第零話『路地裏』
ここは、街灯一つありゃしない、忘れられた場所。目の前にはうぐいす色の苔が斑模様に点在する、腐食したコンクリートの壁。そいつに設置された赤茶けた非常階段は、霧雨に濡れている。その踏み板の錆び具合は一踏みで抜け落ちそうな頼りなさに見えた。それはジグザグに壁をつたい、昔はきっと綺麗な緑色だったであろう、非常口のマークが鈍く光る踊り場へと続いている。
その向こう側を、俺は想像した。
清潔で涼しく、煌びやかな世界。そんな幻の世界を創り出す度に生み出される副産物どもが、こっち側では威風堂々、かつ緩やかにうねりをもって廻る。どっちに居ても、反吐が出るとはこの事か。
ここは、すれ違ったら肩がぶつかる程のビールケースや生ゴミの置き場と化した、細長い、路地裏だ。
『野良』が付く生き物以外に、通りたい奴がいるのかは甚だ疑問だ。
踊り場の下、エアコンの室外機から発生する生温い風は、そんなにこんな薄汚え雑居ビルの隙間の居心地がいいのかは知らんが、どんよりとした灰色の空へと抜ける様子もない。
廃油、カビ、アルコール、生ゴミ、あと何だ。いや、これ以上の想像は自虐だな。そいつらは強烈に自己主張してくる割には、熱さえあればうまいこと混ざり合って、えらくその深みを増しやがる。
露店のヘタクソなお好み焼きと一緒だ。花火やお囃子でも見ながらかっ喰らえば、くそ不味かろうが気分は上々――
米軍払い下げの薄汚れた黒いジャケットの革の触り心地を確かめ、そうやって思考と触覚で穴がひっくり返りそうな嗅覚を誤魔化しながら、ここは俺たちの居場所だ、さっさと出ていけと言わんばかりの悪臭を申し訳程度に肺に取り込み、そして時折胃袋から込み上げるものを、俺は堪えていた。
ビールケースを椅子代わりに、廃油まみれの黒いダストボックスを背もたれにして足を伸ばし、俺は灰色に淀んだ空を眺めながら、ただひたすらにその時を待つ。
野良犬が俺を見たら、餌と勘違いするに違えねえ。そんなことを思っていると、ダストボックスの鉄のフタが不規則なリズムを叩き出した。
うわ、こりゃ本降りか。ジャケット越しに、首筋や肩にじわりと染みてくる水分がやけに冷てえ。緊張のせいか、空腹のせいか。さっきまでの生温さが急に恋しくなった。
気晴らしにこんなのはどうだい。
舌打ちしながら、胸の内ポケットから湿気始めたタバコを取り出し、オヤジから貰った金のガスライターで、火を点けた。
よそ者の精一杯の自己主張は、この先うまいことやっていけるだろうか。いや、掻き消されちまうかな。
ブレンド出来なきゃフレンドじゃねえか。まったく、どの社会も一緒だ。
吐き出した苦い煙はのらりくらりと、朧で不気味な白い亡霊のように非常階段まで飛んで行くと、案の定、雨に消された。
表通りの呑気な喧騒が耳を打つ。街灯や走る車の光を、ダストボックスの角がチラチラと汚く反射している。あんな光でも、今の俺にはやたら眩しい。なんだか急に恥ずかしさを覚え、下を向いた。もう、あっち側には一生縁など無いのに。
油で真っ黒なアスファルトの水溜まりの上に、貧相な顔が写って見えた。雨でくしゃくしゃになった黒髪の下に、見慣れた三白眼。浅黒く痩けた頬には、昔馴染みの斬られ傷。まあ、斬られ傷って言ってるけど、本当は蹴られ傷なんだよな。情けねえ。
雨粒で無作為に歪むそれをなんとなく眺めていると、通りとは真逆の暗闇の向こう、俺の背中越しから表通りの一般人にまで聞こえるんじゃねえかって程の勢いのくしゃみ。
振り返りざま反射的にこいつの派手な金髪頭をひっぱたいちまった。まだ心臓がバクバクしてやがる。
時代遅れの白いよれたスーツ。誰のモノマネか知らんが、金髪リーゼントに端が釣り上がった銀縁のサングラスをしている男。翔は、相変わらずヘラヘラとしていた。
「すんません」
「バカ野郎。だからテメェは足手まといだって言ってんだよ。帰れ、このタコが」
「いやだ。兄貴が行くなら、俺も行っ」
あばらの部分を拳骨でやにわに小突いてやったが、このお座りの出来ない犬みてえな野郎は絶叫しながらも、これでいて至って真剣なのを俺は知っていた。
俺って、使えるでしょう。そう言いたげなドヤ顔の舎弟は、缶コーヒーを俺の視界目一杯に突き出す。距離感までバカか。引き金を引きたくなる。
無言で取り上げた。ぬるい。ブレンド微糖。世の中甘くねぇってか。お前に言われたかねぇんだよ、バカ。
大体、こんな所で飲めるか。まあ、飲むけど。
プルタブを引き上げ、一口やって、紫煙をため息と共にマヌケ面に向かって吐き出してやったが、翔は辛そうなニヤケ面をしたままそれを避けようともしない。バカなのか、それともバカなのか。イマイチ掴めない奴だ。
