②再起・ミナトの忠告
――人生は何が起こるかわからない。
真治は思う。
自分で例えるなら、割と裕福な家庭に生まれたものの、両親の仲がうまくいかず、母親が家出をしたまま戻ってこないとか、何日も何日も疲れるまで玄関先で母親の帰りを待つ幼い自分が、風邪をひいて倒れ、その時に助けてくれたのが、父親が通うスナックで密かに関係を持っていた愛人の女性だったこととか。
それに――唯一、身内と呼べる遠い親戚の優子からバイト終わりに連絡がきたかと思えば、一度しか会ったことのないミスズの看病を頼まれるとか。
――まるで、引力のようだ。
標識の無い人生のなかで、もたらされた出会いによって、真治のつま先は吸い寄せられるように歩みを変えることになる。
そしてあの夜、ミスズの姿を見て感じたことがある。
神経をすり減らして、疲れきって、青ざめて、崩れ落ちて、でもそれが常だと立ち上がろうとするミスズのように、全力で生きてみたら何かが変わって、きっと何か新しい道が見えてくるかもしれない。
だから真治は行動することにした。
役者として生きるという夢に、もう一度、真剣に向き合おうと決めた。
まだ夏の熱が燻る昼間の人ごみの中を真治は歩く。
二年振りくらいにこの場所を歩いているのに、不思議と懐かしさは感じなかった。
時刻は十三時を過ぎようとしていて、昼休みを終えただろう会社員達とすれ違う。その中には真治と同じくらいの年齢の青年が、スーツを着て足早に歩いている。
こういう時、真治は想像してしまう。
――もしあのまま、親父といたら、俺もあの人達と同じような毎日を過ごしていたかもしれない。
そこまで考えたあと、すぐに頭を振る。
――違う。俺には夢があるから。
真治の夢。それは役者として生きることだった。一度は役者として舞台にあがり充実した日々を送っていたが、それは長くは続かなかった。所属していた事務所との契約がきれて、フリーとして活動することになったのだ。
契約の延長はなかった――それはつまり、解雇ということだ。
歯車が錆びて動かなくなったように、真治は立ち止まってしまった。
生計を立てるために喫茶店でバイトをして、役者としての感覚を維持するために、演劇のワークショップに参加する。
その縁でいくつかの舞台にあがることにもなった。
当然のように、後ろ盾を失った真治は、台詞も出番も少ない脇役が多かった。不思議と満たされない感情が真治のなかで膨らんでいく。
脇役でも舞台に上がることが出来れば良いと思っていた。
だけどあの頃。事務所に所属して活動していたときは、仲間と一緒に舞台をつくっていた。
演出家とも、何度も話をしながら芝居をつくっていった。自分も舞台を構成する一つの歯車のように、関わり、動き、経験の全てをつぎこんだつもりだ。
だからだろうか……
頭を下げるようにして上がった舞台の上で、真治はあらかじめ設定されて動く、単調で、規則的で、誰でも良かったような演技しかできなかった。そして事実、そんな自分に賛辞をくれる者など、誰もいなかった。
舞台の上の自分を待っていてくれる者はいないと、真治は痛感させられた。
夢に対して押し潰されるような、切迫したものを抱えるようになっていた一方で、誰にも求められず冷めていく自分にも気付きはじめていた。だが――
信号が赤になり真治は交差点で足を止める。目的地が間近にせまっていた。
今日は事務所で同期だった海原ミナトと、喫茶店で会う約束をしていた。
俳優、海原ミナト――彼は同期のなかで唯一成功した役者だった。
彼のブログには、現在も新しい舞台稽古に忙しい毎日を送っている様子が綴られており、仕事の充実ぶりが窺えた。
真治は事務所との契約がきれてから、ミナトに連絡をしていなかった。次に会うときは、自分が役者として胸をはれるようになってから――そう決めていたからだ。
しかしそう思っていた気持ちも、成功しているミナトを羨む気持ちも、通り過ぎていつしか忘れてしまう景色のように、時間とともに褪せていく。
いつの間にか、夢があまりにも遠くのものになって、手を伸ばすことすら躊躇われた。
――でも、このままでは終われないんだ。俺はまだ何もやりきってはいないんだから。
それを気づかせてくれたのは、ミスズだ。沢渡ミスズ。真治の遠い親戚である優子の友人で、どこにでもいるような女性。
だけど彼女は、真治がかかわってきた人達と何かが違った。その「何か」は明確では無いが、ミスズの魂が持つ「何か」が、確実に真治の冷めていく夢への情熱を揺さぶったのだ。
信号が青にかわる。立ち止っていた人の群れが一斉に一歩を踏み出す。
真治もすれ違う他人の肩にぶつかりながら、歩き始めた。
約束の時間より早く着いたが、喫茶店に入るとすぐにミナトの姿を見つけた。
ミナトも真治に気づき、くわえタバコのまま手を振ってくる。
――少し、痩せたか? いや……
久しぶりに会ったミナトは少し日焼けをしていて、ブログの写真では分からなかったが、チェックの半袖シャツからのぞく腕は鍛えられたしなやかさがあって、以前より引き締まって見える。
もともとミナトは、がっちりとした体格のため、舞台の上でも引き立つ容姿だ。くりっとした瞳は印象的で、笑うと目尻が下がりセクシーさが増すから、女性のファンも多かった。
「ひさしぶり紀村。ああ、彼女元気してる?」
「久しぶりの挨拶がそれかよ……」
真治は苦笑いしながらソファに腰をおろす。
ミナトと一緒に、事務所の近くのこの喫茶店によく足を運んでいたことを思い出した。それはまだ真治が役者として一番楽しかった時期で、思い出すと、この街の景色と違って、なんだか遠く懐かしい気持ちになる。
真治はアイスコーヒーを注文した。
向かい側に座るミナトは、ぐしゃぐしゃとタバコの火を揉み消した。
相変わらずタバコを吸う量は多そうだ。
「ミナトは、最近どう?」
「ん? ああ、そうだな……まずまず忙しくやってるよ」
「だよな。ブログ見てて、ちょっと羨ましくなるよ……」
「お前、事務所からいなくなって、今どうしてんの?」
「喫茶店でバイトしてる……」
「は?」
ミナトの見開いた目が真治を捉える。
――なんだ? そんなに驚くことか?
