0.初めて『悪』に触れた日
この小説は「堕天のシンペラズマ」の続編になります。
貴方は、『天使』のことを知っていますか?
天使は、神――主様の子であり使者である。天使の役割は、人間を守護し、人間を導き……時には裁きを与えます。天使は基本 天界で過ごしていますが、任務のため人間の世界へ行ったり、人間を悪の道へ招こうとする『悪魔』と戦争をすることもあります。
……何故、私がこれほどの事を知っているのか。その理由はシンプルです。
何故なら、私がその『天使』の一人だからです。
足元に広がる、レンガの街並み。所々壊れた家や、舗装されていない道が、この街の貧しさを語っていた。しかし、人々の様子は景色に反していた。楽しそうに会話をする者、懸命に仕事をする者、無邪気に遊ぶ者……。街の景色とは裏腹に、人々の心は希望に満ちていた。
「皆さん、幸せそうですね」
とある家の屋根の上から街の様子を見て、私――ドロイアはそう呟いた。すると、
「だろう? 私たち天使が主様の使者として、彼らを守り、導いているのだからな」
私の隣に居た 義父の天使――アイシレス様がそう言った。
私は今 人間界に居る。何故ここにいるのか。それは、アイシレス様の仕事を見学させてもらうためです。私は仕事をする身分では無いのですが、以前から彼の仕事について興味を抱いていました。そこで「是非見学させてほしい」と申し出たところ、快く承諾してくださり今に至ります。
「アイシレス様、今日はよろしくお願いします」
私は改まってアイシレス様にそう言った。彼は微笑み、「こちらこそ」と答える。
「それにしても、広い街ですね。アイシレス様がこの街全てを担当しているのですか?」
「ああ、そうだ。この町の他にも、何カ所か受け持っているよ」
「凄いですね……! 流石、アイシレス様です」
私がそう告げると、彼は微笑み返した。
「大したことでは無いが……礼は言っておくとしよう。主様から託された町だ。責任をもって管理して――」
「ドロイア、アイシレス様! 見て見て!」
アイシレス様の言葉が、背後から聞こえた声によって妨げられた。けれど、アイシレス様が声の主に腹を立てることは無かった。彼は、くすりと笑って振り返る。私も振り返った。すると、一人の天使が空を指差した。
彼女の名は、ピュリアール。通称、ピュリ。私の義妹です。
「見て! 虹が出てるのよ!」
ピュリは虹を指差しながら、その場で ぴょんぴょんと跳ねた。
「本当ですね、とても綺麗……」
「よく見つけたね、ピュリ。素敵なものを見せてくれて、ありがとう」
私とアイシレス様がそう言うと、ピュリは嬉しそうに「えへへっ」と笑った。
「さて、そろそろ仕事を始めるとしようか」
アイシレス様はそう言い、私たちを見た。私とピュリは頷く。
この時の私は知らなかった。この見学が、私に大きな影響を与えることを。
「まずは、教会へ行こうか。はぐれないようにな」
アイシレス様はそう言い、羽を広げて飛び立った。私達もその後を追う。
十分弱ほど空を飛び、着いたのは この街で一番大きな教会。私達は教会の屋根に下りた。
「これから教会に入るが、二人は教会内のステンドグラス付近に居てもらう。そこで仕事の様子を見てもらおうかな。人間達には私達の姿は見えない。且つ、教会は神聖な場所だ。悪魔が現れる事は無いだろう。何事もなく見学できるはずだ。……しかし、もし何かあればすぐに言うのだよ。そのときは、私が必ず二人を助ける」
アイシレス様はそう言った。私達は「はい」と答える。すると、「良い子だね」と言い、私とピュリの頭を撫でてくれた。
私達三人は教会に入る。教会の中には、礼拝の為に訪れた人が多く居て、それぞれが主様を賛美し感謝していた。私とピュリは、教会のステンドグラスの近くに立ってアイシレス様を見ていることにした。
「たくさん人がいるね」
ピュリは教会を見渡しながら言った。私は「そうですね」と返す。
アイシレス様は祭壇の前に立つと、懐から書類を取り出した。
「ねぇねぇ、ドロイア」
「なぁに、ピュリ?」
「あの紙に、何が書いてあるか知ってる?」
ピュリは、アイシレス様が持っている書類を指差して問うた。
「いえ……分からないです」
私がそう言うと、ピュリは「でしょでしょー」と楽しそうに言った。そして、得意げな表情でこう話し出した。
