王の悲しみ5
ハンス御帰還
アンドレの執務室でレナの目に飛び込んできたのは、机に置かれた剣だった。
「その剣……!」
見覚えがあった。今でも感触が生々しく残っている。
剣が首の皮膚血肉を断ち切る感触。
レナはそのまま気を失った。
……レナ…レナ……
誰かに呼ばれている。声の方へ行こうとするのだが、方向が分からない。
レナは再び闇に落ちて行った。
馬車に乗り込む前に、もう一度城を見ようと振り返ると、もうそこは人間達の物になっていた。
「さぁ、行きましょう」
側近の手を借りて馬車に乗り込む。
ゆっくりとゆっくりと名残を惜しむように馬車は走り出した。
「本当にこれで良かったのでしょうか……」
側近が小さくため息をついた。
「いつか必ず何年かかろうとも取り返す。今は疲れ傷付いた一族や仲間達の命と生活が大切だ」
「はい……」
「少し疲れた。何かあれば、起こしてくれ」
タルメランは眠りについた。
それは、永遠の眠りのはずだった。
何だかお腹が温かくて気持ちが良い。
またエリザが、陶器を温めて持ってきてくれたのね。
陶器を抱え込もうとした時、様子が違う事に気が付いた。
「レナ? 気が付いた?」
これはハンスの声。
ああ、そうだった。ハンスが村から帰ってきたのだ。瞼は重くて仕方がないけれど、ハンスにお帰りなさいを言わなくちゃ。
レナは、うっすらと目を開けた。
「ハンス、お帰りなさい」
腹部を温めていたのは陶器ではなく、ハンスの頭だった。
ハンスはレナの手を握ったまま、眠っていたようだ。
「レナ二日も眠ったままだったんだよ。もう、目を覚まさないのかと思った」
「どうりで……」
「え?」
「お腹がすいたわ」
「エリザさんに何か用意してもらおうね」
起き上がろうとするレナにハンスが手を貸した。
レナはハンスに抱きついて、思い切り息を吸い込んだ。
「レナ?」
「ハンスの匂い」
「もう……。何かあったのかと心配しただろ」
ハンスがレナの唇に、強引にキスをした。
「ハンス?」
「おしおき」
にやりとわらうハンスに、レナは改めて強く抱き付いた。
「やっぱり、こうしてると安心するわ」
「そうだね」
たった数日離れていただけなのに、若い恋人達には酷く長く感じられた。
ブルーノ王から呼び出された時は既に、覚悟を決めていた。
母が囚われの身になったのだ。幾ら他国とは言え、ムートルでの職を解かれてしまう事は仕方のない事。レナにも別れの手紙を書いた。無事に、レナの元へ届いたのだろうか。 差出人も受取人も書いていない手紙。
母が戻らなければ、本当に独りになってしまう。どこで、どう暮らそうか……。
「ブルーノ様、お呼びでしょうか」
「ああ、ファビオ。元気そうで良かった。あまり詳しい事は私も知らないのだが、お前の母上が近い内に戻ってくるそうだと、ハンスから早馬が来たよ」
「ありがとうございます」
ファビオは安堵から声が震えていた。
結局レナは、誰にもあの瞬間のジャメルのの詳しい様子は伝えられなかった。言葉にするだけで、また気が遠くなりそうだった。
エリザの口元は、漏れ出そうな嗚咽を押さえる為、いつも以上に硬く閉じられていた。
「兄は苦しまなかったのでしょうか……」
何度も息を深く吸い、気持ちを落ち着けてやっと言葉が出た。
「ええ、痛みや苦しみは感じていなかったわ」
「そうですか……」
エリザの安心した表情を見て、レナは言わなくて良かったと胸をなでおろした。
次話もよろしくお願いします。