「お前、この業界で見かけなくなったから、てっきりどっかに就職したのかと思ってたんだけどな」
ミナトはそう言ってから、またテーブルの上に置いていたタバコに手を伸ばす。
真治もちょうど運ばれてきたアイスコーヒーに口をつけた。
沈黙が続き、二人の間には店内で流れているジャズの音色と、ミナトが吐き出した白い煙が漂う。
「俺さ――」
アイスコーヒーのグラスをテーブルに置いて、真治はミナトと向き合うように姿勢を正した。
「俺さ、まだ諦めてないんだ。役者になるってこと」
真治の言った言葉は、決意のような、誓いのような響きを帯びていた。
漂っていた白い煙が、ゆらりと揺れて消えていく。
ミナトは吸い欠けのタバコを、今度は静かに灰皿に押し付けた。
「おまえ、俺にそれを言うために呼び出したのかよ」
責めるような、刺のある口調だった。
真治はテーブルの下で組んでいた指先をかたくした。
これから自分が何を言おうとしているか、ミナトは分ったんだろう、そう思った。
怒ったような表情のミナトを前に真治は俯く。瞬きした瞼の裏で、不意にミスズの姿が蘇る。
青ざめた顔色、疲れ果てて、倒れて、それでも立ち上がろうとする姿。
それから、穏やかにコーヒーを飲みながら、微笑む姿。
――そう、人生いつどこで何が起こるか分からない。
もう後戻りは出来ないと、真治は口を開いた。
「そうだよ。俺はもう一度、役者として舞台に上がりたいって思ってる。だから……ミナトにこんなこと頼むのはおかしいって分かってるけど、もしプロで活動していく役者を探してるとかオーディションとか、情報があったら教えて欲しいんだ」
つまり、ミナトのかかわりのある業界関係者に、自分を紹介して欲しいというお願いをするために、真治はここに来た。
握りこんでいた手のひらに熱がこもって、じんわりと汗が滲んでいく。
店内で流れている音楽や、周りの客の話し声の中で、真治はミナトの気配にだけ意識が向かう。
ミナトは、長く長く、ゆっくりと呼吸をした。
こういう癖があるのを真治は知っていた。落ち着けと自らに言い聞かせるようにミナトはゆっくりと息を吐く。そして言った。
「悪いけど――今は、そういう情報はないな」
「そっか。ごめん……」
「謝るなよ」
ミナトは笑った。そして、またタバコの箱に手をのばす。
「でも、お前にそんなこと言われるなんてな。お前はいい役者だと俺は思ってたよ。同じ舞台にいつか立ちたいとも思ってた……」
「そうだな」
どこか遠くを見るように、ミナトの瞳が細くなる。
「いろんな奴がやめてくのを俺は見てきたよ。役者の仕事だけでメシ食っていけるわけじゃないし、俺も覚悟してる。稼げなくなったらキッパリ辞めて実家に帰るわ」
ミナトの実家が農家だという事を、真治は思い出す。
「だから紀村、お前も執着しすぎるなよ。さゆりちゃんだって心配すんだろ」
さゆりは真治の彼女だった。飲み会でミナトが連れてきた女友達の親友、それがさゆりだった。
「心配はさせないようにしてるんだけどな……」
「それでも、オンナってのは付き合ってれば将来のことを考えるだろ。例えば、結婚とかさ――」
「結婚か……。今のところ、そういう話は出てないけど、俺も一応考えてはいるよ」
「そうなのか? どっちにしろ泣かせるなよ。さゆりちゃんのこと」
そこまで言ってから、ミナトは立ち上がった。
「帰るのか?」
「ああ、これからまた稽古だ」
「ごめんな。忙しい時に呼び出して」
「いや。お前の気持ちは分かったから、そうだな……何かあったら連絡するよ」
「頼む…」
「じゃあな」
ひらりと手を振って、ミナトが去っていく。
真治はソファの背もたれに体重を預けて、息をついた。
――駄目だったな。
何かあったら連絡するとミナトは言ったが、表情を見て、真治はなんとなく連絡は来ないだろうと思った。
それでも、自分の気持ちを言葉にしたせいか、ほんの少しだけ心の中が軽くなる。
――また、ここからはじめよう。
真治は、氷が解けて薄くなったアイスコーヒーを飲みほして、立ち上がった。