「あのね、あの紙に書いてあるのは、アイシレス様が今日担当する人間の名前と、その人の悩みとかが書いてあるんだって。アイシレス様は、あの紙の情報をもとに仕事をするんだよ。でもでも、あの紙に書いてある事は、『下級天使』は見ちゃ駄目なんだって」
ピュリは、わざと『下級天使』を強調した。たとえ、アイシレス様と同じ屋敷に住んでいて、義理の家族であったとしても、階級は階級。主様が定めたものには抗えない。
「しょうがないですよ、ピュリ。だって、アイシレス様は本当に凄い天使でしょう? ……それにしても、どうしてピュリはあの紙の事を知っていたのですか?」
「えっとね、人間界へ来る前にアイシレス様に教わったんだよ」
「成る程。ピュリは勉強熱心ですね」
「えへへ~、アイシレス様もそう言ってくれたのよ!」
アイシレス様は次々と仕事をこなしていた。アイシレス様が人間の近くで呪文を唱えると、その人間は幸せそうな表情をし、主様にお礼を告げたり、時には涙を流して主様に謝罪する人間もいた。
「ねぇ、ドロイア。なんで あの人は泣いてるの?」
「きっと、アイシレス様に怒られてしまったのでしょう。でも、涙を拭ったあの人の目には光があるでしょう?」
「ほんとだ! 怒られたのに、なんで?」
「多分、アイシレス様や主様が罪を許してくれたのですよ」
私達は、礼拝する人々とアイシレス様をしばらく見つめていた。多くの人間が主様を賛美し感謝する姿は、天界の天使によく似ていた。私達天使も、主様を賛美し 感謝している。主様は私達を生み出してくださったお方。そして、私達を見守ってくださるお方なのですから。
人間も天使も、主様を愛している。私はそのことを改めて実感したのだった。
アイシレス様の仕事が始まってから、一時間弱ほど経った。アイシレス様はまだ働いている。
「ねぇ、ドロイア」
隣に居るピュリが、本日十何回目の質問をした。
「今度は、どうしたのですか?」
ピュリは「あの人」と言い、一人の女性を指差した。その人間は、泣きながら教会に入ってきた。
「どうしたのかな、あの人」
「……分かりません。悲しい事があったのでしょう」
私とピュリは、その女性に視線を定めた。その女性は、色あせたワンピースとカーディガンを着ていた。彼女は祭壇の前に座りこむと、礼拝を始めた。泣きながら何かを言っているが、遠くから見ている私達には、彼女が一体何を言っているのか分からなかった。
「ねぇ、ドロイア。あの人……笑顔に出来ないかな」
「そうですね。私も……そうしてあげたいです」
私とピュリが、女性について話していると……。
「おまたせ、ドロイア、ピュリ」
アイシレス様が戻ってきた。
「アイシレス様、お仕事はもう終わったのですか?」
「あぁ、全て終わったよ」
「アイシレス様、アイシレス様」
ピュリが、アイシレス様の服の裾を引っ張る。
「どうしたんだい、ピュリ?」
「あのね、アイシレス様」
ピュリは、泣きながら礼拝をする彼女を指差した。
「あの人を笑顔にしてほしいの。さっき、アイシレス様がやってたみたいに、あの人を幸せにしてほしいの」
ピュリはそうお願いした。しかし、アイシレス様は首を横に振る。
「それは出来ない」
私とピュリは顔を見合わせ、首を傾げた。
「どうして出来ないの?」
ピュリがそう問うと、アイシレス様の目つきが鋭くなった。
「あの人間は……主様を信じていない」
「……え? でもあの人、主様に何かお願いしているように見えるよ?」
確かに、その女性は他の人と同じように……いや、他の人以上に祈りを捧げていた。私には、彼女が主様を信じていないとは思えない。
「まぁ、『今』は信じているのだろうが」
アイシレス様は腕を組んで、言葉を続ける。
「先程、彼女について調べてみたのだが……彼女は主様を信じていない。彼女は滅多に礼拝には来ず、『神など存在しない』と思い続けていたらしい」
私はそれを聞いて驚いた。だって、今の彼女の姿からは考えられません。
「だが……そんな彼女に 今朝、悲劇が起こった。彼女の愛人が、重い病で倒れたそうだ。不治の病にかかってしまったらしい。悲しみにくれた彼女は、どうにか彼が助からないかと礼拝に来た」
