【73】降り立つもの、その名は
重力を無視したゆるやかな下降を経て、伯爵の傍へと降り立ったメガミ。
純白の法衣をまとい、ある種の崇高さすら感じさせるその佇まいを前にして、伯爵は悔恨さめやらぬ表情でかき集めた【腕輪】を掲げた。
「申し訳ない……。思わぬ邪魔が入り、このようなことになってしまった。折角貴方から、魔王討滅のためにと助言を賜っていたのに――」
『ああ、いいんですいいんです。仕方のないことですから。ガードリーさん、貴方はとてもよくやってくれましたよ』
「メガミ……。なんとありがたい言葉か」
そう呟いてうなだれる伯爵に、慈愛に満ちた笑顔を向けるメガミ。
そんな彼女に――俺はたまらず、口を開いた。
「……メガミ。どういうことだ、なんであんたが、ここにいる」
『ああ、ウォーレスさん。……なんでってそりゃあ、私はどこにでも存在できるので』
「そういうことを訊いてるんじゃねえ! ……『助言を賜っていた』だって? それは一体、どういう――」
「……ウォーレスさん?」
そんな俺の言葉を止めたのは、隣にいた、ソラスだった。
彼女の表情には訝しげな色が浮かんでいて。
……いや、彼女だけではない。エレンたちも皆――俺のことを不思議そうな顔で見つめていた。
そんな視線の中で、ソラスが言葉を選ぶようにして、こう続ける。
「……ウォーレスさん、一体どなたと、話してるんですか?」
その反応で、俺は理解する。
やはりメガミは、彼女たちには見えていない。
見えているのは伯爵と――俺だけ、なのだ。
『……ああ、その人たちにはやっぱり見えていないみたいですね、私のこと。だとすると不思議です、なんでウォーレスさんは、【腕輪】を失ったのにまだ私のことが見えているのか――』
まあ、どうでもいいですけど。と一笑すると、彼女は俺に向かってこう続けた。
『とはいえこのままじゃ、話が伝わらなくてややこしいですかね。なら――こうしましょう』
そう呟くや否や、彼女はゆっくりと伯爵へと手を差し伸べて――彼の持っていた【腕輪】の残骸に触れて。
『ちょっとだけ、お借りしますね?』
「な――」
伯爵が怪訝な顔をしたその瞬間、メガミの姿が忽然と消える。
代わりに――
「……ああ、嫌ですね、暫定的な依代とはいえこんなむさ苦しい体に入るのは」
こちらへ向き直るとそう言ってにんまりと笑う、伯爵。
……否。その表情の作り方は、メガミのそれとよく似ていた。
伯爵の変わりように、エレンとゴウライは即座に警戒を顕にする。
「……ウォーレス。あいつ何? いきなり妙な魔力があいつの体から垂れ流しになってるんだけど――あれは、伯爵なの?」
「……いいや、違う。あいつは――」
「メガミ、と、そう呼んでください」
会話に割り込んでそう告げると、彼――否、伯爵の体に入り込んだメガミは、にっこりと似合わぬ笑い方をしてみせる。
そんな彼女を睨みつけながら、俺は鋭い調子で口を開いた。
「……メガミ。もう一度訊くぜ、どういうことだ。あんたは伯爵に、一体何を吹き込んだ。それにその妙な真似は……一体何なんだ」
「妙な真似って。私だってこんな体は嫌ですよ。こうして無理やり入り込んでもすぐはじき出されちゃいますし。……それに、“吹き込んだ”なんて言い方も心外です」
伯爵の顔のまま唇を尖らせた後、彼女はうっすらと三日月のような笑みを口元にたたえて、こう続けた。
「私はただ、奥さんの墓前で泣いていたこのおじさんにちょーっとだけ囁いてあげただけなんですから。『魔王を討って、妻の仇を討ちたくはないか』って」
けろりと、悪びれもなくそう告げる彼女に俺は――どっと冷や汗が吹き出すのを感じながら、再び問う。
「お前――なんなんだ、一体」
「言ったじゃないですか。私は【異邦体】――人間の文化的土壌にすり合わせて表現するところの高次元存在、と」
最初に出会った頃と同じ自己紹介を返した後で、「ああ、それともうひとつ」と、買い物のメニューでも思い出したみたいな軽い調子で彼女は付け加える。
……彼女がここに現れた時から、予想はしていた。予想はしていたし、決して当たってほしくないと思ってもいたが――
「ついでに言えば……貴方がた人間が『魔王』と呼ぶ存在、とでもお伝えすれば、分かりやすいでしょうか」
……その淡い希望は、笑顔のままに告げられたメガミの一言によって決定的に、覆されることとなった。