⑧ずっと一緒に歩いていこう
身体は重いが、心は満たされていた。
疲労が溜まった身体が安らぐ場所を求めている。
真治の舞台を観たあと、ミスズはすぐに帰宅をした。明日も仕事がある。
年末のこの時期は、年始の準備にも追われて、クリスマスの華やかさとは無縁の日々を過ごしてきていた。
でも今年は違う。
真治の姿を見るためにスケジュールを一週間分前倒しですすめて、なんとか今日は午後から休みを取った。
エアコンのスイッチをいれて、そのままベッドに倒れるようにして身体を沈めた。
目を閉じた暗闇の向こうに、真治の姿が鮮明に蘇る。
何年か前に初めて観たあの舞台の景色と重なって、ミスズは高揚感に夢見心地のまま、ベッドで目を閉じて眠りが訪れるのを待っていた。
部屋にインターホンが響いた。
アパートに訪ねてくる人なんてほとんどいないから、静かな部屋に甲高く響くそれにミスズは緊張する。
なるべく足音を立てないように玄関に向かい、小さな覗き穴から外を見る。
そこに立っていたのは、真治だった。
「真治くん!」
驚くのと同時に、身体が勝手にドアをあけていた。
「ミスズさん……」
「どうして……。え、と、お疲れ様……」
「具合は? 体調悪いって聞いたから」
まさか、心配してきてくれたのだろうか。
「そうね。良くはないけど、そんなに深刻でもないわ……」
「良かった……」
妙な沈黙が続いて、ミスズは「寒いから入ったら」と真治を招き入れた。
「コーヒーにする? それともお茶がいい?」
「俺がやるよ。ミスズさん体調悪いでしょ……」
真治が狭いキッチンに立つ。
――なんだか、懐かしい気がする。
ミスズは真治の後ろ姿を見ながらそう思った。
「ミスズさん、ブログ見たよ」
「ブログ……?」
ミスズは意味が分からないと首を傾げたが、暫くして思い出す。
「そういえば、そんな事もあったわね……」
忘れていた思い出に、恥ずかしくなってミスズは俯向いた。
「嬉しかったんだ」
二つのカップを手にやってきた真治が言った。
「本当は、誰も待ってくれてないって思ってたから、本当に嬉しかったし、頑張れた……」
テーブルの上に静かにカップを置く。
「ミスズさんだけが、ずっと俺の事を役者として見てくれてた。今日まで、ずっと待たせててごめん。」
「真治くん……」
「感想、聞かせてくれないかな?」
真治がミスズの言葉を待つ。ミスズはついさっき観た舞台の上の真治の姿をまた思いだす。
「すごく、素敵だったわ。言葉にならないほど。舞台の上の貴方はとても輝いていたし、それに……」
ミスズはそこで少し躊躇った。
「それに……?」
「それに……あの瞬間、私は寂しくなかったの……」
そこまで言って、ミスズは恥ずかしくなる。
「良かった……そう言ってもらえて……」
反面、真治は安堵したように息を吐いた。
ミスズはカップを手のひらで包んだ。少し熱い……
――あの時と同じ、シナモンの香りがする。
あれから喫茶店に行くたびにシナモンカプチーノを注文するようになっていた。
そのたびに真治との時間を思い出す。きっとそれは、これからも同じだろう。
苦くて、甘くて、心をほぐすシナモンの香り。
――だけど、多分もうこれできっと最後だ……
ミスズは思う。今日の舞台を観て確信した。
真治はきっと役者として、さらに上に行くだろう。たくさんの舞台に立ち、たくさんのファンに応援され、活躍し役者として輝いていくだろう。もうバイトなんかしなくても生活していけるようになるかもしれない。
――そうしたら、私は。
「ミスズさん、今、何を考えているの?」
声がしてハッと顔を上げると、真治の黒い瞳とぶつかった。
腕が伸びてきて、真治の指先がミスズの頬に触れる。
いつの間にかミスズは泣いていた。
真治が溢れ出ていた涙を、何度も何度も優しく拭う。
「真治くん……」
胸が熱い。熱くて苦しくて、身体が震えた。
「ミスズさん、大丈夫だよ。ひとりぼっちになんかしないよ……」
真治はそう言って微笑んだあと、ミスズを優しく抱きしめた。
耳元で真治の柔らかな声が響く。
「さっき、変なこと想像してたでしょ? 俺はここにいるんだよ。ミスズさんのそばにいる……」
「なんで、分かるの……?」
「分かるよ。俺も、ずっとひとりぼっちだったから……」
真治はそのまま、少し乱れていたミスズの髪を梳くように優しく撫でる。
「でも気がついたらミスズさんがいた。俺を待ってくれてる人がいて幸せだって思った。いや……幸せにしたいって思ったんだ」
真治は抱きしめていた腕をほどくと、ミスズの瞳を見つめる。
ミスズは真治の瞳の中に映る自分を見つける。
真治が言った。
「好きだよ。ミスズさん、ずっと一緒に歩いていこう……」
ミスズの瞳から新たな涙が溢れた。
ぴったりと張り付いてた重苦しい感情が解けていく。
ミスズは静かに、そして何度も頷く。
真治がそんなミスズを見て、また抱き寄せる。
「ミスズさん、明日も連絡する」
ミスズは頷く。
「明後日も連絡するから、だから……」
「わかったわ……」
やっとミスズは、そう答えた。
自分の鼓動も、真治の鼓動もシナモンの香りのように、今は心地よく感じる。
「だから、もう独りで泣かないでね……」
その言葉にミスズはまた涙を零しながら頷いた。
本編はこれで完結です。
このあと、番外編があります。
どうぞお楽しみください!