ケラだったのよ。とカオリさんは言った。彼女は時々だけれど、どうしてか、口にした自分を嫌悪してしまうような、とても残酷な言葉を使う。それで、それでどうなったんですか?と僕は尋ねた。
そんな時に現れたのが橋井ハルヒコという男だった。橋井ハルヒコ。彼は無名の自称政治家として突如政界デビューを果たすと、圧倒的なロジックと、人々の心を打つような感情的な演説とで、見る見るうちにその名を広めていった。危機は救われなければならない。後の歴史が我々のことを、戦うことを諦めた負け犬として記憶するか、抵抗することを選んだ戦士の世代として記憶するか、その問いの答えは他でもない、今ここに鳴り止まぬ一切の喝采と栄光の鐘とが、物語っているのだ。民衆は彼のことを、敬意を込めて、ミスターHと呼んだ。2034年、ミスターHは27歳という異例の若さで首相に任命されると、直ちに国家的非常事態を宣言し、日本国憲法の停止を国民投票の是非にかけた。賛成率84%という圧倒的な支持の下、憲法を停止することに成功すると、ミスターHは、一切の政治的決定権限を、ミスターHを中心とする数人のメンバーで構成される国家戦略室に移行し、議会を事実上停止した。国家戦略室のブレーンとしては、『民主主義の破綻について』の著者である、霜月アキラが選任された。彼もまた、27歳という、ポストの重みに似合わぬ異例の若さであった。ミスターHと霜月アキラは、国民の精神的統合の必要性を説いた。団結が必要だ、経済的侵略に立ち向かい、日本国民が再びその優位性をアジア及び世界に誇示するためには、まず何よりも我々の内部的団結が必要なのだ。「国民の統合」の名の下に、部分的に社会主義的な仕組みが作られた。富の再配分が、下層民衆のエネルギーを使うためには必要であったのだ。そして、国民の移動の自由を奪う法律が作られた。期限付きであったが、期限はほぼ自動的に更新されるのが、ミスターH・霜月アキラ体制下での暗黙の了解であった。富を持つ者、知識人はこれで重い税の負担を嫌って海外に逃げることができなくなった。海外諸国は、こうした独断的な政治状況に対して、自由主義国家の理念に反するのではないかとの声を当初あげていた。日本に対して介入すべきではないか。しかし、こうした意見もやがて失われることになった。日本は、人口構成の変化に対して、どのように立ち向かっていくのか、先進国各国が共通して抱えている将来の問題へのリーディング・ケースであったのだ。人類は全体としての人口爆発と、先進各国という単位での人口減少・生産年齢人口の減少という、未曾有の危機を迎えているところであった。問題に対して、演繹的に、ある仮説に依って対処することは可能ではあるが、確実ではない。確実性の担保には実験が必要である。そうした無言の国際社会の圧力の下に、日本は人類社会の存続をかけた、一大実験のモルモットとされたのだった。
「言論と表現の法」はこうした「国民の統合」「非常事態宣言」の大義の下に作られたと、表向きではされている。カオリさんは言う。彼女なりの憎しみの全てを込めて。あの怖い表情をしながら。言ってみれば大昔の言葉狩りといっしょよ。最初はエロとグロの規制から始まったわ。国民の精神誠意の努力をもって、立ち向かわなければならない非常自体において、風俗の堕落を招く、エロティックな描写及びグロテスクな描写、これを表現行為の一切として禁ずるってね。表現規制はエログロから、これは歴史の鉄則ね。そして、やがて規制は反政府的な思想、言論、ジャーナリズムの規制につながって、さらには反政府思想を喚起しうるとされた小説、演劇、音楽、一切の表現行為の規制にまでつながったわ。多様な思想表現は、国民の単一の意識の下での統合を妨げるって言ってね。他の職業の人たちには手厚く社会保障を実施して、ボロボロでもきちんと屋根のある家、質素でも生きていくことができるだけの食べ物を政府は渡してくれるくせに、「言論と表現の法」で反発勢力として認定された人からは全てを奪っていった。住むところ、財産、人間関係、名誉、著作物、著作権、自由…………。私はね、憎いのよ、当時まだ私は今のカンザキくんと同じ、無力な17歳の少女でしかなかったけれど、私だって小説家志望の端くれだったから、憎くて憎くてたまらなかった。まして、父親は本物の小説家だったしね、だから私は、あの男を…………恨んだのよ。そういう彼女の顔は、言葉とは裏腹に、怒りが消え失せ、どこか寂しげに見えたのを記憶している。