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⑥再会・あなたの想いを声に。

 秋晴れと呼ぶのに相応しい日だった。

 青い空には雲が数えるしかなく澄みきっていて、ミスズは何度も高い空を見上げていた。


 佳菜子から連絡がきた日、ミスズはすぐに真治の働く喫茶店に向かった。

 シナモンカプチーノを運んできた真治に、ミナホの居場所が分かったと告げると、真治はかなり驚いていた。


「会いにいかないの?」

「会いたいよ。けど、結婚しているミナホさんのところに今更行って、迷惑なんじゃないかって思えてきて……」

「そんな事は無いと思うけど……、でも、確かに会ってみなきゃ分からないわね」


 真治は、そうだね、と頷いた。

 児玉ミナホ、真治の育ての親のような存在。

 彼女は今、結婚し子供もいるらしかった。


「私も着いていってもいい?」

「ミスズさんも?」

「ええ、じつは行きたい場所があるの……」


 このやりとり数週間後、ミスズは真治と、ミナホのいる神奈川の小さな街にいた。

 静けさが漂う無人駅を降りて、二人はゆっくりと歩く。

 秋晴れの空、海が近いのだろう、吹いてくる風に潮の香りが混ざっている。

 ミスズは隣を歩く真治の様子を窺う。


 ――緊張しているようね。


 駅を降りてから会話の数が極端に減っていた。

 無理もない。真治が最後にミナホに会ったのは五年前。


「真治くん、ええと……コンビニ寄ってもいいかしら。トイレ行きたくなっちゃった……」

「俺も。緊張してきたからかな」

「やっぱりまだ不安?」

「ちょっとだけ。いまさら会いにいって迷惑なんじゃないかっていうのもあるんだけど。それ以上に……」


 真治は空を仰いで言う。眉を寄せた表情が少しだけ泣きそうに見えた。


「俺と親父がさんざん迷惑をかけて……それで、ミナホさんが今幸せじゃなかったら、きっと俺自身が耐えられなくなりそうで……」


 きっと大丈夫よ、とミスズはすぐに答えられなかった。

 真実は実際に見てみなければ分からないから。


「そうね。そしたらどうするか、その時になったら考えればいいわ……」


 結局ミスズはそう答えた。

 下り坂をゆっくり降りていくと行くと、見慣れたコンビニの看板が目に入って、二人は自然とそちらに足を向ける。

 また会話が途切れてしまった。


 ――なんだか、声が聞きたい……


 何度も繰り返し会話をしてきたのに、無性に真治の声が聞きたくなってミスズが会話の糸口を探していると、甲高い泣き声がした。

 ちょうど目指していたコンビニの前。広々とした駐車スペースに、ベビーカーを押している女性がいた。歳は四十代くらいだろうか。泣き声はベビーカーに乗っている子供のものだろう。


「どうしたのかしら。オムツなの?」


 ベビーカーを押していた女性がしゃがむ。同時に、ぴたりと真治の足が止まった。

 もしかして……と、ミスズは予感する。


「ミナホさんだ……」


 真治がぽつりと呟く。


「あの人がミナホさん? 間違いない?」


 ミスズが問いかけると真治はすぐに頷き返す。

 あの夜、さゆりとミナトにも遭遇したことといい、真治はなにか引き寄せる力があるのではないかと、ミスズはつい思ってしまう。


 じっくりと観察するようにミナホを見る。

 中年とはいえ、綺麗な人だった。薄化粧で長い髪はひとつに束ねられている。足首まで隠れる丈のワンピースを着ていて、ベビーカーの中の我が子に向ける瞳は、慈しみに満ちていた。