「あのな。オメェまで生き急ぐ事ぁねえんだよ。大体よ、あの女には何て言ってきたんだ」
「寝惚けた事言わんで下さい。男には、やらなきゃならねぇ時があるって、いてっ」
女と同棲を始めたばかりの翔。俺は、こいつの女の腹の中に宿った命の事を考えた。
「――寝惚けてんのはどっちだ。ダメだ。さっさとオメェは帰りやがれ」
「嫌です」
「帰れっつってんだよ!」
翔のよれよれの薄汚れた白いスーツは、油臭ぇ泥水にまみれて更に壮絶さを増した。
仏の顔もなんとやら。四度目の″可愛がり″は、本気で顔面に入れちまったから。
お前は、愛ってもんを、幸せってもんを知ってる。お前は、掴める筈なんだ。そいつを知らない俺とでは、違うんだからよ。
「兄貴」
「俺の部屋のな、畳ぃめくると小さな隙間がある。そこに金庫が仕舞ってあんだ。鍵はトイレの棚の上だ。翔よ、俺に何かあったら」
「やだ、よ、やだよ! 兄貴ぃ」
「邪魔だって言ってんだ。時間がねぇ。さっさとそいつを探して姿を消せ」
無線機のイヤホンから、ノイズ混じりの淡白な声が聞こえてきたので、翔から背を向けて集中した。
失敗は許されない。
『メーデーメーデー。定刻通り、車は事務所から東口へ向かった。予定時刻は三分後だ。抜かるなよ』
「了解」
アスファルトと靴で煙草をねじり消し、振り返ると翔はスーツの袖で涙を拭きながら、声を殺して震えていた。ガキの頃、苛められて泣いていた仕草と、まんま一緒。学生服がスーツに変わっただけなんだよな、こいつは。
「なあ、翔。もう、この世界からは足を洗え。そして、ガキと女ぁ幸せにしたれよ」
「うっぐ、ひゃだぁ、あにぎぃぃぃ」
「うへっ、ひっでえ顔だなぁ」
雨と涙と鼻血で、腫れた顔をぐっちゃぐちゃに崩した翔は、笑ってんだか泣いてんだか。
「ごれはぁ、あにぎが殴っだがらぁっ」
「へっ。もう行けよ。そして長生きしろ。俺の命令は絶対だ、絶対。そうだろ?」
「ズルいよぉ。ズルいよ、あにぎぃ」
……そうさ。ズルくて、そして絶対なんだよ。
――翔は一度だけ深く頭を下げると、背中を向けた。
俺は少し笑うと、懐のトカレフになんとなく右手をやった。
冷てぇ。
西の相棒、勘助が入れてきた予定時刻を過ぎ、次は東口側の相棒からの報告。
東の小鉄は誰よりもヤル気満々で、自前のコールサインまで用意してきやがった。
あいつの頭の中ではきっと戦闘機も飛んでいる。
『――マーベリック聞こえるか。こちらはバイパー。予定通り、奴は二台目の車に乗り込んで、東口の前を通過した。
弾除けは助手席に一人と後ろに一人。前の車と合わせて八名だ。こっちは任せろ。あと一分!』
「なあ、バイパーさんよ。そんな力むなや。アイスマンさんいわく、うんこが三角になるってよ。了解だ」
俺の精一杯のジョークに、西のアイスマンは甲高い笑い声をわざわざ電波に乗せてきた。
――目標が表通りを通過する時、小鉄と愉快な仲間たちの車が目標の車の進路を塞ぐ。小鉄たちが敵さんとドンパチやらかしてる間に、翔と俺が脇路地から突撃。
車の自動合鍵。ディーラーに金を握らせて作ったこの特注品を使い、防弾ドアを開けて目標に向けてこいつを打ち込む。
そして監視役だった西口の勘助グループが、混乱し始めるであろう組事務所に、コントのタライよろしく追い撃ちの手榴弾を見舞うという筋書きだ。ついさっき、俺の独断で一人、キャストから外しちまったが。
これがドラマなら、軽快なエンドBGMが流れて全員がハッピー。小鉄ならばきっと青春映画のエンディングテーマにしろってごねるんだろうな。クラシックしか聴かねぇ勘助と胸ぐらの掴み合いだ。
何度もシュミレーションを繰り返し、時間と金を費やし、やっと押さえたスケジュール。
てめぇの領地だからって油断してるんだか知らねぇが、此処は絶好のチャンスだ。
野郎の組事務所は、たとえ大泥棒の孫だろうがケツの毛全部むしり取られる程の警備態勢だ。だから、やるならこの東口表通りしかねぇ。
世話になった組長を売りやがったあの野郎の……オヤジと同じ場所に、この鉛弾を撃ち込んでやる。
――歯軋りしながら、安全装置を解除した。
けたたましいスキール音が響き、続けてブレーキ音が聞こえた。
小鉄が割り込んだ音。俺は姿勢を低く、ゆっくりと路地裏から歩道へ出ながら車両を確認した。
あれか……
この街の縮図をねじ曲げて反射する、きらびやかな高級車。ああいうのを見ると、真っ当に生きてる奴が馬鹿らしく思えちまうよな。だが見てろ。最後に笑うのは、俺たちだ。
――車両から小鉄と愉快な仲間たちが飛び出し、計画通り、敵さんとの銃撃戦が始まった。
流れ弾が俺と部外者に当たらぬように、歩道側へはなるべく弾幕を張らない算段だ。
――よし、今だ。
『作戦中止! 作戦中止! 全員撤退しろ!』
撤退だと?