アイシレス様は彼女から視線をそらすと、こう言い捨てる。
「私は、信仰心のない人間を救う気は無い」
アイシレス様の言葉に、私とピュリは息を呑んだ。
「この人間界には、主様を信じる者と信じぬ者がいる。信じる者は、毎日でなくとも……毎週日曜には礼拝に参加したり、聖書を読んだりする。そのような信仰心のある人間に対し、私は手を差し伸べようと思う。しかし、主様を信じぬ者は本当に信じない。そして、中でも気に食わないのが……あのパターンだ」
アイシレス様は、ちらりと彼女を見た。
「人間は追いつめられると……主様に助けを求める。今まで、『神などいない』と話していた者が、急に主様を信じ始める。主様にすがる。『どうか助けてくれ』と。私は、そんな人間が大嫌いだ。だから彼女は救わない」
アイシレス様がここまで言い切るのは、恐らく、もともと人間を好いていないことも関係しているのでしょう。もし人間のことを嫌っていなければ、慈悲の心で手を差し伸べたと思うのです。
「まぁ……彼女の場合、書類に記名されていなかった。今日から信仰心を育めば、いつかは恩恵を受けられるだろう」
黙って話を聞いていたピュリは、何か言いたげな表情を見せた。しかし、何も言わなかった。……アイシレス様は、私達のような階級が――最下級の『天使』が逆らっても良い相手ではない。きっとピュリはそう思っていたのだろうし、私もそう思っていた。
「こんな話は止めようか。天使は人間の味方とは限らない。それを彼らは知らないのだ。さぁ、ドロイア、ピュリ。次は街の見回りに行くとしよう」
私達は、泣き続ける彼女に背を向け教会を後にした。
教会を出て、私達は街の上空をゆっくり飛んでいた。
私は、先ほどの事が気にかかってならなかった。本当に、彼女を救う事は出来なかったのか? たとえ、ついさっき主様を信じるようになった人だとしても、信じているのには変わりない。そして、助けを求めている。助けを求められているのに、手を差し伸べるか、差し伸べないかを『信仰心』という尺度で決めても良いのでしょうか? 寧ろ、助けなかったことは『悪』なのでは……?
私は考えた。しかし、考えるほど深みに堕ちて行く。結論は、まだ見つかりそうにない。
「ドロイア」
ふと声をかけられ、私は びくりと肩を震わせた。私を呼んだのは、アイシレス様。彼は困惑の表情を浮かべていた。
「何も考え込む必要は無い。寧ろ、考えすぎて君の羽が濁ってしまったら困る」
天使は、主様に反抗する感情を抱くと、羽が黒く濁って行く。濁って濁って、濁り果てて、真っ黒になってしまう。そんな羽をもつ天使は堕天使と呼ばれ、最終的には悪魔か人間に堕ちてしまう。
アイシレス様は、私が堕天してしまわないか心配してくださっているみたいです。私はそんな彼の心境を察し、安心させようと微笑みかけた。
アイシレス様の言うとおり、考え込む必要はないのかもしれない。ピュリも気持ちを切り替え、人間界を楽しんでいる。……私も、折角人間界に来たのだから、充実した時間を過ごすようにしようと思います。
しばらく街の上空を飛んでいた私達は、羽を休めるため地面に足を着けた。先程、飛んでいたときにピュリが「折角だから、人間界を歩いてみたい」と提案したので、私達は歩いて街の見回りをすることにした。
「アイシレス様、人が大勢いるのね」
「そうだな。普段もこの街は賑わっているが、今日は休日でもあるから余計に多いのだろう」
私達は街を歩く。人間には、私達天使の姿は見えていない。且つ、人間は天使に触れることができない。なので、私達は歩いてくる人間を避けたりすること無く歩き続ける。
「ねぇ、アイシレス様。何かお土産買って行こうよ」
ふと、ピュリがそう提案した。アイシレス様は、その提案に首を傾げた。
「土産? こんな世界に、何か欲しいものでもあるのかい?」
「記念だよ。ここに来た記念」
「そんなに良い世界では無いと思うが……」
アイシレス様の言葉に、ピュリは苦笑いする。
「まぁ、天界の方が綺麗だけど……。ねぇ、ドロイア。ドロイアも何か記念に欲しいと思わない?」
ピュリに問われ、私は「そうですね……」と考える。
「確かに、何か欲しい気も……」
ピュリの言う『記念』という言葉に少し惹かれ、私はそう言った。しかし、何を記念に持って帰りましょうか?
