③失恋・ここは舞台の上じゃない
強くなってきた陽射しをカーテンを閉めて遮ると、ミスズは出かける準備をはじめた。
小さなクローゼットの前に立つ。手に取ったのは先週買ったばかりのボルドーのフレアスカート。
それはミスズが働いている会社の製品で「絶対ミスズさんに似合いますよ」というスタッフの提案もあり、購入することにしたものだった。
スカートを身に着けると、トップスには白のシフォンの半袖ブラウスに腕を通す。
――靴はどうしようかしら。サンダルじゃ夏っぽいし。
そのまま玄関に向かい、備え付けられている靴箱の中を眺めてから、ベージュのエナメルパンプスを取り出す。つま先が少し開いていているデザインで、ボルドーのスカートにも合いそうだと、ミスズは一人で頷いた。
今日の休日の予定はあらかじめ決めていた。
真治がバイトをしている喫茶店に行くことだった。
体調不良でお世話になったお返しにと、昨日の仕事帰りに閉店間際のデパートに滑り込み、菓子折りを購入しておいた。それにマスターの淹れるシナモンカプチーノにも興味があった。
身支度が整うと、菓子折りが入った少し大きめの紙袋を片手にアパートを出る。
車一台分くらいの小さな道を少し歩いていくと、街路樹が並ぶ大きな通りに出た。
じりっとする太陽の熱を宥めるように、爽やかな風が吹いてくる。街路樹の葉が擦れ合い、サワサワと心地よい音を立てている。
舞い上がる髪を手で抑えながら、ミスズは駅までの景色を楽しむようにゆっくりと歩いた。
公園から飛び出してきた野良猫と目があったり、老年夫婦に道を尋ねられて簡単な地図を書いてあげたり、すれ違う駆け足のサラリーマンの肩にぶつかったりもした。
東京にきてから過ごす三度目の秋。いつの間にかミスズはこの場所での暮らしにも慣れてきていた。
地下鉄の駅へと続く階段が見えてくる。
ミスズは改札までいくと、まず路線の確認をした。
――ここからだと、三十分もかからなそうね。
通勤では使わない路線。
住み慣れてきた場所と、今まで知ることもなかった場所。
新しい関わりから生まれた行動が、さらに何かの変容をもたらすような、そんな予感がミスズを満たしていった。
真治がバイトしている喫茶店は駅から十分ほど歩いた場所にあった。商店街からも少し離れた場所にあり、人通りも落ち着いていて静かだ。
「喫茶店 NOTTE」と書かれている看板の前でミスズは足をとめた。
真っ白な外装の、二階建ての喫茶店だった。
小さな扉を開けると、全身が強いコーヒーの香りに包まれる。
テーブルがいくつか並んでいて、カウンター席の前にサイフォンが並べられている。透明な丸いガラスの中でゆらゆら揺れる液体から、白い湯気がいくつも立ちのぼっては消えていく。
「いらっしゃいませ」
ミスズが顔を上げると、笑顔の五十代くらいの男性と目が合った。
――この人が、マスターかしら?
