熱と本と手
公務に忙しいジャメルから出された課題は、レナの頭から本当に湯気を上げさせた。
「レナ様、お顔が赤いです」
カーラに言われて気付いたが、どうやら熱が出ているようだった。
しかし……
「この程度の熱、大丈夫よ。どうしても、これだけは終わらせたいの」
もう意地である。
「この課題すら出来ずに、ベナエシヘに遊びに行かれる事は許しません」
別にジャメルの許しを得なければならないわけではなかった。
「やり切らなきゃ悔しいじゃない」
レナはとにかくやり切った。
が、やはり無理は祟った。
「だから言いましたのに」
やはりレナの熱は上がってしまった。
「大丈夫よ、二日も寝れば治るもの」
カーラがレナの枕を氷枕に変えた。
「ああ、気持ち良い」
「ジャメル様も、あんなに沢山課題を出す事ないですのに」
カーラはジャメルへの恨み言を言いたいだけ言って、新しい氷枕を作りに出て行った。
ジャメルの出した課題の多さには閉口したが、たかだかその程度の事で熱を出している自分に少し戸惑っていた。
アンの件で身体にかかった負担がまだ癒しきれていないのだろうか。
アルセンの動向も気になるし、ベナエシにいる祖母ルイーズにも会いに行きたい。
カーラの氷枕が気持ち良く、考え事をしているつもりが、いつの間にか眠ってしまったようだ。
「単なる知恵熱でしょうな」
ジャメルが出来上がった課題の添削をしていた。
「人を小さな子供みたいに言わないでよ」
「まだまだ子供ですな」
返された課題の正解率は8割程だった。
「まぁ、ギリギリ合格としましょう」
ベナエシ行きの許可が下りた。熱は……、意地でも下げてみせる。
レナは熱が下がると、久し振りに魔人皇族の歴史書に手を伸ばした。
もし、本当に魔人国がベナエシなのであれば、この本はベナエシにあるべきなのではないだろうか。この本は持ち主を選ぶ。ハンスがムートルに戻った今も、自分の手元にあると言う事は、やはり本が選んだのはハンスではなく、自分だった。
そして、何故アルセンはこの本の存在を知っていたのだろうか。
「レナ様、その本は……」
レナの熱が下がった為、再び城に呼ばれたマルグリットは、レナが手にしている本を見て衝撃を受けた。
「あら、マルグリットさん、この本をご存知なの?」
ご存知も何も、マルグリットは村でリンダやアミラそして姉エリーと共に、この本から歴史を学んだのだ。
「じゃぁ、マルグリットさんにはこの本の文字が見えるの?」
「勿論でございます」
勿論、そうは答えたが、それ程この歴史書について知っているわけではなかった。何しろ、直ぐにあの日が訪れてしまったのだから。
しかし、この本がここにあるという事は、全ての鍵はレナ姫にある、という事なのだ。
「良かった! 今まで私しか見えなかったから……」
「ジャメルやエリザにも見えなかったのですか?」
「そうなのよ」
これはどう言う事なのだろう。魔人なのに見えない何て事があるのだろうか。
「久し振りに、読ませて頂いてよろしいでしょうか」
マルグリットは、懐かしい本に手を触れた。
「今度はベナエシまで行く事になったわ」
マルグリットは、ベナエシへ同行する事を決めた。
「ええ! それ、同行するの僕だ!」
何と、ファビオが長旅に備えて同行するの整備部隊に選ばれていた。
これは誰かの差し金だろうか。疑えばキリが無い。しかし、行かないわけにはいかない。これが私の役目なのだから。
「何だいエリザ。難しい顔をして」
ルイーズに言われるまで、エリザは自分が難しい顔をしている事に気付いていなかった。
「申し訳ございません」
元々感情を表に出さないエリザだっだか、顔に出る程マルグリットの訪問を気重に感じていた。
ベナエシに到着した頃は、突然のカリナの失踪と死で、何かと大変だったが、この国も随分と落ち着いてきていた。
レナが元気になった姿をルイーズに見せに来るだけで、なぜマルグリットが同行するのか。
つい要らぬ詮索をしては難しい顔をしていたようだ。
「レナについて来るマルグリットが、エリザの昔馴染みなんだろ。何かあったのかい?」
流石ルイーズ様。お見通しだ。
兄と二人、ただ無心に走った。どこをどう走っているのかすら分からなかったが、途中でマルグリットに遭遇した。
エリザは迷う事無くマルグリットの手を取って走ろうとした。
しかし、
「私は城に戻って、リンダ様とアミラ様のオソバに居ないといけないの!」
マルグリットは、エリザの手を振り払った。
「私はあなた達と違って、役目があるの!」
何を馬鹿な事を言ってるの、言葉が出る前に手が出てしまった。
気配を悟られては襲われる。ジャメルは、睨みあう妹とマルグリットの気配を消そうと頑張っていた。右手に握ったエリザの手は、何があっても離さない。
「今は逃げるの!」
エリザはそう静かに言うと、突然の出来事に呆然とするマルグリットの手を無理矢理握った。
それを合図に、三人は走り出した。
走っても走っても同じ様な景色、しかも子供の体力ではそうそう走れるものでもない。
「ねぇ、迷ったんじゃないの?」
三人はもう走れなかった。しかし歩みを止めるわけにはいかない。しかし、どこまで進めば良いのか、ここが何処なのか分からなかった。
「ねぇ!」
兄ジャメルは、三人の気配を消すことに集中して、マルグリットの声に気が付いていない。
左手は兄、右手はマルグリット、ずっと握ってきた手も限界だった。
「ねぇ、エリザ!」
マルグリットの声がきっかけになってしまった。決心も何も無かった。ただ、マルグリットの手を離した。
そして振り返る事無く、無言で歩み続けた。右手の痛みが消えた頃、やっと兄に言った。
「兄さん、マルグリット様が居ない」
「え!?」
ジャメルが歩みを止めた。
「どこで!」
「分からないの、もう手も足も感覚が無くて、気付いたら居なかったの」
嘘をついた。見透かされてしまうだろうか……。
「戻るぞ」
ジャメルはエリザの手を握りなおし、来た道を戻った。辺りは暗くなり始めていた。
「手を離した場所までは戻ったのですが、そこにマルグリットは居ませんでした」
「小さな子供だったんだ、仕方が無い、それにそのマルグリットも生きていたんだし、気に病むことは無いよ」
ルイーズの言葉に、自分がマルグリットの事を後悔していたと気付いた。そして、その後悔の具現化マルグリットがあと数日もすれば、ここへやって来る。
「私、謝ったほうが良いのでしょうか。マルグリットは許してくれるのでしょうか」
「どうだろうねぇ、でも、謝れば自分の気持ちは少し楽になるかもしれないね。謝れる相手が生きてくれていたのだから、それで良いじゃないか」
「そうですね」
エリザは覚悟を決めた。
「迎える準備を始めます」
「そうだね、よろしく頼むよ」
覚悟を決めたエリザは、レナとマルグリットの迎え入れ準備に向かった。
マルグリットの手を放した場所まで来た時、木の枝にマルグリットのハンカチが掛かっている事にジャメルが気付いた。
「……」
二人は何も言わず、走って逃げた。
マルグリットは襲われたんだ。二人は、無言のうちにそう理解した。
辺りが暗くなった事で、街に灯りがちらちらと見え始めた。もう、目指す場所は、あの灯りしかなかった。




