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⑤さゆりの祈り・ミスズの願い

 

 ――あの人の言うとおりだ。


 目が覚めたら、泣いていたようで頬がひりつく。

 さゆりは溜息を吐こうとして、それを飲みこんだ。溜息を吐ける立場ではないのだ。


 ――真治君を傷つけたのは、私なんだから。


「ごめんさい……ごめんなさい……」


 寝ても覚めても、さゆりは何度も謝罪を口にしていた。

 今日は、憂鬱な気分のまま仕事にいき、案の定小さなミスで上司に怒られて、落ち込みながら帰宅し、休んでいたらいつの間にか眠っていた。

 家族もとっくに寝ている時間だ。

 しんと静まり帰った部屋の中で、自分の(かす)れた声だけが響く。

 起き上がり、バッグの中にいれていたスマホを取り出す。

 ミナトから「おやすみ」とメッセージが届いていた。

 さゆりは胸の痛みを堪えるように唇をかんだ。


『真治くんは、明日も明後日も、この先もずっと……あなた達の事を思い出して、心の中で泣くのよ』


 真治の隣にいた知らない女の人が言ったとおりだと、さゆりは思った。

 誕生日の日、偶然、真治に会った。

 彼は傷ついた顔をしていた。顔は笑っていたけど、言葉は優しかったけれど、さゆりには真治が傷ついているのがよく分かった。

 これまで真治と重ねてきた時間が深いものだと実感させられた。

 真治を傷つけてしまったことに罪悪感を覚える。


「好き……好きなのに、ごめんなさい……」


 けれど、ミナトから告白され、その手を取ったことをさゆりは後悔していない。

 理由はある。


 いつが始まりだったのか――

 さゆりは真治との未来を想像できなくなっていた。

 真治をはじめて見たのは舞台の上だった。

 さゆりの学生時代からの親友は、ミナトの知人でもある。

「同じ事務所のやつの舞台、面白いから見にきなよ」とミナトから誘われた事がきっかけで、予定のあいていたさゆりは、親友と共に小さな劇場へと足を運んだ。

 舞台の上の真治は輝いていて、さゆりは自分が恋に落ちるのを自覚した。

 親友に頼み込んで、ミナトに真治を連れてきてもらい、緊張しながら会った日のことは今でも鮮明に覚えている。

 それから何度か二人で会って、さゆりは初めて自分から告白をした。

 かなり必死だったと思う。

 晴れて恋人同士になってからは、夢のように楽しい時間だった。

 初めて名前を呼んでくれた時のこと、緑が綺麗な公園で手を繋いで歩いた時のこと、キスをした時の熱い感触や、優しい声音、さゆりは真治のことを深く愛するようになった。

 付き合いはじめて何ヵ月か経ったとき、真治がそれまで(かたく)なに話そうとしなかった自分の生い立ちについて語ってくれた。

 自分を信頼してくれたことは嬉しかったが、真治の孤独な人生を想像し、さゆりは泣いた。

 泣きながら、絶対この人と幸せになろうと誓った。


 けれど、真治が事務所との契約がきれて、役者として活動できなくなってからだ。

 少しずつ何かが変化していったように思う。

 真治が変わったわけではない。それは、さゆりの心の中で起きていた。

 真治との未来に幸せな自分を描けなくなったのだ。

 役者という職業を諦めていない真治は、喫茶店でバイトをしながら生活していた。


 このまま真治と結婚したらどうなるのだろう。

 結婚して、子供が生まれて――子供が生まれれば、さゆりはしばらく働けないだろう。

 経済面はどうするんだろう。

 真治はそこまで考えているのだろうか。

 積もっていく将来への不安は、日ごとに真治への不信感へ変わっていった。


 ――私の事、本当に想ってくれているのかな?


