第二十六話『頬の傷痕』
殆ど眠れなかった。
かといって別に後悔してる訳じゃねえ。あの目は知ってる。ただ、あの目が、俺を眠らせてくれねえ――
――ボロアパートの外に車を着けたあの夜。
後部座席から小鉄と勘助が飛び出し、やがて二人に部屋から引っ張り出された一人の女。その熟れた身体は、車の後部座席へとぶちこまれた。
助手席の俺は、勘助たちが女の左右に乗り込んだのをバックミラーで確認すると、翔に発車させるよう、顎で命じた。
『――あたしは知らない! 本当に何も知らないの! ねえ、チョキ、助けてよ……あんた、タカシの弟分でしょ? 色々面倒見てあげたじゃない……助けてお願い……見逃してよ……』
『姐さん、すんません。あっしらも散々、兄貴を探したんです。でももう、収まりのつく域を……とっくに出ちまってんです』
後部座席から助手席へ、すらりとした綺麗な脚が、ピンヒールと共に伸びてきて、俺の貧相な頬骨を鋭く削り取った。
『くっ!』
『バカヤロー! クソ生意気言いやがってぇ!』
『修二!』
『このアマァ! 大丈夫すかアニキ!』
『控えろ、お前ら。大丈夫か、チョキ。事務所に着くまでは、この人は俺たちの……姐さんだ』
そうだ、勘助の言うとおりだ。俺は、痛みに耐えた。これぐらいしか、姐さんに詫びることもできねえ俺の、不甲斐なさを、痛みで受け止めることしか……
『チョキぃ! この恩知らず! 人でなし! 酒も女も全部あたしが世話してやったじゃねーか! 忘れたかちくしょう! ちくしょう……』
無言で走る車は程なくして、駅西口の江田島組事務所に到着。
江田島は、わざわざ出迎えてくれた。
『――よう、修二。本家からの通達とはいえ、御苦労だったな。おいなんだその面ぁ』
『アパートで、転びました。何でもねえっすよ。それに……こいつぁこっちの不手際です。詫び入れに来たついでに、兄貴を預かりにきた』
思えばあのとき、江田島の目の奥の淀んだ光を、俺は、気が付けなかったんだ。
『――だいぶ貫禄付いたじゃねえか。だが、おめえさんがでしゃばるような案件じゃねえだろ。そろそろ、下っぱ仕事なんか止め――』
『――兄貴を預かりに来たって言ってんすよ。女連れてきたんだ。話ぁどうなってんだよ、オジキ』
『まあ、そうカッカすんなや。こっちだ』
長テーブルの上に行儀悪く座る江田島の両脇には、ボストンバッグが大小二つ、置いてあった。
金は戻ってきたようだ。が、俺の兄貴分は二度と姿を見せることはなかった。
『よお、ヒロミちゃん』
『江田島さん! タカシはどこ? 話が違うじゃ――』
『――選べや』
『え?』
『舌切りスズメって話、知ってっか? ヒロミちゃんよ』
大人一人入りそうなボストンバッグと、ボーリングの玉が入るくらいの大きさのバッグを、交互に女へ放り投げた。
『オジキ、そいつは……』
『おう、修二。仲間連れてもう帰っていいぞ。いいかヒロミちゃんよ。そいつはどっちもオヤジのもんなんだよ。修二のその怪我だってどうせ、勘違い女の仕業だろうが。タカシは、いい奴だったのになぁ。女ぁ見る目がねぇ』
『あんた……なんてことを……』
『タカシ……タカシぃぃぃぃ! いやぁ!』
『すまんが修二、お礼は後日、一席設けさせてもらう。退いてくれや。おうテメエら、本家御一行様を、本部事務所まで丁寧にお送りしろ』
『へい』
『待ってくれ、話が――』
『――話は終ェだっつってんだよ! 消えねえとぶち殺すぞ!』
有無を言わせねえ気だ。江田島の恐ろしさを心底、感じたときだった。
あの後……江田島からは結局、本家の金を持ち逃げした犯人は、見つけられませんでした、という報告を、本家に入れてきた。金はこの女が全て使い込んだ。そういう筋書き。
