回想
斎藤亮太が職場を出たのは二十一時を少し回った頃だった。
普段なら十八時辺りには帰れる職場なのだが、ここ数日は近くの市立博物館が展示替えの時期だったので手伝いに回されていたのだ。明日には秋の着物の特別展が始まる。地元の豪商が所有していた着物だが、博物館の規模もコレクションの数もたかがしれているから、斉藤ら数人の学芸員を近隣の資料館や記念館から呼ぶことで一時的な労働力をおぎなっているのだった。今日で展示替えは最終日となり手伝い要員はお役御免となるので、明日からは斉藤ももとの郷土資料館での通常勤務に戻るだろう。
(あぁ、ようやっと終わった。明日からようやく通常だ。市立博物館は勝手がよくわからなくて肩がこる)
斉藤は帰りの車の中で一人ごちながら帰路についた。市内の信号機を避けて山際の農道を走っているので、道路の照明は最低限で対向車もなく、右側に続く山は覆いかぶさるような陰を作っている。ここでは自分の車のヘッドライトだけが頼りの明かりである。
夜の暗がりを息を潜めるように走ることは斉藤に不思議な感覚を与える。そんなときは決まって高校のころ友人がいった言葉を思い出すのだ。
『夜の月に照らされた海が、それでも月の光を反射しないで墨を流したようにくろい。それでいてどっしりとかまえているようで川のように速い流れが水面下にあるんだ。つまりね、そんなところにうっかり入ったならひとたまりもないような危険がそこにはある。なのにどうしようもなく惹かれることがある』
当時の斉藤は独白めいた口調に対して何もいわずに、ただ聞いていた。それは、何をいえばいいのか決めあぐねていたせいもあったのだが、友人はさして気にしていなかった。時々、こんな途方もないテーマで所感を述べるような会話をしていたのだ。それは、高校生が背伸びをしたくてするような話だったかもしれないし、本来自分の内にしまっておくような些末なことをお互いがお互いくらいしか話す人がいなかったせいかもしれない。
友人はそのまま言葉を続けた。
『自然の力が人じゃどうにもできないほど大きくて、足がすくむようでいて、でも憧れるみたいな気持ち』
斉藤はそういう観点でものを考えたことがなかったので、その場で返答を返そうと一生懸命考えた。
『探検家っぽい。南極とかエベレストとか、深い洞窟とかいく人がいいそう。お前なら向いてるかも』
──そんなことをいった気がする、記憶がもう大分曖昧なのだが。
斉藤にとってその話は完全に理解できるものではなかったが、それでもこんなふうに大きい体躯の自然が自分に干渉して薄ら寒い気持ちにさせるとき、なんとなしにその会話を思い出して畏怖と同時に謎めいた憧憬を生じさせるのである。
連載小説初書き&小説家になろう初投稿です。長編小説を書く練習として始めたので、読みにくいこともあると思いますが、一ヶ月をめどに書ききる目標()なのでお付き合いくださればと思います!