尊き夜空と雲海と
長編の息抜きに書きました。
わたしはペンを乱暴に走らせていた。
液晶タブレットに向かって、ラフを元に入力する。
しゃっしゃっと勢いよく走らせて数分で終わらせ、次のコマに移る。
何枚も何枚も画を描き、人物の動きを表現していた。
本当ならばもっとじっくりと細部を描き込みたいのだが、残された時間が少ない自分にとって一刻も早くこの作業を終わらせなければならなかった。
作業に余裕がなくなった原因は先週の仕事にあった。
前回のシナリオでは背景シーンがやけに多く、風景画だけは軽んじる事のできない自分にとって時間が掛かってしまう仕事だった。
優先順位を変え、質よりも時間を選んで描けばよかったのだが、こればかりは曲げる事ができない。自分にとって風景画の仕事に半端なものはない。
細部までこだわった画を完成させるか、仕事を投げ出して欠勤するかの二択しかなかった。
その代わり前回の作画は監督から賛美されるものが完成していた。
時間が掛かったものの、データを送信した途端に連絡してくる程の作画ができた。
しかし、そのフィードバックで今の仕事は進捗が遅れ、少しの余裕もなくなってしまった。
その厳しくなった仕事にわたしは追われている。
朝から晩まで線を描きっぱなしだった。
「あの、根を詰め過ぎです。少し肩の力を抜いたらどうですか?」
わたしの様子を見兼ねたアシスタントが気遣って言った。
正直外で休むぐらいなら仕事を早く終わらせたいが、体調を考えて言う通りに休む事にした。
外の屋上に出るとすっかり闇が深くなっていた。
空には星がスクリーンの波紋のように吹き荒らされている。
円い月が冴え渡り、煌々と屋上を照らしている。
下界を見下ろすと雲海が広がっていて、月の光は雲の凹凸を鮮やかに浮かび上がらせている。
夜空に藍色と黒色のグラデーションを作り出していた。
自販機で缶コーヒーを買ってその眺めを目にすると、わたしは上空の寒さによって冷えた手をコーヒーの熱で温めながらフェンスの前に立った。
思わず「綺麗……」という声を漏らしてしまう。
しかし目の前の光景はそれほどまで色鮮やかに映り、仕事によって張り詰めた心を解放するように癒してくれる。
有機物の瞳を通さなくたってそれはわたしの目にもはっきりと映像を届けていた。
上空からの景色を眺めていると、気付けば随分と時間が経っていた。
休めと言ったアシスタントが呼びに来て、わたしはようやく我に帰る。
ただ流れていく雲を眺めているだけだったのに、いつの間にこれほど時間が経ってしまっていたのだろう。
「やっぱりここからの景色は壮観ですよね」
呼びに来たアシスタントが言う。
「そうだね。先程まで仕事の事しか頭になかったのに、この眺めはそれを全部忘れさせてくれた。仕事が済んでいないから困るかもしれないけど、大したものだわ」
そう言って私は買っていた缶コーヒーを傾けて口に含んだ。
買った時はまだ十分に温かかったコーヒーだが今はもう冷えてしまっている。
その冷たいコーヒーを飲んで、私は自嘲気味に笑う。
「そういえば、目の調子はどうですか」
尋ねられた私は答える。
「いつも通り良好だよ。今は視界が真っ暗な訳でもないし、ぼやけるところもない。そろそろ充電が必要になる頃だけど、仕事は充電しながら続けられるし問題はない。この景色だってきっと君と同じように見えているはずだよ。……もっとも、本当に同じかどうか確かめる術はないんだけどね」
せめて私が生まれた時からみんなと同じように目が見えていたら、今の目がどんなものなのか比べられるのにと、私は独り言のように心の中で呟く。
この空の海を眺めるようになっただけでも喜ばしいはずだったのに、私は贅沢な事を望んでしまっていた。
今は私が目にしているこの素晴らしい景色を画を通して少しでも誰かに伝える事ができる。
それだけで私は十分だ。
私の視界に光が灯った時のような感動を分け与える事ができるなら望みは達成されているに等しいはず。
例え、この視界の技術があと数年しか持たないものだったとしても、見えるだけでも幸せなのだからそれ以上を望んではいけないんだ。
「さて、それじゃあ仕事に戻ろうとしようかな」
冷めたコーヒーを飲み干すと、私はようやく仕事を再開する事を告げた。
景色を眺めていて作業が遅れてしまったが、アシスタントはそんな私を咎めずに、むしろ敬うように優しく微笑んだ。
これからまた時間に追われる厳しい仕事になるが、私の意識は先程とは打って変わったものになっていた。
この仕事自体が幸福なものだったと再確認した私は、美しい夜空の広がっている屋上を後にし、アシスタントの手によって静かに扉が閉じられた。