年齢的にも間違いなさそうだ。
真治がいないか、店内やカウンターの中にいる他の店員を見ていると「二階へどうぞ」と声をかけられた。
――もしかして、お休みだったかしら。
ミスズは言われた通り、螺旋状になっている階段を使って二階へと向かう。
真治を探すのに気を取られてよく見ていなかったが、二階の店内の雰囲気が、一階とまるで違っていた。
一階では二十代くらいの若者が会話を楽しんでいたり、カウンター席でノートパソコンに向かうサラリーマンの姿があった気がする。
しかし、二階ではゆったりとした曲調のピアノの音色が響き渡り、コーヒの香りに混じって、ツンと年季の入った紙のにおいがする。
見ると大きな本棚が二つほどあり、そこにはたくさんの書籍が詰められていた。
一人がけのソファと、落ち着いた濃い色調のテーブルが程よい間隔をあけて並べてあり、目に入る客のほとんどが読書をしながら、ゆったりと過ぎていく時間を満喫している様子が窺えた。
――なるほどね。一階と二階で客層がわかれてる。これなら落ち着けるわね。
ミスズは窓際の席へと腰を降ろす。
外にはちょうど色づきはじめた銀杏の木が見えた。景色も良い。
「いらっしゃいませ。こちらメニューになっております」
水の入ったグラスを持って、さきほどのマスターらしき男性がやってきた。
ミスズはメニューを受け取り、順番に見ていく。
コーヒーに紅茶、それぞれに銘柄が記載されている。
あれ、とミスズは首を傾げる。
「もしかして、メニューに載っていないもので、注文できるものがあったりしますか?」
ミスズが聞くと、男は目元の皺を深くし、柔和な笑みを浮かべて頷いた。
「ええ……そうですね。何かリクエストがございますか?」
「では、シナモンカプチーノをお願いできますか?」
「おや。珍しい注文ですね」
柔和なその表情に、いたずらっ子のような笑みが混じった。
間違いなくこの人がマスターだと、ミスズは確信する。
「ええ。マスターの淹れるシナモンカプチーノが美味しいと聞いたものですから。今日は、紀村真治さんはいますか?」
「スタッフのお知り合いの方でしたか。失礼致しました」
マスターは納得したように頷いたあと、頭を少し下げた。
「申し訳ございません。紀村は本日お休みを頂戴しております」
「そうでしたか。実は、先日お世話になったものですから。ではこれを……良かったら皆さんで」
ミスズはそう言って、持ってきた紙袋をマスターに手渡す。
「せっかく来て頂いたのに申し訳ありません。失礼ですが……お名前を伺っても?」
「ええ、沢渡ミスズと言います」
「沢渡様ですね。かしこまりました。ご注文のシナモンカプチーノ、少々お待ちくださいませ」
去っていくマスターの後ろ姿を見送って、ミスズはソファに深く腰掛ける。
真治に会えなかったことは少し残念だが、また足を運ぶ機会もあるだろう。ミスズは立ち上がり本棚に向かう。
視線を滑らせてから一冊の文庫本を手に取る。それは星樹という作家が書いた短編小説だった。
ミスズは穏やかな時間を楽しむことにした。
そして真治の言っていたとおり、マスターの淹れたシナモンカプチーノは癖になりそうなくらい美味しかった。
真治がミナトに会ってからちょうど一週間がたった。
「なにかあれば連絡する」と言っていたミナトからの連絡は、やはり来なかった。
――期待してたわけじゃないんだけどな。
それでも、気付けば溜息を吐いていることが増えていた。
――だけど、今日だけは忘れよう。
まだ夏が燻っていた。ネットでチェックした今日の最高気温は三十二度、最低気温は二十四度。
真治はグレーのタンクトップの上に、真っ白なリネン素材のシャツを羽織ると、エアコンの電源を切る。
真治にとって今日は特別な日だった。
九月十九日。
真治の彼女――橘さゆりの二十五歳の誕生日だった。
三年前からこの日はただの九月十九日ではなく、大切な人を祝う一日として過ごしていた。
橘さゆり――艶やかな黒髪が似合う、古風というよりは可憐で、料理上手なしっかり者の女性だと真治は思っている。
事務所との契約がきれた時も、多くを追求せずにそばに居てくれたことは、真治にとっては大きな心の支えになった。
