④心についた傷・あこがれ
店を出ると、秋の気配が濃厚に感じられる冷たい風が吹いていて、アルコールで火照った頬を心地よく冷ましてくれた。
真治とミスズは、まばらになった夜の街を歩いていた。
「本当に、ごちそうになって良かったの?」
「当然だよ。付き合ってもらったのは俺のほうだし」
「それだけじゃないわ。ホテルだって……」
ミスズの足取りが少し重くなっていた。
「いや、それこそミスズさんに泊まってもらったほうがいいよ。仕事で疲れてるでしょ。ホテルまで送ったら俺は帰るから、ゆっくり休んで」
さゆりと一緒に過ごすはずだったホテルに向かって二人は歩いていた。
真治はチェックインを済ませたら帰るつもりでいた。
ミスズと一緒に泊まることはできない。まして真治は自分一人で泊まることを想像した時、ひどく憂鬱な気分になった。きっと一晩中、さゆりのことを考えてしまうだろう。
だったら、ミスズに泊まってもらうほうが良いと思えた。
普通のビジネスホテルだったらまだ良かったのかもしれない。
しかし真治が予約していたのは、少し値の張るシティホテルで、それを聞いたミスズは、さっきから申し訳なさそうにしている。
「やっぱり私……」
「あ、ホテル見えてきた。本当は、あのホテルの中のレストランで食事したかったんだけど、予約取れなかったんだ……」
「ああ、あの有名なシェフがいる店ね。知ってるわ、テレビにも出てたし……」
「うん、さゆりが……元彼女が行ってみたいって言ってたんだ」
元彼女、そう口にするだけで、真治の心は一気に重苦しくなる。
ホテルに隣接されているレストランは、ガラス張りで店内の様子が外からよく見える。
予約が取れないというのも頷けるほど、テーブルの席はほぼ客で埋め尽くされていた。
「でも、さっきのお店も雰囲気も良かったし、料理もすごく美味しかったわよ」
「そうだね、」
確かに美味しかった、そう真治は続けようとしたが、不意に視界の隅に飛び込んできた光景に足を止めた。真治の息をのむ音だけがミスズの鼓膜に伝わった。
「さ……ゆり?」
レストランから出てきた男女に目を凝らした瞬間、真治は凍りついた。
二人とも真治のよく知る人物だった。
少し背が低くて、ほっそりとしていて、綺麗な黒髪。花がふんわりと薫るような優しい笑顔のさゆりと、真治が憧れて、追いかけ続けている場所にずっと立ち続けている、役者の海原ミナト。
――さゆり、どうしてミナトと……
さゆりは真っ白なワンピースを身に着けていて、ミナトと手を繋いで笑っていた。
誰が見ても恋人同士の空気がそこにはあった。
「真治くん、まさかとは思うけど……」
察しただろうミスズが、真治の視線の先を見つめて言う。
「そうか……」
真治の声が震えた。さっきまで心地よいと思えた風が今は震えるほどに冷たい。
「さゆりは、ミナトを選んだんだな……」
目の前の事実が真治の胸に突き刺さり、痛みをもたらした。
「むこうも真治くんに気付いたみたいよ……」
ミスズが言った。
さゆりとミナトは、真治の姿を見つけて、繋いでいた手を離して青ざめている。
「真治君……」
呟いたさゆりと目が合った。
さっきまで笑っていたのに、今は真治を見て泣きそうな顔をする。
庇うようにミナトが前に進み出た。
その様子を見ながら、真治はただ立ち尽くしていた。
――なんだ、これ。
――これじゃ、まるで俺が悪者みたいじゃないか。
さっき飲んだアルコールとは違う気持ち悪さが全身を巡っていく。目の前が暗くなって、気が遠くなる。
自分の存在も抱えている夢も、全てが砕けていくようだ……そう思ったとき、真治は背中に体温を感じた。
宥めるように、労わるように、ゆっくりと温かさが広がっていく。
それはミスズの小さな手のひらだった。
「ミスズさん……?」
