一月第一週(木曜日)(三回目)その一【プロローグ】
一月初旬。昨日は珍しく関東全域に雪が降り積もった。
夕方には辺り一面が雪景色となり、北海道を思わせる白一色で染まったが、今朝の暖かい陽気でそれももう見る影もない。
あるとすれば塀の上に並ぶ雪達磨の残骸が隣同士で寄りかかるようにしてサイズを小さくしているところぐらいか……。
「新年早々、また殺人事件ですね……。最近は物騒で捜査も大変じゃないですか?」
「これも仕事だ。近所で四件も立て続けに事件が起こってるからな。連続犯の可能性もある。今夜から当分の間は署に泊まり込んで、厳戒態勢を敷くつもりだ」
「それでは後で署の方に着替えと夕飯を持っていきますね」
「おう、すまん。いつも助かる」
「市民を守る大切なお仕事をされてるんですから、仕方ないですよ……」
「ご飯を食べたら現場に直行する。もし俺が署にいなかったら、デスクにでも置いといてくれ」
「はい、わかりました」
朝食の席で、お父さんと給仕中のお母さんが会話をしている。
お母さんは元婦警で、お父さんとは職場結婚をしたらしい。
俺が生まれてから一一年経つが、二人は今でもラブラブだ。
お母さんは『はい』と言いつつ、お父さんに荷物を手渡せるまで何時間でも署のロビーで帰りを待っている。これはもう決定事項だ。
そしてその帰り道。街灯の明かりが少ない夜道を一人で歩いていたお母さんは、お父さんが追っている連続婦女暴行の殺人犯に背後から襲われ……。
「直樹、手が止まってるわよ。早く食べなさい。学校が冬休みだからって怠けた生活をしていたら、お父さんみたいな立派な大人にはなれませんよ!」
「はい、ごめんなさい」
俺は一日を三回ずつ繰り返す体質だ。体質という言葉で済ますべきか、神のイタズラと言うべきか、実は記憶が残っていないだけで、世界全体が三回ずつ同じ日を繰り返しているだけなのか、正直わからない。
少なくても俺は世界が巻き戻っても記憶が残っている。
今日は三回目。だから、俺はこれから起こる一日の出来事をすでに知っている。
もちろん、五秒後にお父さんが卵焼きに醤油をかけようとして、手前にあるお味噌汁をひっくり返す事も……。
「醤油、醤油……」
お父さんは醤油を取ろうと手を伸ばし、お味噌汁の容器の縁にワイシャツの袖口を引っかけた。
「やべぇっ!」
俺はこの光景をすでに二回見ているが、二回目同様に一回目と同じ行動をとる。
「お母さん、タオル!」
俺が声をかける前に立っていたお母さんは台拭きを取るべく、踵を返していた。
悲鳴を上げるでもなく、すぐに動ける俊敏さ。一児の母とは思えない身のこなし。専業主婦にしておくのはもったいない。
お味噌汁の本流が皿の高台にぶつかり、進路を大きく変えた。具を含んだ濁流は平らなテーブルを駆け、陣地を広げながらお父さんのズボンへと迫る。
テーブルからお味噌汁がダイブする直前、お母さんは見事堰止めに成功した。
「ギリギリセーフ」
対してお父さんの正面に座っていた俺は、ティッシュ三枚で防波堤を作り、被害を最小限に止める。本当の最小限とはお父さんが器を倒す前に注意を呼び掛ける事だが、俺の体質に気が付いている者は誰もいない。
つまり、事前に声をかけるというのはあまりにも不自然な行為だ……。
「直人さん。現場でミスしないように気を付けてくださいよ?」
「あぁ、すまん。考え事をしていた」
お母さんが掃除しやすいように台拭きが通るタイミングに合わせて、お父さんが食器を持ち上げる。餅つきのコンビネーションには劣るが、なかなかの阿吽の呼吸だと思う。
あっと言う間に、目に見える汚れを拭き終えた。
「早く解決しようと何でも一人で背負い込むのは、悪い癖ですよ?」
「そうだな。『報告・連絡・相談』だったな……」
「そうですよ。捜査はチームワークです」