 そんな事を考えるようになってから、うまくやっている周りが羨ましく見えた。

 親友に相談をすると「焦っても仕方がない」と言われた。


 そんな時だった。ミナトに再会したのは。

 親友と飲んでいるところに、ミナトがやってきたのだ。

 別に浮気をしているわけでは無いから、真治には言わなかったけれど、ミナトが自分に好意を持ってくれてる事は何となく気付いた。

 どうして平凡な自分が、役者としてファンを多く持つミナトに好かれるのか疑問だった。

 真治と会う時間が減っていき、ミナトと会う回数が多くなっていった。

 ミナトはいつでも優しかった。いや、真治も優しい。

 違いがあるとすれば、ミナトはどっしりと地中に根をはる幹のように揺るぎない大きな愛情を持っていて、反面、真治の優しさは、木の葉のような風に吹かれて揺れる、とても繊細な気遣いに満ちている。

 ミナトの優しさに甘えるように、さゆりは胸の内にあった真治との関係、未来に対する不安を吐露した。

 いつも穏やかに笑っているミナトが、この時は真剣な目をして、さゆりの話す事柄をひとつひとつ噛みしめるように聞いてくれた。

 そして、ついにミナトに告白された。


「紀村はいい奴だよ。でも……俺はさゆりちゃんを不安になんかさせない。俺を選んでくれないかな?」


 すぐに返事はできなかったし、ミナトも待ってくれると言った。


「さゆりちゃんの誕生日、俺に祝わせてくれないかな? 夜、いつものカフェの前で待ってる。紀村じゃなく俺を選んでくれるなら、来て欲しい……」


 そうミナトに言われて、さゆりは悩んだ。

 悩むくらい、もうミナトに心が傾いていた。


 ――真治君のことは好き。

 ――でも、真治君と一緒にいて幸せになれる自信がない。


 結局、ぎりぎりまで悩んだ挙句、誕生日の当日、真治に別れを告げた。

 どうなるか不安だったが、真治がそれを受け入れてくれた事にさゆりは安堵する。

 仕事を終えて、いったん家に帰ると、母親が誕生日だからと真っ白なワンピースをプレゼントしてくれた。


「着ていきなさい、お父さんと一緒に選んだのよ」


 さゆりは父と母が自分のために一緒に買い物している姿を想像し、嬉しくなった。

 もう秋の始めだというのに真っ白なワンピースを纏い、さゆりは急いで待ち合わせ場所のカフェに向かう。

 ミナトは少し俯いて立っていた。

 すぐに気付いてくれなくて、さゆりは少し緊張しながらミナトの名前を呼んだ。

 ミナトが顔をあげる。視線が絡まって二人の距離が縮まる。

 これまでの想いが一気に弾けたように、気付くとミナトに強く抱きしめられていた。

 肌に馴染みすぎた真治とは違う体温に、さゆりの身体が熱くなる。


「絶対に幸せにする……!」


 耳元で囁かれた言葉に、さゆりの頭の中は、一瞬で今を飛び越えて未来の自分の姿を想像する。

 ――この人となら大丈夫……

 満ち足りた気分だった。この時までは。


「さ……ゆり?」


 レストランを出て、ミナトと手を繋いで歩いていると真治の声が聞こえた。

 まさかと、さゆりは自分の耳を疑ったが、驚いた表情の真治が目の前にいた。

 すぐにミナトが庇うように、さゆりの前に立つ。

 ミナトの肩越しに、呆然と立ち尽くす真治と目が合った。

 真治の目がさゆりに問いかけていた。「どうして?」と。

 完全に光を無くした瞳が、ただこちらを見ていた。

 さゆりは、はじめて罪の意識でいっぱいになる。

 ――私、真治君の未来の事なんて考えてなかった。自分の事だけしか考えてなかった。


「ごめん……な、さい……」


 胸が詰まって苦しくて、上手く言葉が出なかった。

 そんな自分を前に、真治は笑いながら「今まで有難う」と、そう言った。

 ミナトに「大丈夫か?」と肩を抱かれ、さゆりは何とか頷いた。

 ミナトも少し青い顔色をしていた。

 その時、再び声をかけられた。自分より年上の知らない女の人だった。

 追い打ちをかけるように言われる。


「あなた達は、これからもお互いのことを想いあって、慰めあって、幸せに過ごしていくんでしょうね……でも、」


 怒りを(にじ)ませた瞳から、涙を零して、さゆりを見て言った。


「でも真治くんは、明日も明後日も、この先もずっと……心の中で泣くんだと思うわ……」


 とどめを刺されたと思った。

 さゆりの肩に添えられていたミナトの腕が、びくっと震えた。


「ごめんなさい、ごめんなさい…」


 何度もさゆりは謝った。女の人が去ったあとも、しばらく言い続けた。

 それから毎日、仕事中でも心の中で謝罪する日々が続いている。