「真治くん、どうするの?」
「どうするって……」
この状況だ。一秒でも早くこの場から立ち去りたい。だが、思うように足が動かない。
ミスズが撫でていた手のひらを止めた。
「大丈夫よ」
ミスズが力強く言った。
「大丈夫。きっと、あなたならうまく演れるわ――」
暗闇の中で、ミスズの瞳は夜空に浮かぶ星のように輝いて見えた。嘘も迷いも見えない瞳だった。それは手を伸ばしても届かない遠くの輝きでは無くて、旅人の足元を照らす灯火のような輝き。
「ミスズさんは、本当に……俺のことを役者だと思ってるんだね……」
導かれるように真治は一歩を踏み出した。自分でも驚くほど簡単に身体は動いてくれた。
――さゆりが泣いている。
近づいてくる真治に、ミナトは覚悟を決めたような表情で見据えた。
真治は二人の前まで進み、足を止めた。
「真治君……ごめんなさい……わたし……」
さゆりの声が掠れて震えている。
「いや、俺が悪かったんだよな。悩ませてしまってごめん……」
真治はそう言って、さゆりに頭を下げた。
「ミナトはいい奴だよ。きっと、さゆりを大切にしてくれる」
「俺は、」
ずっと黙ったままのミナトが口を開いた。
「俺は、謝らない。俺だって……本気なんだ!」
言い放ったミナトの言葉が真治の胸に刺さる。
「いいよ、謝らなくて」
真治は力無く笑った。
――これで、本当に終わりにしよう。
「さゆり、今まで有難う。それからお誕生日おめでとう」
真治は歩き出した。
舞台から降りる瞬間を思い出す。
もう、自分の出番は終わりだ。
身体が震えそうになって、真治はぐっと奥歯を噛みしめる。
――これで、良かったよな?
歩きながら、隣にあったはずのミスズの気配が無いことに気付いて、真治は振り向く。
冷たい風に煽られる髪を左手で抑えて、さゆりとミナトの前にミスズは立っていた。
ボルドーのスカートの裾がゆらゆらと揺らめいていている。
ミスズが何かを話している。
風に紛れたミスズの声は途切れ途切れだったが、真治の耳にも届いてくる。
「あなた達は、これからもお互いのことを想いあって、慰めあって、幸せに過ごしていくんでしょうね。でも……」
真治は息をのむ。
ミスズの目から涙が零れていた。
「でも真治くんは、明日も明後日も、この先もずっと、心の中で泣くんだと思うわ……」
ミスズの言葉は、真治から赦され、安堵した二人の表情を一瞬で凍りつかせた。
――ミスズさん……
真治の胸に、熱いものがこみ上げて来る。
「これ、使って……」
歩いてきたミスズにハンカチを差し出すと「何故?」という表情をしながら手を伸ばす。
手のひらに落ちた透明な雫を見て、ミスズは驚いた。
どうやら、自分が泣いているという事に気がついて無かったらしい。
「なんか……俺よりミスズさんのほうが、役者みたいだったよ」
真治が笑いながら言うと「聞いていたの?」と、目元だけでなく、頬も赤らめるミスズ。
「でもミスズさんが言ってくれた言葉、嬉しかったよ。ありがとう……」
ミスズがさゆりとミナトに言った言葉は、怒る事も悲しむ事も出来なかった真治にとって、確かな慰めとなった。
「ああ、なんだか、マスターの淹れたシナモンカプチーノが飲みたい気分だな」
ミスズが落ち着くのを待ちながら、真治は小さく呟いた。
十月に入ると、冷んやりとした空気の漂う朝が増えてきた。
またこの季節がやってきたのだと、ミスズは朝の通勤時、街路樹を見上げて思う。夏の間は青々としていた大きな葉が、今ではくすんで色を失いつつある。
ミスズは少しだけ、憂鬱な気分になる。
――真治くんはどうしているかしら。
あの夜――ミスズと真治は豪華すぎるホテルの部屋で、明け方になるまで話をしていた。
「マスターのシナモンカプチーノは、さすがに飲みにいけないけど……」