この一件で俺は、あの歳で舎弟頭まで出世することになった。解るか? 最初っから、江田島は本家の金が目当てだった。推測でしかないが、タカシの兄貴をけしかけたのも、全部テメエの筋書きなんだろ。
だが気付いたときにゃ、手遅れだった。俺の目の前で身ぐるみ剥がされたこの女もまた、二度とお天道様の下を歩くことはねえ。きっと死ぬまで金づる。
してやられた。俺たちは江田島にまんまとハメられたんだ。ここで無茶したら、翔も小鉄も勘助も、全員消される。俺は……差し歯が抜けるほど歯を食い縛った。考えろ……考えろ……
『――オジキよ……小せえ方のツヅラは、持って帰りやすよ』
『おう。物分かりが良くて助かるよ。ふっ、オメェは利口な奴だな』
『チョキぃ! 殺してやる! てめえはぶっ殺してやるぅぅぅぅ!』
……この仇は必ず……だから、それまで俺を、恨んで下さい……姐さん、済まねえ……
――そうさ、あの目を向けられることには、慣れてるんだよ。
ただ、もう二度と、向こう側の連中と同じことはしねえって決めたはずの、このピース・ベッテンコートとしての人生を……早くも俺は裏切っちまった。殺しだって、前世よりもえらく早ぇ歳でやっちまった。この世界は前と同じようにはいかねえが。解ってるはず、なのに……まぶたの裏に焼き付いちまった。泣き叫ぶ獣人族の子供。恨めしそうに俺を睨む、女の瞳が、あのときの姐さんとダブって見えちまった。
◇◇◇
重い身体を起こしテントを抜け出ると、母の弟子、ナッシュが焚き火の前で見張りをしていた。ずいぶんとやつれたような背中だ。銀色の鎧がえらく重そうに見える。
炎を見つめているんだろう。置物みてえに動かん。落ち込んでるのは解る。俺も一緒だからな。だが、どうしたもんかね。背後を取られて平気でいられるのは素人か、剣豪のどちらかだが……
「ピース様……」
後者の方で少し安心した。背中を向けたままのナッシュは、俺の名を呼んでから、振り返った。
「よく解りましたね」
「足音の重みと、息遣いで」
ナッシュはそう言うと再び炎を見つめ、ため息。流石だが、こりゃ重症だな。
「ナッシュさんに責任はありません。指示を出したのは母なのですから、自分を責めないで下さい」
「はぁ……そう割り切れたら、どんなに楽になれるか……」
赤い髪をかき分けたナッシュは、今度は地面を見つめだした。そのままじゃ、半開きの口からよだれがたれちまうだろ。なんか変なスイッチを押しちまったようだ。
「ナッシュさん、お願いがあります」
「ほぇ」
「気晴らしに、ちょっと仕合いませんか」
「仕合い、ですか?」
ちと付き合えよ。こんなときは気晴らしに限る。
ナッシュは目をぱちくりさせると、ややあって少し笑い、炎を見つめた。ほう、そりゃ何か? 大人の余裕ってやつかい。
「――私、一応これでも免許皆伝なんですが、役不足ですか」
「いいえ、存じております。ピース様はシャルロット様のご子息様であられますし、それはとてもお強いというお話も。しかし……今は気分が」
その気分、変えてやろうってんだろうが。バカタレが。
「では、襲って差し上げますので、剣を抜いて頂けますか?」
テントに戻り、いびきの酷い男爵の懐から、長剣をちょいと拝借。
「私の杖じゃ魔力のせいで全員起きちゃいますから、これで」
「ご冗談を。ここでは皆様にまた迷惑を掛けてしまいます。どうかお納めください」
ほう。意地でも抜かねえ気か。面白ぇ。
泉のほとりに向かって右手をかざした。水面はたちまち、氷のリングと化した。あの広さなら四回転ジャンプだって無理なくやれらぁ。