慌ててプレストークボタンを押した。
「おい勘助、もう始まってんぞ、どうしたってんだ」
『解らねぇ。また、西口事務所で、目標を確認した』
どういう事だ……
治まる気配のない銃撃戦。
歩道の一般人達が、群集となって方々へ走り出している。
早くしないと、警察も来ちまう。
「小鉄ぅぅぅ! 逃げろおぉぉぉっ!」
ダメだ、銃撃の音であいつら、俺の声も無線も、聞こえてねえ。
二台目の車から男が二人出てきたところを、後ろから撃ち倒した。
よし、あとは後部座席に、二人。
いや、開けたら撃たれる。
さっきのように出てきた所を狙えばいい。
――しかし後部座席からは、出てくる気配がない。
どうして後部座席から、″誰も出て来ない″んだ。
嫌な動悸が身体中を支配し、再びプレストークボタンを押した。
「勘助。そっちの江田島は、本当の江田島なのか」
『なるほど、影武者か。わからんが、もうリミットだ。攻撃する』
「待て。駄目だ、オメェは逃げろ」
無線を持つ手が震える。最悪な予感しかない。
『気にするな。男なら名こそ惜しめや、だろ』
お前が強がりなの俺が一番知ってる。震える声で笑ってんじゃねえよ。
「全員でバクチ打つ必要なんてねぇ!」
こんなところで丁半駒揃いましたってか。くそったれ!
『いいんだ。そっちは皆殺しで頼む。とりあえず事務所はぶっ壊してやる。大打撃だな」
甲高く通る笑い声が、スピーカーをビリビリと震わせた。
「勘助、逃げるんだ」
「ありがとな。お前とは喧嘩ばかりだったが、最期まで、楽しかったぜ』
車から弾幕を張っていた小鉄の仲間達が、一人一人、倒れていくのが見えた。
クソッ
俺は、後部座席のドアを勢いよく開けて江田島の名を叫んだ。
――車内には、組長と同じように額を撃ち抜かれた極蓮会幹部の死体。それを弾除けにしながら、その肩口から覗いている鋭い視線と交錯した。
江田島 源二郎……テメエは、本当に汚ねぇ……
数発の弾丸が、俺の体を貫いた。
――もう一度。
もう一度、チャンスを伺って、奴を……
オヤジの、仇を……
力の抜けていく体に喝を入れ、懸命に匍匐しながら路地裏へと引き摺った。
クソ、だせぇな、俺ぁ。
昔からそうだ。狭い所と暗い所が好きだった。
隠れてさえすれば、殴られずに済んだし、闇に紛れていれば、嫌な事も忘れられた。
翔の事なんも言えねぇな。ガキだった頃の自分と、なんにも……
ああ……雨が冷てぇなぁ……
翔、家に着いたか……
惚れた女ぁ、泣かすんじゃねぇぞ……
あと少し……路地裏まで、もう少しだ……
長くて細いあの先の、深い闇の奥を睨みつけた。誰かが立っているようにも見えた。避難した通行人だろうか。だが、涙が邪魔して、もう、よくわからねえや。ちくしょう。
――遠くから、爆発音が聞こえた。
西口方面だ。エンディングテーマはどうした。勘助……
そして、小鉄の最期の叫びが、俺の名前だった時。
「修二ぃぃっ! おぐっ」
「死ねや」
背後から、散々聞き慣れたドスの効いた暴言と、乾いた破裂音が聞こえた時。
アスファルトの歩道の上に、割れた額から脳漿をぶちまけるのを一瞬目にしながら。
俺は、絶命した。