 しかし、真治は動かない。

 決心がついていなかったのかもしれない。


「真治くん、いかないの?」

「元気そうな顔見れただけで……もう……」

「せっかくここまで来たのに。分かった。私が行ってくるわ」

「ちょっと待って!」


 踏み出したミスズの手首を、真治は強く握ってとどめた。

 真治の手が冷たい。


「大丈夫よ。ちょっと様子をみてくるだけ。真治くんの事は言わないから」


 ゆっくりと安心させるように、真治の手をほどくとミスズは歩きだす。

 手首に残った冷たさが真治の心の内を表しているようで切なくなった。打ち消すように笑顔をつくり、ミナホに歩み寄る。


「赤ちゃん、かわいいですね。何歳なんですか?」


 ミナホに怪しく思われないようにと、自分に言い聞かせながら、ミスズは声をかけた。


「もうすぐ一歳なんですよ……、急に泣き出してしまって……」


 慌てながらも、初対面のミスズに微笑む表情のミナホは母親らしい包容力が感じられた。

 直感的にミスズは思う。

 きっと真治のことも、自分の子供のように愛していたのではないか。

 こんな風に、慈しみをこめた眼差しを向けていたのではないか。


「お子さんは一人目ですか?」


 ミスズは聞いた。

 直球な質問だったかもしれない。ミナホがきょとんとした表情をする。

 しかし、すぐに「そうよ」と答えが返ってきた。


「そう……ですか……」

「実際に産んだのはこの子だけよ……」


 ミナホの言葉に、ミスズの鼓動が早くなる。


「なんて言ったらいいのかしら……」


 ベビーカーの中の我が子を見ていたミナホの瞳が、切なそうに揺れた気がした。


「私の一方的な思いかもしれないけれど、もうひとり、息子のように思っている子がいるわ……」


 ミスズは今すぐに振り向いて、真治を叫びたくなるのを必死で堪えた。


 ――真治くん、あなたは確かに愛されているわ……!


 胸が熱くなる。


「もうひとつ、変なことを聞いても良いですか?」

「変なこと?」

「今、幸せですか?」


 それは真治が一番気にしている事だった。

 ミナホは笑った。笑って言った。


「ええ、私はずっと幸せよ。 あら、泣き止んだみたい、じゃあね……」


 ミナホがベビーカーを押して歩き出そうとする。


 ――このままでいいの?


