気配 それはほんの少しの予兆
孤児から突然皇女になったレナ。
しかし、突然城に連れて来られたレナは納得できず、街へ戻りたいと願うが……
「おはようエヴァ!」
レナに母と暮らしたプルスでの生活が戻ってきた。
小さな田舎町だが、レナにとっては、これまでの生活の全てだ。
母の居ないこの家での生活は寂しかったが、母が居た頃と同じ生活ができる事は嬉しかった。
「おはようレナ!」
母の死後、突然家から姿を消したレナを心配して、エヴァは毎日家の様子を見に来てくれていた。
「心配かけてごめんね。親戚の家に行っていたの」
まぁ、嘘ではない。
「まさか、お父さんが生きてたなんてね」
その事も、嘘ではない。
本当、生きてたなんて、それも国王なんてレナにも驚きで、今だ受け入れられていない。
「私も知らなかったのよ」
「でも、良かったじゃない」
「うん」
良かったのか、悪かったのか、本当のところ、レナにも分からない。
レナの今後について、アンドレの提案で、ベルも含めた3人で話し合った。
「今までは病身とは言えアミラがそばに居たんだ。そのアミラが亡くなってしまっては、今までどおりとはいかないよ」
アンドレは、レナが街に戻る事に終始反対の姿勢を崩さなかった。
「でも、学校を卒業するってママと約束したんです」
会話は平行線であった。
頼みのベルは考え込んでしまって、何も話さない。
「ねぇ、ベル。何とか言ってよ」
このままではアンドレの意見に屈してしまいそうになったレナは、ベルに助けを求めた。
「確かに、学校は卒業した方がいいですわね」
「でしょ!」
「しかしベル、たとえ君がそばに居たとしても、城の外でレナを一人にするのは危険だよ」
アンドレの意見は正論だった。
「そうですわね」
「大丈夫だと思うんだけどな……」
やっぱり、こっそり城を抜け出すしかないのか。
これだけ広ければどこか上手く出入りできる場所くらいあるだろう。
「城を抜け出すなんて無理ですよ」
レナの幼い考えくらいベルはお見通しである。
「……」
ベルにはかなわない。
じゃぁせめて親友のエヴァに手紙くらい書いても良いかしら。
レナの心が折れかけた時、ベルがとうとう妙案を出した。
「アンドレ様も、城外での生活を体験されてもいいですわね」
レナの目は輝いたが、アンドレの目は飛び出そうな程見開かれた。
「何を言い出すんだ、ベル」
国内情勢が安定してる事もレナに味方した。
ベルの作戦はこうだ。
まず、遠い国で仕事をしていた父がアミラの死を知って、レナをその国に呼び寄せた。
しかし、学校へ通うレナの事を考えて、戻ってきた。
父は仕事が休みの日だけレナと暮らす。
レナは学校を卒業後、父の暮らす国で生活をする事になる。
「どうでしょう。真実から近からず遠からず、ではないですか?」
「私が、城外で生活を……」
レナは有頂天になった。
「しかし、私が城内に居る間はどうするんだ」
「ジャメルに私の家で暮らしてもらいましょう。さしずめ、私の息子と言うことで」
「なんと、あのジャメルがベルの子か!」
アンドレは、心底笑った。
そして、この提案に乗ったのだ。
「レナ、帰ってきたのかい。アミラの事は残念だったね」
「何か困ったことがあったら言うんだよ」
「レナ、畑のイチゴが沢山実ったよ。学校の帰りに寄りなさい。ジャムにすると良い」
学校へ向かう道すがら、街の人々がレナに声をかける。
「本当、レナって人気者よね」
それは、エヴァが拗ねてしまうほど。
「ママの事があったから、気にかけてくれたただけよ」
日常に戻ったレナを待っていたのは、人々の歓迎だけではなく、休んでいた間に溜まった課題の山も待っていた。
アンドレも目を丸くする程の課題を、レナは必死に仕上げた。
母が生きていた時とは、全てが変わってしまった。
これから、何がどうなるのか予想すらつかない。
でも、全ては母との約束のため。
これまでに無い集中力だった。
隣のベル宅ではジャメルがそれに気が付いた。
「なるほど、これが姫君のね……」
「なんだい」
「ちょっと、隣へ行ってこよう」
ジャメルには、それが強まり始めているのが分かった。
「むやみにレナ様に近づくんじゃない!」
「そんな悠長な事言ってる場合では無いかも」
飛び出したジャメルの後をベルも追った。
アンドレは、勉強に集中しているレナの為にお茶を入れようとしていた。
日ごろしない事をしたアンドレは、手の甲に熱湯をこぼしてしまい火傷を負った。
その時、ジャメルとベルが飛び込んできた。
「まぁ、アンドレ様。ひどい火傷を」
ベルの声を聞きつけてレナもキッチンにやって来た。
その火傷は、ジャメルの目にもベルの目にも酷い火傷だった。
はずである。
「見せてください!」
レナが火傷をしたアンドレの手を触った瞬間、火傷は跡形も無く消えていた。
「!」
ベルは声も出なかった。
「なるほどね」
ジャメルは面白そうにレナを見ていた。
「何だ、火傷なんてしてないじゃない。ベルってば大げさね」
ベルはやっとの事で声が出た。
「本当ですわね。まだお湯がそんなに沸いていなかったんでしょう。アンドレ様、慣れない事はなさらないで下さい。さぁ、レナ様はお勉強にお戻りください」
ベルは、とにかくレナをこの場から遠ざけたかった。
「私がお茶を入れてお持ちしましょう」
「ありがとう」
レナは、何も感じることなく、勉強に戻った。
しかし、それはレナ以外、誰の目にも明らかな火傷だった。
誰もが、その事を考えていた。
「どうするアンドレ、レナを城に閉じ込めるか」
「そんな事、出来るわけないだろう」
ベルは動悸が治まらず真っ青な顔をしていた。
ベルの息子ジャメルが数学の臨時講師として学校にやって来た。
レナは、全てを見透かされているようで、ジャメルの事が苦手だった。
「なんで、あんな気持ち悪いのが、ベル婆さんの息子なんだろう」
エヴァまでが、そんな事を言い出す始末である。
「あの影のある感じが素敵よね」
しかし中には、ジャメルに憧れを抱く女子学生もいて、なかなか上手くジャメル学校に溶け込んでいた。
学生達にとって一番の問題は、ジャメルの出す宿題がとてつもなく難しい事だった。
「ちょっとジャメル、あれは難しいわよ!」
レナが、ベル宅まで乗り込んで行ってしまう程である。
「あの程度の問題が解けないとはね」
そんなレナを、ジャメルは鼻で笑いベルに叱られていた。
あの火傷事件以来、レナの周りで特におかしな事は起きなかった。
もしかしたらあれは目の錯覚だったのかもしれない、ベルはそう思い始めていた。
アンドレは公務の都合をつけては、アルドに変身し、最近ではお茶くらいは入れられるようになっていた。
「後一月で卒業だね」
父と娘は、父の淹れたお茶を飲んでいた。
「何とか、卒業できそうです」
「そうか、良かった」
それ以上の会話は無いが、着実に父と娘の距離は近づいていた。
ベル宅では、ジャメルが嬉しそうに最後の試験問題を作っていた。
「あんまり難しくしてレナ様が試験に落ちたらどうするんだい」
ジャメルは、ベルに微笑んだ。
「一国を背負う事になる姫様が、この程度が解けないとは」
ジャメルの意地悪い笑顔にベルは寒気さえした。
仕上がった試験問題を、嬉しそうに見ているジャメル。
それを気味悪そうに見つめるベル。
それは静かな時間だった。