私は街を見まわした。すると、小さな店が私の目にとまった。そこで売られていたのは……
「ピュリ、そのガラス細工はどうですか?」
「わぁっ、綺麗!」
私が見つけたのは、ガラス細工の店だった。グラスや置物など、色々な物が売られている。
「ドロイア、見に行こう?」
「えぇ、行きましょう」
私とピュリは、手を繋いで店へと駆けだした。
その時、
「待て、二人とも!」
ぐいっと後ろから、アイシレス様に首根っこを掴まれた。ピュリも同じことをされたらしく、今の状況に私とピュリは目を合わせて首を傾げた。
「アイシレス様……?」
私は彼の顔を見た。
「…………ッ」
彼は何かを睨みつけていた。その表情は、今まで見たことも無いくらい怖い表情をしていた。
「……悪魔だ」
アイシレス様が呟いた。彼が睨みつけている方を見ると……。
「悪魔……!」
「ピュリ、初めて見た……」
角、牙、尻尾、尖った耳。――間違いない、悪魔です。その悪魔はガラス細工の店に居て、客と思われる人間の男性の背後に立っていた。その悪魔はニヤリと笑い、指をパチンと鳴らした。すると、その人間は……
ガシャアァァァン!!
「「……ッ!?」」
店にあったガラス細工を、床に叩きつけ始めた。美しいガラス細工が粉砕した。彼は手当たり次第ガラスを床に叩きつける。私とピュリは茫然とその様子を見つめていた。
「……仕方ない。ドロイア、ピュリ。先ほど居た教会に戻りなさい」
アイシレス様はそう言い、私とピュリを解放した。
「あの悪魔と人間を野放しにするわけにはいかない。だが、ここで戦闘を始めれば……二人を危険な目に遭わせてしまう。だから、教会に避難して欲しい。教会は神聖な場所だ、悪魔に襲われることは無い」
アイシレス様は私達の前に立つと、腰に提げていた銃を手に取った。
「二人とも、早く!」
私たちは頷き、教会へ向けて飛び立った。その瞬間、背後から銃声が聞こえた。
ピュリと教会へ向けて飛ぶ。ピュリは私の前を飛んでいて、私は辺りを警戒しながら飛んでいた。
……初めて、悪魔を見ました。これまで私は天界から一度も出た事が無かったため、悪魔を見たことが無かった。『主様と天使の敵。そして、人間を悪の道へと導く者』。そう教わっていたけれど、まさかあれほど残酷なことをするなんて……。
今頃、アイシレス様は悪魔と戦っているのでしょうか。主天使のアイシレス様なら、きっと大丈夫だと思いますが……。
私はなんだか不安になって、目を伏せた。すると、ちょうど視界に ものすごいスピードで走る少年が。彼の手には、パンが。一体どうしたのでしょう? そう思っていると、
「泥棒だ!」
「捕まえろ!」
走っている彼を、数人の人間が追いかけていた。
……泥棒!? つまり、あのパンは盗んだもの?