拭き掃除もナイスなチームワークでした。
お母さんは中身がいなくなったお椀を流しに入れ、新しいお椀に注ぎ直したお味噌汁をテーブルに置く。鍋に蓋をしていたため、また湯気が広がりお味噌汁のいい香りがする。
「これを飲んで一度リラックスしてください」
「そうする」
お父さんが慌て出すと、逆にお母さんが冷静になっていく。夫婦二人三脚。息子の俺から見てもお似合いの夫婦だと思う。
お父さんは朝食を食べ終えると、玄関でお昼のお弁当を受け取って家を出発する。
晴れた日は自転車で、雨が降っている日は白の軽自動車に乗って出かけて行くのだが、今日は現場に直行するとあって部下の者が玄関までパトカーで迎えに来た。
お母さんは見送りが終わって食卓に戻ってくると、お父さんの食べた食器を片付け、テーブルの拭き残しをキレイにしながら声をかけてくる。
「直樹も外出する時は、周囲に気を配るのよ。どこに犯人が隠れているのか、わからないんですからね」
「はい。お母さんも気を付けてね」
今日襲われると知らずに、人にアドバイスをできるほどだ。そりゃ……夜道で犯人と遭遇しても生還できるわけだよ。
午前中は居間のテレビでニュースのチェックをする。
どのチャンネルに合わせても、近所で起きている殺人事件が取り上げられていた。
内容は『犯人の目撃情報が少ないこと』、『夜道を一人で歩いている女性のみを狙っていること』、『拉致から殺害までが極短時間であること』などがフリップで事件毎に時系列で整理されていた。
「犯人は意外と、この近辺に潜んでるんじゃない?」
「土地勘がなければ……。塀が多いから隠れる場所はありそうね。でも、実は警察官の集合住宅街で、セキュリティーはすごいのよね……」
一回目にこのアドバイスができなかったから、お母さんは左手にナイフの切り傷を負った。
病院で手当てを受けたお母さんが帰宅後に「お父さんの手柄に貢献できちゃった」と、左手の包帯を隠すようにして笑顔を振り撒いていたのを覚えている。
きっとお父さんに病院でお叱りを受けたに違いない。どこか表情に陰りがあるようにも見えた。
二回目は先程のニュース番組を見ながら、注意を促すためのヒントをあげると、結果は無傷に変わる。
帰宅後のお母さんの顔は一回目よりも断然晴れやかだった。お父さんに褒められて、泊まりで夜勤予定だった最愛の旦那を解放することに成功したんだ。嬉しくないはずがない。
三回目の今回も二回目と同じルートを辿れば、お母さんは無傷で犯人を捕縛してくれる。
テレビを見ていると、お母さんがソファーの座る位置を近づけてきた。
「直樹も将来は警察官になるの?」
「クラスメイトの将来の夢が警察官ばかりだから、できればなりたくないかな……」
俺の通う小学校は周囲の立地条件から、必然的に親が警察関係者ばかりの学校になっている。
毎日『親が何の事件を担当した』、『あの事件の犯人はどんな奴だった』と守秘義務はどこへいったと思わせる会話が教室内で飛び交う事がある。
最新のニュースをチェックしていなければ、会話に付いていけない。もっと子供らしいテレビを見てもいいと思うんだが……。
「それは直人さんが悲しむわね。直樹の直感はよく当たるのに……」
「…………」
それは直感じゃない。
一回目に経験した事を俺の体質がバレない範囲で家族の安全のために役立てているだけだ。本当の俺の資質は並以下。自分でも自覚している。
「……冬休みの宿題でも終わらせてくるわ」
俺はソファーから立ち上がり、足早に居間から出ていく。
「もう~、直樹ったら。将来の夢の話になるとすぐ逃げるんだから……」
扉越しにお母さんの文句が聞こえてきた。
年齢の三倍も生きていると、精神年齢がそれなりなわけですよ。俺が警察官になったら、全ての事件を先回りして解決出来ちゃうよ……。ん? 先回り……?