 ミスズは今度こそ振り返って真治を見た。視線がぶつかって、ミスズは伝わるようにと祈りながら、真治に強く頷いた。


「ミナホさん!」


 真治が叫んだ。その声を聞いたミナホが足を止める。

 信じられないと奇跡を見るような眼差しで、走ってくる真治の姿を捉える。


「真治? 本当に真治なのっ……?」


 ミナホはベビーカーを置いて駆け寄り、真治を抱きしめた。


「ミナホさんごめん。俺……」

「なぜ謝るの? ああ、また会えるなんて……すごく嬉しい」


 ミナホは涙を流し、真治との再会を喜んでいる。

 ミスズは二人の姿を、取り残されたままのベビーカーの側で見ていた。


「誰かに愛されるって、本当に素敵なことね……」


 ミスズがそう呟くと、祝福するように愛くるしい表情の赤ちゃんが、嬉しそうに声をあげた。




 ミナホの住んでいるマンションに、真治とミスズは訪れていた。

 何も知らないふりをして近づいたミスズに対して、ミナホはただ「真治を連れてきてくれて有難う」と言った。

 コーヒーを飲みながら、離れていた時間の、積もる話に花がさく。


「迷惑だなんて、そんな事あるわけないじゃない。もう……親の心子知らずって、このことを言うのかしら」


 ミナホが目元に皺を寄せて、嬉しそうに言う。


「夫も真治がきたと伝えたら喜ぶわ……」

「俺のこと話したの?」

「ええ。それから……貴方の父親とも数年前に一度だけ話したわ」

「!」

「再婚したらしいわよ。あなた謝りたいと言っていたわ」

「今更すぎなんだけど」

「そうよね、それは私が言ってやったわ」

「本当に謝るべきは、俺よりミナホさんになんだよ。俺も、親父も……」

「逆よ。むしろ私の存在が、貴方たち家族を引き離してしまった。なんてお詫びをしたらいいか……」

「その事は、もういいよ。ミナホさんこそ気にしないで」


 ミスズは二人の会話を聞きながら、大きなガラスの向こうの空を眺めた。

 来るときは真っ青だった空が、一日の終わりを告げるように赤く染まりはじめていた。

 まだまだ二人の話は尽きそうに無かった。

 小さなバッグ引き寄せてミスズは立ち上がる。


「ミスズさん……?」

「お邪魔しました。私……そろそろお暇しようと思います」

「あら、もうこんな時間なってたのね」

「真治くんはゆっくりしていったら? せっかく来たんだもの……」

 ミスズは言ったが、真治も上着に袖を通しながら立ち上がった。

「ごめんねミスズさん、行きたい場所があったんだよね?」

「でも、私……」

「そうよ、一緒に行きなさい。こんな可愛い女性をひとりで帰すような男に育てた覚えはないわよ」

「あはは、なにそれ。そうだ……報告があるんだ」


 そう言った真治の黒い瞳が、いつもより輝いて見える。


「俺ね、来月のクリスマスの日、舞台に上がれることになったんだ」

「……!」

「真治、良かったわね!」


 それは嬉しい報告だった。

 実は真治のもとにミナトから連絡があった。

 ミナトの知り合いが主催する舞台で、出演するはずの役者が怪我で出れなくなり、代役を急遽探すことになったらしい。

 そこでミナトが真治を推薦した。罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。


「ミスズさんも良かったら、観にきてよ」

「もちろん。絶対に行くわ……」


 ミスズは笑顔でこたえた。

 真治がまた舞台に上がる。

 止まったままの真治の時間が動き出したように思えた。


 ――良かったね、真治くん……


 真治の幸せを祝福する一方で、ミスズは心の中に孤独という影がくっきりと浮かび上がるのを感じていた。





 陽が沈んでいく。

 潮風がさらに冷たさを孕んで吹き抜けていく。

 ミナホに「また二人でいらっしゃい」と見送られ、真治はミスズの後ろについて歩き始めた。


「私少し遠回りして帰るから、真治くんは先に帰っても、」

「せっかくだし、一緒に行くよ」


 真治がそう言うと、ミスズは少し困ったような顔をしたが、それ以上何も言わなかった。


 ――俺と一緒じゃ行きづらい場所なのか?


 さきほどからミスズの様子がおかしい気がする。


「ミスズさんはよくこの街に来てるの?」

「そうね。年に一回、毎年必ずこの日にきているの……」


 年に一回、ますます謎だった。

 ミスズの浮かない表情に、真治は何故か胸騒ぎがする。


 ――ミスズさんは、どこに向かってるんだろう。


 二人は無言のまま、車道に沿った長く続く歩道をひたすら歩いた。

 どれくらいの時間、歩き続けただろう。海が近くにあるようで波の音がきこえてくる。

 まだ完全に陽は落ちていないが、天頂は濃い群青色に染まり、小さな星がチカチカと輝いている。

 ミスズは小さなバス停のそばの古びたベンチに腰をおろした。真治も隣に座る。


「ここから、バスに乗って駅にいけるから大丈夫よ……」


 やっと口を開いたミスズの言葉に真治は頷く。

 真治は暗くなっていく空を見上げていた。

 ただ、隣にいるミスズの様子がいつもと違う。翳りを帯びた表情、虚ろに見える瞳。


 バスが来た。

 駅行きと表示されたバスが目の前に停まった。学校帰りの生徒を数人乗せている。

 しかしミスズは動かなかった。当然、真治もミスズの隣で座ったまま。

 停車していたバスは行ってしまう。

 ミスズは座ったまま目を伏せて、たまに人の気配がすると顔をあげて観察している。

 明らかにおかしい、と真治は思った。


 ――バスで何処かに向かうわけじゃなさそうだし…誰かを待ってる?