私は思わずその場に止まり、その様子を見ていた。逃げている少年はとても走るスピードが速く、追っている人は次々とエネルギー切れで、立ち止まってしまっていた。
……このままでは、いけない。早く戻って盗んだものを返さなければ。
ふと、先ほどの教会で見た女性を思い出した。主様に礼拝したのに、救われなかった女性。きっと彼も、自分がしたことの重大さに気付いた時、彼女のように主様にすがって……救われないかもしれない。
気がつけば私は、逃亡する彼を追っていた。
彼は追手が来ていない事を確認すると、歩き出し、狭く薄暗い路地に入った。彼はパンを盗んだ。……ここで食べるのでしょうか? 私は地上に降り、彼と数メートルほど距離をとって後を追う。
しばらく歩くと、彼は路地に ぽつんと置かれていた木箱に近づいた。私は、彼から五メートルほど離れた所で立ち止まる。
木箱に近づいた彼は、辺りに誰もいない事を確認すると(私が居ますが)、木箱を開けた。その中に入っていたのは……。
「にゃあ……」
子猫だった。しかも、その子猫は酷く痩せていて、且つ小刻みに震えていた。木箱を開けた彼は、優しくその子猫の頭を撫でると、
「ほら、食べなよ」
子猫の口に、先程盗んだパンを近づけた。
「……!」
私は息を呑んだ。子猫は嬉しそうに「にゃー」と泣くとパンを食べ始めた。
「布も盗ってきたんだ。分厚くて暖かいぜ」
彼はポケットから厚手の布を取り出し、子猫に巻きつけた。子猫はとても幸せそうだった。私はその光景を、茫然と見つめていた。
……彼は、『盗み』という悪事を働いた。それは、許されない事。罰が科せられる。でも……。
「にゃあー」
「よしよし、沢山食べろよ」
彼の悪事によって、救われた命がある。彼がパンや布を盗まなければ、この子猫は死んでしまっていたのかもしれない。
……『善い』、悪事…?
「良かったな」
ふと声が聞こえ、私は肩を震わせた。その声は、悪事を働いた少年の声ではなかった。一体誰なのかと思って、辺りを見回した。すると、向こうから一匹の悪魔が現れた。しかし、その悪魔は先ほど店で見た悪魔ではなかった。黒の短髪、左目には眼帯をしている。
その悪魔は、子猫を大事そうに撫でている彼に微笑みかけた。
……『盗み』は、あの悪魔のせい?
私は悪魔を見つめた。その悪魔は、さっき見た悪魔とは違って、優しげな雰囲気をまとっていた。
「……どうして?」
思わず、声に出してしまっていた。どうしてあの悪魔は、こんな悪事を――誰かを助ける『悪事』を彼に? 私は、優しく微笑む悪魔をじっと見つめていた。
……話してみたい。抱いた疑問の答えを知りたい。
私が抱いた疑問。それは、彼が人間に与えた『悪事』のこと。どうして『誰かを助ける悪事』を働かせたのか。そして、『善い悪事は、善なのか、それとも悪なのか』ということ。
『盗み』、それは悪い事。『救い』、それは善い事。善と悪。二つの事が、大きく関わっていた出来事。……勿論、天使の視点では悪事に入る。どんな事情があったとしても、『盗み』は悪。
……その筈なのに。それでは納得できない自分がいる。この出来事が、『善』だと感じてしまっている。『盗み』を、善行だと思う自分が……。
「ドロイア!!」
後ろから急に怒鳴られ、私は「ひっ」と声を漏らした。その瞬間 強く手首を掴まれ、路地から引っ張り出された。そして、背後から強く抱きしめられた。薄暗い所に長く居たせいで、急に明るい所に引っ張り出された私は目を細める。
誰に抱きしめられたのか、私はハッキリ分かっていた。
「アイシレス様……」