俺は階段を上がり二階にある自分の部屋で勉強をする。
どういうわけか、人の三倍授業を受けているはずなのに、全く勉強ができない。
それでも授業中の先生の質問に答えられているのは、一回目に経験した事を二回目、三回目に発言しているからだ。
周りの人は三回目しか記憶に残らないため、俺の姿は授業を完璧にこなせる優等生に見えているだろう。その実体は単なる答えを丸暗記しているだけの少年だ。
「直樹~。駅前のデパートが新年のセールですって、勉強は後にして、買い物に行くわよ。荷物持ちお願いね」
「はーい」
いい子を演じるのも辛い。
勉強を開始して三〇分。声をかけられるのは知っていた。すでに外出の準備は完了しているが、早すぎるのも困りもの……。
「あと四五秒」
同じ時間に同じ事をする。これは俺が物心付いて、世界の異変に気が付いた時から続けていることだ。
俺が同じ行動をとれば、世界は必ず一回目と同じ結果になる。
階段を下りて玄関で靴を履き、お母さんの支度を待つ。
ガチャッと居間の扉が開くと、当たり前のように待機している俺に声をかけてきた。
「相変わらず準備が早いわね」
俺は一分で全ての準備を整えられるように訓練をしている。これは一回目と二回目のタイムラグを限りなく〇に近づけるためだ。
お母さんも現役時代の急な出動に手間取らないように慣れている。用意がとても早い。今でもお父さんの緊急要請で、夜中に起きる事も多々ある。
「どの靴で行こうかしらね。やっぱり動きやすいスニーカーがいいかな? どう思う?」
「今の時間帯は雪解け水が酷いため、黒いブーツの方がオススメです」
「そうね。まだ路面が濡れているわよね」
一回目、ブーツはブーツでも白いブーツで挑んで……失敗した。やはり白は汚れやすい。時と場所、天気、交通手段を把握していなければ選択は難しい。
ブーツを履き終えると、次の確認をしてくる。
「傘はいるかしら?」
「大通りを通らなければ車の交通量も少なく、泥跳ね水を警戒する必要はないです。また、屋根から落ちる水も比較的なくなりつつあるため、こちらもやはり必要ないです」
「直樹は見てきたように言うわね」
「直感男子ですから!」
『直感男子』これは俺の逃げ文句の一つだ。
ズバズバ正解を先取りできるこの体質には、まさに打って付けの言葉。
「直樹の直感は必ず当たるから頼りにしているわ。どうせなら、その調子で犯人の居場所も言い当てて欲しいものだわ。ねぇ、できる?」
「さすがにできません」
それはもう直感じゃなくて、推理や占い、霊視の類いだ。
でも、犯人の居場所か……。
奴の現在位置は分からずとも、今夜の出没ポイントならわかる。家からわずか五ブロック先の十字路だ。
「そう、残念ね。早く犯人を逮捕できればいいのに……」
心配せずともお母さんが見事手柄を立てて、お父さんとの仲は今以上に良くなること間違いなしですよ!
二人で家を出発。指差し確認。
「施錠完了」
「エコバッグも完了」
「あっ! あのデパートって袋が有料だったわね……」
一回目にエコバッグを忘れ、お母さんが本気買い出来なかったのを目撃した。
「直樹はゲーム機持ったの?」
「はい。バッチリです」
鞄から特にやる事のない携帯ゲーム機を取り出してみせる。
俺はこれからクラスメイトの男の子と一緒に女性の長い買い物を待つというミッションを実行します。
その特殊ミッションの長さは実に三時間! エコバッグの登場で不完全燃焼が解消されたお母さんは一回目より多めにお小遣いをくれます。お小遣いは喉の潤いに変えるもよし、貯めるもよし。使い方は自由です。
「やっぱりブーツで正解だったわね」
行きは歩道に窪みができており、巨大な水溜まりがいくつもある。完全に水を避けるためには一度歩道から下りて車道を歩く必要があった。
帰りは路面が乾いているから、その必要はない。それ以前に一緒に待たされていた男の子の家のマイカーに乗せてもらえるので、帰りの心配は特にいらない。
「直人さんの靴もそろそろ新しいのにした方がいいわよね。あとは肌着と服と……」
お母さんは歩きながら買い物リストを作成する。
俺は少し先を歩き、安全確認中。
どのタイミングにどちらの方角から車が来るのかは知っているが、みんな安全運転で危険な車輛はない。従って安全確認をしているフリだ。
「サイズは直人さんがLで、直樹がSね」
俺はゆったり大きめのを着る方が好きなのだが、お母さんは俺の気持ちを知らない。
衣服の緩みは心の緩みだとでも思っているのか、ベストサイズを心がけている。
「ねぇ、直樹。最近のアニメって何が流行ってるの?」
「キャラ物は時期が過ぎると着られなくなるから、古着としてあげられないよ……」
「それもそうね」
たまに我が家にも何年前の戦隊ものなのかわからない古着が届く。近所付き合いで持ちつ持たれつなのはわかるが、どうせくれるなら着れる物が欲しい。
俺の古着はきっと新品同様にキレイだと思う。転ける行為や、引っかける行為、取れない汚れが付く行為等が極端に少ないからだ。