ミスズはそう言って、ホテルのルームサービスでコーヒーを二つ注文した。
関節照明の柔らかい薄明りの部屋にコーヒーの香りが満ちていく。
「俺は、さゆりとずっと一緒にいたいと思ってた」
ぽつりと真治は言い、それから自分の思いをひとつずつ紐解くように、過去を語り始めた。
紀村真治は、ミスズも名前だけならよく聞く、会社の社長の息子だった。社長である父親は、当時付き合っていた女性が、妊娠したのをきっかけに結婚。真治が産まれた。
しかし、父親は他にも関係を持つ女性がいた。
夫婦関係は破綻し、真治が小学二年の時に母親は姿を消した。
当時も仕事の忙しかった父親は、真治の面倒を充分にみることは出来なかった。
真治はひとりの時間を持て余し、寂しさから、幾日も玄関先で母親の帰りを待っていた。
しかし、それは叶うことは無かった。
それどころか体調を崩して倒れていたところを発見され、病院に運ばれた。
この時、真治を見つけ、介抱してくれたのは父親の愛人の女性だった。
未だ母親がいなくなった現実も受け止めきれないまま、真治はその女性と二人で生活することになったのだと言う。
「それから、父親とは一度も会ってない」
「なんかドラマみたいな出来事ね……」
ミスズがそう素直な感想を口にすると、真治は意外そうな表情をする。
「あまり、驚かないんだね」
「実は、優子からすこし聞いていたの。ごめんなさい……」
ミスズは親友の優子から真治のことは聞いていた。ただ、実際に本人の口から語られると、多少の衝撃はある。
「おしゃべりだなユウ姉は。さゆりは、かなり驚いてた」
「きっとあの子は、父親がいて、母親がいて、幸せな家庭で育ったのでしょうね」
ミスズは真治の元彼女の姿を思い出す。ほとんど泣いている様子しか見てないが、顔だちや身に着けた服の印象もあり、柔らかく女性らしい雰囲気をまとい、浮ついたところは無かったように思う。
「さゆりが初めてだったんだ。自分のことを話したのは。そして、幸せになろうって言ってくれた…」
「優しい子なのね……」
「だから、さゆりとずっと一緒にいたいと思ってた」
そう言った真治は、泣きそうになるのを堪えているように見えて、ミスズの胸も痛くなる。
――明日も明後日も、この先もずっと、心の中で泣く……か。
ミスズは、さゆりとミナトに言った言葉を思い出す。
初対面の相手に対して、無関係で事情も分からない自分が、失礼なことを言ってしまったという自覚はあった。だけど、悔しさのような、怒りのような感情に抗うことができず言ってしまった。
後悔はしていない。むしろ後悔しているとしたら「うまく演れる」と真治に言ってしまったことだ。
自分の感情に蓋をしたまま、真治はさゆりとミナトを祝福した。
その姿を見てミスズは罪悪感が芽生えた。そうさせてしまったのは自分かもしれないと思ったら、真治の悲しみを訴えずにはいられなくなって、気が付いたら二人の前に立っていた。
言ったことは間違いでは無いはずだ。
朝、目が覚めたとき、食事をしている時、街中で目の前にカップルが歩いているとき、もしかしたら夢の中でも、きっと真治はさゆりのことを思い出してしまうだろう。
痛みや悲しみは心の中にぴったりと張り付いたまま……
――自分の幸せを優先した人たちは、残された人の痛みなんて分からないのよ。
考えているとまた目頭が熱くなってきて、ミスズはコーヒーカップに口をつけた。
気付くと、ツインベッドのひとつに座っていた真治は、いつの間にか横になり目を閉じている。
やがて穏やかな呼吸が聞こえてきた。
ミスズは静かにホテルの部屋を出た。
それから真治とは会っていない。会う理由も無いからだ。
ただ、真治の心が少しでも早く晴れることを、ミスズは願っていた。