私は恐る恐る名を呼んだ。すると、アイシレス様は「心配したんだぞ……!」と、抱きしめる力を強めた。私は苦しくて、「うっ」と呻き声を漏らす。そして、
「ドロイアの馬鹿ぁーッ!!」
「うぐっ」
次は正面から、勢いよく抱きつかれた。
「ピュ、ピュリ……」
私は、アイシレス様とピュリにガッチリ挟まれていて、身動きがとれない。
「く、苦しいです、二人とも……」
私がなんとかそう言うと、二人は私を解放してくれた。
改めて二人を見ると、二人は怒りの表情と安堵の表情を足して割ったような、複雑な表情で私を見つめていた。
「ドロイア!」
「は、はい!」
アイシレス様に呼ばれ、私は背筋をピンと伸ばした。
「何故、教会へ行かなかった! 私とピュリが、どれだけ心配したことか……!!」
「そうだよ! ピュリが教会に着いた時、ドロイアが後ろに居なくてすっごい不安だったし、すっっごい怖かったんだよ!?」
私は二人に怒鳴られ、「ご、ごめんなさい……」と謝った。すると、二人は優しく微笑み、
「もう二度と、私に心配をかけさせないでくれ」
「いなくなったら……次は許してあげないからね?」
と言ってくれた。
「さて、そろそろ帰ろうか。再び悪魔と遭遇する可能性が高いからね」
アイシレス様が、私とピュリにそう言った。
天界へ戻るため羽を広げた時、私はふと路地での出来事を思い出した。
「あの、アイシレス様」
天界へ向かうため飛ぼうとしていた彼に、問いかける。
「どうしたんだい、ドロイア?」
「一つ、聞いても良いですか?」
「……? 勿論だ」
アイシレス様が許可してくれたので、私は先程の出来事を話した。少年が盗みを働いてしまった事。その盗んだもので、子猫を助けた事。そして、優しい笑みを浮かべた悪魔を見た事を。
私の話を聞いて、アイシレス様は路地に目をやった。軽蔑の眼差しを向けながら、彼はこう話し出した。
「ドロイア。それは……悪だ。間違いなく、主様もそう言うだろう。『悪事によって救われた』? そんなもの、泡沫の幸せだ。ドロイア、それは救ったのではない。相手も共犯者と化しただけだ。盗んだものを受け取る。それは、一人の人間を介して盗みを犯した。……そういうことだろう?」
アイシレス様はそう言うと、ぽんぽんと優しく私の頭を撫でる。
「その悪魔は後で始末しておく。だから、もう先ほどのことは忘れなさい」
……始末!?
私はアイシレス様の腕を掴み、首を横に振った。あの悪魔は、始末されるほどの悪い事はしていないと思う。だから、始末だなんて……!
「ドロイア。君は何も気にしなくて良い」
アイシレス様はそう私に微笑みかけた。私は目を伏せる。
悪魔は天使の敵。だから、殺さないといけない……?
「……っ」
胸が、きゅっと締め付けられた気がした。
「ドロイア、行くよ?」
ピュリにそう言われ、私は顔をあげた。アイシレス様とピュリは、もう地上から足を離していた。私は「はい」と言って羽を広げる。
二人は、私に背を向けて天界へ向けて飛んだ。私は、ちらりと路地に目をやる。
人間界に来て、私は善と悪についての考え方が変わった。
教会で見た『彼女』。彼女を救わなかった事は、『善』だったのか? それとも、『悪』だったのか?
次に、盗みを犯した『彼』。彼が盗んだパンによって救われた子猫。あの盗みは、『善』だったのか? それとも、アイシレス様が言ったように『悪』だったのか?
そして……あの優しい笑みを浮かべた、悪魔。あの悪魔が導いたのは、『善の悪事』の道だった。あの悪魔は、善……ではなくても、完全な悪ではない気がする。子猫が救われたのは、悪魔が彼を導いたから。あの悪魔は『善』なのか? それとも『悪』なのか……?