「ほら、あちらならば、誰にも迷惑は掛かりませんよ。それともナッシュさん……こんな子供に負けたら今度こそ立ち直れませんか」
「ピース様……頭脳も明晰と伺っておりましたが……いささか鼻が高くなられておられるようですね」
おお、良いねぇ。その目だよ、その目。
「神聖流の剣士様に鼻の高さを指摘されるとは。いやはや、ご冗談を」
これで完全にキマリだろ。その首筋の血管が証拠だ。
「ピース様、それ以上は引けませぬが……大体、そのお身体で――」
「――片腕だから何ですか。神威理真流を舐めないで頂きたい」
「そんなつもりはありませぬが、私もシャルロット様の一番弟子を名乗る身。真剣では危険でございます。無事で済む訳がない」
そのセリフ待ってたぜ。
俺は、ロイドの長剣を投げ捨てると、幻惑樹の幹の方へ向かった。
「ピース様、何を……その木は危険です!」
「知ってます」
風魔法で幹を削り取って、二本の木剣をこしらえた。おう、上出来。そいつを手にし、ナッシュに放り投げたとき、彼の姿はまた昨日のあのときと同じように、江田島の姿に見えていた。
「ね。危険でしょう?」
「こ……これは……」
思った通り、幻惑樹で作った木剣は、強力な幻覚作用があった。これなぁ、加工して何かの詐欺商売にでも使えねえかなぁ……ロイドに相談だな。
ナッシュには、俺が何に見えているんだろうか。彼の顔がみるみると赤くなって、歯ぎしりを始めた。
「これで、遠慮は要りませんね」
「ピース様……」
◇◇◇
大木の隙間から光が漏れてきた。空が明るくなってきたのが見えた。
叩き合う俺たちの木剣の軽快なリズムに、鳥も慌てたように羽ばたいていく。
シャルロットの言うとおりだ。天才。
互いの意地のせいで、ブースト無しの戦い。完全に理合いの戦いだ。判断ミスをしたほうが負ける。すでに一時間は経過しているように感じた。
氷の床に足を取られないようにしっかりと重心を低く、互いの脚を斬りにいくような流れの中で、江田島の姿をしたナッシュは両手剣と片手剣を上手く利用してくる。腹立つ。隙がねえ。だが、懐かしい
「ピース様、これは勝負が着きませぬ。日を改めてはいかがでしょう」
「まだまだ。もうこれで、お仕舞いです」
舌打ちするナッシュ。お前さん、ビートは良いんだが、単調過ぎるんだよ。例えるならヘビメタだな。俺ならもう少し、プログレッシブにやる。
俺の剣を受け止めたナッシュが腹に蹴りを放ってきた。そいつをギリギリで交わした俺の足払いは、ナッシュの軸足を狙う。
「シッ!」
「うぉっ!」
ナッシュは氷の床に左手を着いて体勢を整えようとしたところを、右手の木剣を同時に弾き飛ばしてやった。勝負ありだ。
ダレス・ヘンドリックスなら、まだまだって言って殴りかかってくるところだがな。
ナッシュはそのまま、氷の上に大の字になった。
「はっ、ハハハッ、ハーッハッハッハッ……」
「どうです。少しは気が晴れましたか」
ひとしきり笑ったところで、マリアの声が聞こえた。
「ピース様ぁ!みんなで朝ごはんですよぉ!」
ほとりに目をやると、みんながこっちを見ていた。
シャルロット、弟子二人、ローザ、マリア、ロイド、三馬鹿トリオ……みんな、笑顔だった。
「はーい。行きましょう、ナッシュさん」
もう、振り返るのはよそう。今は、あの頃とは違うんだ。もう仲間を売ったりなんか……俺は……変わるんだ。
「ピース様……ありがとうございました」
「いえ、私のわがままに付き合って頂いたのです。こちらこそお礼を言いたいです」
つかの間の幸せ。
しかし、それも……食事中に現れた獣人族から、光の巫女からの書状を手渡されるまでのことだった。