 年に一度、ここで会う約束をしている人物がいるのだろうか。だが先程から垣間見えるミスズの様子は、何かに怯えるような、心細さすら感じさせる危うさがあった。


「ミスズさんは…誰かを待ってるんですか?」


 真治は聞いた。

 ミスズが今、何を考えているのか、何に心を痛めているのか、理由が知りたかった。

 しかしミスズは小さく笑っただけで、何も言わない。

 真治はもどかしく思った。


「俺はミスズさんのこと何も知らないよね。今さらだけどさ……」

「私は何故か、真治くんの事を知ることになってしまったわね」


 やっとミスズの声が聞けたと、真治は安堵する。

 ミスズが立ち上がった。そしてバス停のそばにひとつだけある古びた自動販売機の前に立つ。

 どこか憂いを帯びた表情で、真治を見つめると静かに口を開く。


「ここのバス停には、昔……この自動販売機の隣にコインロッカーがあったの」


 ミスズの声が震えた。


「だけどね、ある出来事があって撤去されたの……」

「ある出来事…?」


 瞬間、真治は嫌な予感がした。

 それに反してミスズはいつもと同じく、いや、いつも以上にゆっくりと言葉を紡ぐ。


「そのコインロッカーに、三十二年前の今日…産まれたばかりの赤ちゃんが捨てられていたの。そう……それが私――」


 ――ミスズさんが…この場所に捨てられていた……!


 真治は言葉を失う。

 自動販売機しかないバス停。

 ここにあったはずのコインロッカーの面影はなにひとつ無かった。

 ただただ冷たい風が吹き抜けている。


 真治は想像する。


 寒い季節に、このバス停のベンチで何時間も佇むミスズを。

 たったひとりで、心もとない様子で何時間もベンチに佇む、今よりも幼い姿のミスズを……


 それは真治が小学生の頃、玄関先で母親の帰りを待っていた時と似ていた。


「毎年……、ミスズさんはここに来てるって、言ってたよね?」


 真治の声が震えた。寒さのせいでは無かった。

 ミスズは「そうよ」と頷く。


「最初はね、私を捨てた人が来るかもしれないって思ってた…けど、会えなかった。もちろん、とっくの昔に諦めてるけど……」


 それは嘘だと真治は思った。さっきも通り過ぎる人の顔をミスズは目を凝らして見ていた。きっと自分に似た面影を探していたのだと、今なら分かる。


「ごめんなさい、こんな話……するつもりじゃ無かったんだけど」

「いえ……」


 真治は頭を振る。

 ミスズが「聞いてくれてありがとう」と言った。その微笑む姿が儚く見えて、真治は胸が絞られるように苦しくなった。


 ――さっき、俺とミナホさんをどんな気持ちで見ていたのだろう


 親子のような関係の自分たちを見て、羨ましかったかもしれない。得られない温もりが欲しいと願ってしまったかもしれない。自分は孤独なのだと思わせてしまったかもしれない。

 ミスズと重ねた短い時間を真治は思い出す。自分の心に寄り添ってくれた、本当は孤独だったミスズの優しさを思い出す。


 ――俺が、俺が今、ミスズさんのためにできることは……!


「ミスズさん、来年も俺と一緒にこの場所に来よう」


 真治は言った。


「もしミスズさんを置いていった人がきたら、今度は俺がミスズさんの気持ちを伝えるよ」

「真治、くん……?」


 ミスズの声がくぐもっていく。

 真治は呼吸を整えて、ミスズをしっかりと見た。


 そして――


『どうして、独りにしたんですか! 

 本当は、ずっと……ずっと独りで寂しかったんだ……!』


 風に紛れて消えてしまわないように、真治は強く叫んだ。

 ただ一つだけ、自分にできること。それはミスズの孤独に寄り添うことだけ。


「そう……私は、ずっとずっと寂しかったの……」


 涙とともに零れたミスズの呟きは、ずっと抑えていた心の声だった。


「最初から、ずっと独りだった……だれも、いなかった……」


 真治は自動販売機の前に立ちつくすミスズの隣にいき、溢れてくるミスズの涙を、冷たくなった指先で何度も拭った。ほんの少しでも良い。ミスズの孤独な魂が癒されるように。


「もう独りじゃないよ。俺がミスズさんの気持ち、ちゃんと分かってるから……」


 いつの間にか、駅にいくバスが止まっていた。

 真治はミスズの手をひいて、バスに乗り込んだ。



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