天使である私には、『悪』の感情についてよく分からない。逆に、悪魔はきっと『善』の感情についてよく分かっていないだろう。
けれど、人間は『善』と『悪』、両方の感情を持っている。私達天使が分からない『悪』の感情を持ち、悪魔が分からない『善』の感情を知っている。
人間なら……私が今 抱いている疑問の答えを知っているのでしょうか? 『善』・『悪』、両方の感情を持った貴方たちなら……。
「人間は……知っているのでしょうか?」
「知らないだろう」
無意識に漏れていた私の呟きに、誰かが返事をした。
「きっと、お前が分からない事は……彼らも分からないだろうな」
路地から悪魔が現れた。先ほど見た、あの悪魔。
「知っているだろう? 天使は人間より、どの面でも勝っているということを。お前が知らないことを、お前より無能な彼らは知らない」
「そういう、ものなのでしょうか……?」
私が問うと、悪魔は困ったように笑った。
「今のは言い過ぎたかもしれんな。恐らく、彼らは……何か答えは出す。だが、答えは人間によって異なるのではないかと思う。……人間は大勢いるからな。見ていると面白い。皆、個性がある。……それで、お前の抱いている一番の疑問とは何なんだ?」
私は悪魔と目を合わせ、説明した。
「悪事によって救われた者が居る。……その悪事は『善』なのでしょうか? それとも、『悪』なのでしょうか?」
私の問いを聞くと、悪魔は少し間を開けてこう言った。
「明確な答えなんて、ないと思うが」
悪魔の答えに、私は驚いた。……明確な答えが、ない?
「そもそも、『善と悪』という概念自体が地に足が着いていない。明確な答えが出しにくい要素だ。だから、誰に聞いても異なる答えを出すだろう」
悪魔が言った事は正しい気がする。でも、私の心はモヤモヤしたままだ。
「答えが出ないから聞いたのに、そう答えられるだなんて……」
私がそう言うと、悪魔は「文句を言うな」と肩をすくめた。
「……で、お前は帰らなくて良いのか?」
悪魔がふと、私にそう言った。私はハッとして空を見上げた。もうアイシレス様とピュリの姿が見えない。
「帰らないと……!」
心のモヤモヤは全く晴れなかったが、このまま人間界に留まっていてはいけないと思い、私は飛んだ。
地上から、足が離れたその時。
「ゆっくり悩めば良い。いつかきっと、答えに出会えるさ」
悪魔は私にそう言うと、再び路地に入って行った。
天界へ向かって飛びながら、私は今日の事を考えていた。人間界に来て、私は様々な感情を抱いた。
天界に居た頃は、『悪』の感情に興味などなかった。いや、天使は皆そうなのかもしれない。しかし、人間界という『善』と『悪』が混在するこの世界で遭遇した出来事は、私にいくつもの疑問を抱かせ、その答えを得る事は出来なかった。
そして、出会った一匹の悪魔。不思議な悪魔だった。彼は私に言った。いつかきっと、答えに出会えると。
天使は、人間とは比べ物にならないくらい長生きする。だから私は、焦らず答えを探し続けようと思う。
そんな事を考えながら飛んでいると、天界へとつながる扉が見えてきた。扉の前に、アイシレス様とピュリが浮遊していた。
「アイシレス様ー! ピュリー!」
私がそう呼ぶと、
「ドロイアの馬鹿馬鹿馬鹿っー!! 遅すぎ!」
「早く来たまえ、ドロイア。全く……困った義娘だ」
二人に叱られてしまった。私はスピードを上げ、二人の近くに到着する。
「ごめんなさい、二人とも……」
「ドロイア、もう一人で行動するの禁止! ピュリと一緒じゃなきゃ駄目っ!」
「ははっ……、暫くはその方が良いかもしれないな。……さあ、ドロイア、ピュリ。天界へ帰ろう」
アイシレス様は扉を開くと、私とピュリの手を取った。
「うん、帰ろ!」
「はい、アイシレス様」
私達は天界に戻った。『悪』が存在しない、平和な世界に……。
▽
薄暗い路地。俺の故郷である『魔界』のように薄暗いこの場所で、俺は今日も人間に悪事を働かせていた。幸せを呼ぶ、悪事を。
少年は盗みを働き、子猫を助ける。息子に暴力を振るった夫に、暴力を振るう妻。子猫は生き、子供は虐待から解放される。
幸せを呼ぶ、悪事。それが『善』なのか、それとも『悪』なのか。それは俺自身も分かっていない。