 ――真治君が毎日泣くのなら、私は毎日謝るしかない。

 ――真治君の幸せを毎日祈るしかない。


 孤独な真治を理解しながら、ミナトの手を取った自分に出来ることはそれくらいしかないと、さゆりは思った。

 再びベッドに横なり目を閉じて祈る。

 眠りの(ふち)を漂いはじめた時、あの日、真治と一緒にいた女の人のことを思い出す。


 ――あの人も、孤独な人なんだ…

 ――だって真治君と同じ目をしていたもの。


 さゆりの閉じた瞼から、また涙が零れた。




 定時を一時間ほど回ったところで、ミスズは会社を出る。

 吹き抜ける風が冷たくて、ミスズは先週買ったばかりのコートの前ボタンをしっかりと閉じた。

 これから冬に向けて気温は下がる一方だろう。

 ――マフラーもそのうち必要になりそうね。

 涼しい首元が少し気になった。

 ミスズは電車を降りて改札を出ると足を止めた。少し迷ったあとアパートには向かわずに、暗くなった街を歩き始める。

 ここは都心から離れているせいか、まだ遅い時間ではないのに既にシャッターが降りている店が多く、人通りもまばらになっていた。

 たどり着いたのは四階建ての古いビル。ミスズは地下へ続く階段をゆっくりと降りた。

「ソラ」という名のバーがこのビルの地下にある。

 ミスズが東京に来たばかり頃、とくによく通っていた店だった。

 最近は仕事が忙しいこともあり、すっかり足が遠のいていたと、ふと思い出したのである。

 扉から控えめな優しい光が漏れていて、変わらない店の様子にミスズは安堵する。


「いらっしゃいませ~って、久しぶりじゃないっ、ミスズちゃん!」


 マスターの船岡(ふなおか)ダイチだ。

 ミスズの来店に驚きと喜びが混じった表情で、カウンターから飛び出してくる。


「ダイチさん、なかなか来れなくてごめんね?」

「いいのいいの。さあ、座って!」


 ミスズはカウンターの席に腰をおろした。客は今の時間は少なく、ミスズの他にカウンター席に女性がひとり、テーブル席に一組だけだった。以前、会社の飲み会帰りに顔を出した時は、ほとんど席が埋まっている状況で驚いた事を覚えている。だから、なるべく仕事が早く終わった日にだけ行こうと決めていた。


 ミスズはカウンターに入るダイチの姿を見つめる。

 船岡ダイチ、歳は四十五歳。彫りが深い日本人離れしている顔立ちで、長身、服の上からでも分かるくらい筋肉質な身体つきをしている。

 しかし外見の男らしさに反して、喋ると何故か「オネエ系」になってしまうのが特徴で、お酒を飲みながらダイチとの会話を愉しみにくる女性客も多いらしい。


 実はミスズ自身、彼に憧れを抱いていた時期があった。

 恋に発展しなかったのは、ダイチに家族がいることを知ってしまったからだ。愛する妻がいて、子供もいる。来ていた他の客との会話で知ったことだった。

 ――ダイチさんのような人がそばにいたら、きっと幸せね。

 恋はしていないが、ダイチと会うたびに、どうしようもない精神的な渇きをミスズは覚えてしまう。

 誰かひとりでいい。

 自分にもそばにいてくれる人がいたら……そう思ってしまう。


「はい、おまたせ。どうせ夕飯食べてないんでしょ?」


 ダイチがカクテルの入ったグラスと、器からはみ出すくらいに野菜がのったサラダをミスズの前に置く。


「ちゃんと食べなきゃ、仕事もちゃんとできないんだよ~」


 そしていつの間に作ったのか、綺麗な三角形のおにぎりまで出てくる。


「ダイチさん、ここはバーだよね? 間違ってないよね?」


 ミスズがカクテルとサラダとおにぎりを交互に見ながら言うと、ダイチは「もちろん」と大きく頷く。

 バーと(うた)いながら、夕飯を食べていないミスズにダイチはいつもご飯を出してくれる。いつだったかは味噌汁が出てきて「ここは定食屋ですか?」とツッコミを入れた事もあった。


「まるで、お母さんみたいね……ふふ」


 カウンター席に座っていたミスズよりもさらに歳上の女性が、二人のやり取り見て面白そうに笑って言った。


「本当に…私、子供じゃないのに…」


 椅子ひとつぶん離れた距離で、ミスズも女性と顔を合わせて一緒に笑い、その心地よさに会話が弾む。

佳菜子(かなこ)」と名乗った女性は、このバーの常連だとダイチが紹介してくれた。

 キャリアを積んだ女優のように、年齢さえも武器にしているような美しい女性だとミスズは思った。メイクもきっちりしているし、長い艶のある髪はきれいに巻かれ、背中に流してある。身につけている黒のノースリーブのブラウスは胸元が少し開いていて、彼女の肌の白さを際立たせていた。