さゆりは実家暮らしだから、よく真治の住むアパートに遊びにくる。一緒に料理をして食べたり、映画を観たり、週末は泊まっていくことも多かった。
出会って付き合うようになってから三年半。関係は良好だ。
バイトも今日は休みにしてもらった。さゆりは派遣社員で、休みが取れなかったため、仕事が終わったら待ち合わせをして、一緒に食事にいく予定になっている。
まだ昼だから、時間には余裕がある。
真治はコンビニに行くため、パンツのポケットに柔らかくなった革の財布をしまって立ち上がる。テーブルに置いていたアイフォンを手に取ろうとした時、短い着信が響いた。
それは、さゆりからのLINEだった。
――珍しいな。この時間に。ああ、昼休みか……
真治はすぐにLINEのトーク画面をひらく。
真っ黒な文字が飛び出すようにあらわれて、真治の瞳には、さゆりからの言葉だけが映る。
短い内容だった。
けれども真治は、何度も、何度も、浮かび上がった文字を目で追った。
周りに流れている生温くなってきた空気や、外から響く雑音も、今の真治の耳には入らなかった。
さゆりからの言葉、それは別れを告げる言葉だった。
『真治君。ごめんなさい。
色々考えましたが、今日は会えません。
真治君とのこれからに自信が持てなくなりました。
別れよう……』
窓の向こうの陽ざしが落ち着き始めた時刻になって、ようやく真治は深い呼吸をした。何度、さゆりからのメッセージを読み返しただろう。
真治は力の抜けきった身体をベッドに投げだし、さゆりと過ごした時間を思い出していた。
じっとりと背中にかいていた汗もすでに冷えきって、羽織っていたシャツには細かい皺ががいくつも寄っている。
嬉しい時も、悲しい時も、時間は立ち止まる事を許さない。
さゆりへの返事を悩んでいた。にわかには受け入れ難い別れの言葉に、真治はさゆりと過ごした時間の中に理由を見出そうとしていた。しかし、
――さゆりは今、どんな気持ちでいるだろう。
自分の誕生日に別れようと言ったのだ。
少し前から悩んでいたに違いない。しかし、そんな素振りは微塵も感じなかった。
喧嘩をしたわけでもない。
もし不安にさせていたのなら、謝って話し合うべきだと思った。
けれど、さゆりの言う「これから」に、もし「結婚」ということが含まれているのだとしたら……
――俺とじゃ、幸せになれないって思ったんだよな。
真治の指先が震えた。
自分という存在が否定されたようでショックだった。たとえ和解したとしても、一度でも自分を否定された事実は傷となり、残る気がした。
同時に心の中のもう一人の自分が、仕方がない事なのだと、声をあげている。
――だって俺は何も持っていないんだから……
さゆりだって、それは知っていたはずだ。
なのに今更、自信が無くなったとか、たちの悪い冗談かと一瞬思ったが、さゆりはそんな冗談を言うとは思えない。
だからこそ、もう終わりなのだと、真治は理解した。
アイフォンを手に取る。
『わかった。今まで有難う』
そう一言だけ、真治はさゆりへ返信をする。
彼女と過ごした時間のすべてが今は夢のように思えた。
もうさゆりの声も、笑顔も、柔らかい身体を抱きしめることさへも叶わない。
目を閉じた先の真っ暗な闇に落ちていきそうな、深い失望に真治は身を任せていた。
――そっか。俺、ひとりになったんだな。
孤独、という二文字が頭をかすめる。
しかも今夜はさゆりを祝うためにレストランとホテルを予約していた。
いまさら、キャンセルにしてはお店にも迷惑がかかるだろう。
――誰かを誘って……って、誰もいないじゃないか。
真治は虚しさで胸が詰まる。
恥ずかしいが思い切り泣きたい気分だった。
――どうせ、独りなんだ。
目頭がじんわりと熱くなったところで、アイフォンが短い着信を告げた。
一瞬、さゆりからだと思ったが違った。
相手はミスズだった。
夕方の新宿はターミナル駅らしく、多くの人々が行き交い吸い込まれるように、どこかへ消えていく。
真治は遠目でもすぐにミスズの姿を見つけることができた。
デパートのエントランスの真っ白な光の中に、浮かび上がるように佇むミスズ。
ボルドーのスカートを身に着けていて、大人びた美しさが際立っている。