数日前、一人の天使に会った。その天使は、俺にこう問うた。
『悪事によって救われた者が居る。……その悪事は、『善』なのでしょうか? それとも、『悪』なのでしょうか…?』
……俺が知りたい。
俺はその天使に「いつか答えが見つかるさ」と、適当な事を言った。そう言うしか、無いじゃあないか。というか……大体、あの天使は無防備すぎるだろう。悪魔は天使の敵。普通なら、遭遇した瞬間に戦闘が始まる。まぁ、俺は『俺自身が』争うことを好まない。彼女をどうこうする気は全くなかったが、彼女は逃げるくらいすべきだったと思う。
「馬鹿な天使だったな……」
俺がそう呟いたその時。
「貴様か、義娘に余計な感情を抱かせたのは」
怒気を含んだ声が、背後から聞こえた。
俺はゆっくりと振り向いた。そこに居たのは、天使。それも――
「主天使が、俺に何の用だ?」
美しい金髪の男の主天使。彼のことは魔界でも有名であるため知っていた。名前は確か……アイシレス。
「……ほう。私の事を知っているとは大したものだ。悪魔、ルーエル」
そう名を呼ばれ、少し驚いた。
「俺はお前ほど有名人ではないんだがな。……何故、俺の名を?」
俺が問うと、主天使はニヤリと笑ってこう言った。その笑顔は、悪魔によく似ていた。
「主様に伺った」
主様に、か。主様は何でもお見通しということか。
「……で、主天使が俺みたいな悪魔に何の用だ? 確か、義娘がなんとかって言ってたが……」
「そうだ。貴様は数日前、一人の天使に会っただろう。その天使は、私の義娘だ。そして、彼女は貴様が仕掛けた悪事に興味を抱いてしまった。『善の悪事』だか何だか知らないが……貴様のせいで、彼女は余計な感情を抱いてしまった!」
主天使はそう言うと腰に提げていた銃を手に取り、銃口を俺に向けた。
「貴様を、ここで消す」
主天使の目は憎悪の感情に染まっていた。
「そうか。だが……俺はただいつも通り、悪事を働かせただけだ。彼女が勝手にそれを見て、勝手に疑問を抱いた。俺が彼女に対して、意図的にやったことじゃあない」
「そうか。まぁ、どちらにせよ私は……消すことの出来る悪魔が居れば、一匹残らず消し去る。それだけだ」
「……だろうな」
たとえ、俺が数日前にあの天使に会っていなかったとしても……俺がこの主天使に会った、この瞬間、俺の運命はもう決まってしまったらしい。
……嗚呼、これが終わりか。
自身の最期を悟った俺は、口角を上げて主天使を見た。主天使は怪訝そうに俺を見る。
「主天使、こんな話を知っているか? 抹消された悪魔や天使は、かなりの低確率……零に等しい確率で、人間に生まれ変わるそうだ」
俺がそう話すと、主天使は冷ややかな笑みを浮かべてこう言った。
「そんな運命を貴様は願っているのか? たとえ貴様が生まれ変われたとしても、元は悪魔。貴様は人間になっても悪事を働き、汚らわしい人生を歩み、地獄に堕ちるのだろうな」
「……お前、本当に天使か? 歪んだ考えを持っているんだな」
主天使の言葉に、思わず俺はそう呟いた。
「貴様よりかは美しい考えだと思うが?」
天使と話している気がしない。こんな天使が主天使だとは……天界も末期だな。
「天使面被った、悪魔め」
「なんとでも言え」
短い会話を交わした後、主天使は引き金を引いた。
……主天使の義娘、俺は思う。願わくは、俺は人間に生まれ変わり、俺とお前の抱く疑問の答えを探そう。まぁ、真の答えなんて見つかるわけが無いだろうな。だが、『俺なり』の答えを出そうじゃないか。善悪両方の感情を持つ人間になれば、俺なりの答えが出るはずだ。
そして、出した答えをお前に伝えるため、俺は天界へ行こう。天使に生まれ変わってやる。そうしたら、お前に答えを伝え、このムカつく主天使を一発殴る。……面白いじゃあないか。
天使の神聖なオーラを纏った弾丸が、悪魔の汚れたオーラを纏った俺の左胸に食い込んでいく。人間なら、ここに心臓がある。……そうか。人間になったら、この部位は死守しなければな。
消えていく身体。消えていく意識。微かに見えた、冷笑を浮かべる主天使。
その天使に負けないくらいの冷笑を浮かべ、一匹の悪魔は塵も残さず消えた。
〈終〉