 そんな女性がグラスを傾けている隣で、ミスズはダイチの作ったおにぎりを食べている。

 なんだかとても滑稽な姿だった。


「私ね、先週で仕事を辞めたの……」


 前触れなく佳菜子は突然そう言った。

 それから「スナックでずっと働いてたの」と付け加える。


「そうだったんですか……」

「だからお世話になったお店に挨拶しに来ていたの……」


 佳菜子の目元が少し赤くなっていた。

 もしかしたら、結構長い時間飲んでいて、酔いもまわっているのかもしれない。


「ダイチさんにもお世話になったんですか?」

「ええ。お客がつかなくて困った時は、いつもダイチさんに頼ってたわ……」

「懐かしいね~」


 ダイチがビールの入ったグラスを片手に目を細める。

 二人が見つめあい笑う姿は、長い時間を共に過ごしてきたことを物語っているようだった。


「それで、仕事をやめて、これからどうされるんですか?」

「結婚して、彼について海外に住むことになっているの」


 佳菜子は細い左手の薬指に光る指輪を見せてくれた。


「素敵ですね……」


 幸せそうに笑う彼女は、さらに美しく見える。


「どこで知り合った方だったんですか?」

「もちろんお店よ。偶然だったのよ。彼とは同級生だったの……」

「すごいですね。それが結婚に繋がるなんて」

「ふふ、あなたには誰かいないの?」

「いえ、残念ながら」

「そうなの。もったいないわね……貴女、私なんかより、ずっとしっかりしてそうなのに」


 ミスズは苦笑いしながら、首を横に振った。たとえ結婚しても、その後うまくいくという保証はないのだ。

 ミスズはふと真治の身の上話を思い出す。

 佳菜子はスナックで働いていたと言った。


「実は、人を探しているのですが……」

「突然ね、誰を?」

「佳菜子さんの働いていた世界の方ですが……」


 ミスズがそう言うと、佳菜子は興味を持ったように身を乗り出した。


「私に分かるかしら?」

「もしかしたら……。名前は児玉(こだま)ミナホさん」

「本名かしら? 私、源氏名しか分からないわ……」

「そうですか…」

「他に何か……特徴とかはあるかしら?」

「他に……。実はその方は、不倫相手の子供を育てていたらしくて……」


 不倫相手の子供とは真治のことだった。

 ホテルで真治の身の上を聞いたときに、話にでてきたのが「児玉ミナホ」さん。真治の父親の愛人だった女性で、真治を育ててくれた恩人とも言うべき人。

 真治は会いたいけど、居場所が分からないと言っていたことをミスズは思い出した。


「不倫ね。確かにいろんな事情を抱えて働いてる子は多いけれど。私の知り合いにはいないわ」


 簡単に見つかると思ってはいないが、やはり難しそうだとミスズは項垂れた。


「昔、一緒に住んでいた家にも行ってみたそうなのですが、そこにはもう誰も住んでいなかったようで」

「そうだったの……」


 ミスズは残っていたカクテルを飲み干して、空になったグラスを見つめる。


『いつか、役者の夢を応援してくれたミナホさんに、舞台に立つ姿を見て欲しい』


 そう言った真治の瞳はただ純粋で、幸せを願わずにはいられなかった。

 ――できることなら、逢わせてあげたい。


「ミスズちゃん、実は」


 佳菜子が口を開いた。


「私ね、来週には海外に発つことが決まっているの」


 先週仕事を辞めて、来週には海外に行くのかとミスズは驚いた。


「そうだったんですか……」

「だから、あまり力になれそうにないけど、出来るだけ探してみるわ!」


 佳奈子は力強く頷いた。


「ありがとうございます、佳菜子さん」

「縁があれば、きっと会えるわ……。それに、日本で最後に私にできることが見つかった気がするの」


 佳菜子が立ち上がる。


「さっそく、元職場に言ってくることにするわ。何か分かったら連絡するから」

「気をつけて、いってらっしゃい!」


 ダイチと共に、佳菜子を見送る。

 凛とした後姿がミスズの目に焼きついた。


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