ミスズから「喫茶店に行きましたがお休みだったので、また伺います」とメールが届いたあと、真治はすぐにミスズに電話をかけていた。
迷いは無かったように思う。
「もし、これから時間が空いていたら、俺と食事に行ってくれませんか?」
誰かに話を聞いて欲しかったのかもしれない。
ミスズには隠す必要も無いと、何故か自然にそう思えた。
簡単に事情を告げると、ミスズはすぐに承諾してくれた。
ほんの少しだけ、胸の痛みが和らいだ気がした。
――まさか、こんな形でまた会うことになるとは。
「おつかれさま、真治くん」
真治の姿に気付いて、小さく手を振りながらミスズが近づいてくる。
「休みの日に、わざわざ付き合ってもらってすみません……」
「気にしないで。困ったときはお互いさまよ……と、優子が言ってたわ」
申し訳なさそうに謝る真治に、ミスズは穏やかに微笑んだ。
「予約している店まで少し歩きます」と告げると、ミスズは「わかったわ」と頷く。
――こういうとき、何を話せばいいんだろうな。
真治とミスズは夕日で赤く染まる新宿の街を歩く。向かってくる人ごみを避けながらミスズを見ると、真治の左側に距離を保ちながら歩いている。
ふと気付く。
――ミスズさん、さゆりより歩くの早いな。
スカートからのぞくスラリと伸びた足、そしてベージュの艶やかなパンプス。安定したリズムのように軽くヒールを鳴らして、真治の歩幅に合わせて付いてくる。
さゆりはヒールの高い靴を履くと歩みが遅くなり、真治の後ろを追いかけるように付いてくることがあった。
真治は視線を上にずらしていく。
ボルドーのスカートに薄い生地の真っ白なブラウス。胸元のふくらみ、透明感のある細い首筋。そして、前を見据える瞳。
――さゆりは、どうだったんだろう。
自分の後ろを歩いていたとき、どんな表情をしていたんだろう。どんな気持ちで自分の背中を追っていただろう。
考えているとミスズと目が合い、真治は俯くように視線をそらした。
「真治くん。やっぱり元気ないわね……」
「……ごめん。顔に出てるよね」
真治は苦笑いした。さゆりの事ばかりを考えている。
「別に謝らなくても…無理しなくていいわよ。だってここは舞台の上じゃないんだもの……」
さらりと言ったミスズの言葉に、真治は息をのむ。
――ここは、舞台の上じゃない。そうだけど、いや、そうじゃなくて……
今、一瞬、何かを理解した気がした。けれどそれが何だったのか分からなくて、もどかしい。
真治の鼓動が早くなる。
不思議だった。
さゆりは真治が役者になる事を、真治の夢だと応援してくれていた。
だが、今、隣を歩いているミスズは決定的に違うのだ。
「そうか……」
ひとつの答えにたどり着く。
「ミスズさんは、俺のことを役者だと思ってくれてるんだね……」
「……?」
首を傾げるミスズを見ながら、冷たかった指先に熱が{灯}(とも)るのを感じた。
――たった一人。俺を役者だと思っている人がいる。
真っ暗だった心に小さな光がうまれた気がした。
「ご予約の紀村様ですね。今日は、お誕生日おめでとうございます」
深々とウェイターに頭を下げられたミスズを見て、真治はいたたまれない気持ちになる。
ミスズは「ええ、有難うございます」と笑顔で応えている。
「ごめんね……」
真治はそっと小さな声でミスズに謝ると、ミスズは「大丈夫よ」と笑った。
案内されたテーブル席には雪原を思わせるような、真っ白なクロスが敷かれており、テーブルの中央には小さなフラワーアレンジメントと共に「お誕生おめでとうございます」と書かれたカードが添えられていた。
「素敵なお店ね。あまりこういう所、来たことないわ」
「俺もだよ……その、特別な日だったから」
「彼女思いなのね。女性は嬉しいと思うわ……誕生日は特別なのよ。こんなふうにお祝いされるのは憧れだわ」
ミスズは楽しそうにフラワーアレンジメントを眺めている。
その後もウェイターがワインをグラスに注ぐ緊張を孕んだ動作に目を見張ったり、運ばれてくる料理の繊細な見た目の美しさに感激しながら、食事をしていた。
食欲のわかない真治は、ワインで料理を飲み下しながら、ミスズを誘って良かったと思った。