無理ゲーすぎる
ゲームをやりすぎたせいなのか、選択を迫られる場面になった時、目の前に“はい”と“いいえ”という文字がちらつくようになった。
たとえば、朝に納豆を食べるか否か。俺は納豆は大好物だ。ご飯に乗っけるだけでなく、パンにもよく試している。なかなかいける。
だが、今日は平日だ。もちろん学校がある。日本には次々とこじつけのように祝日が存在するが、今月は六月。土曜日は部活があるから、実質の休みは日曜日だけとなる。今なら、休みがほしいと叫ぶ社会人の気持ちも理解できる。
つまり何が言いたいのかというと、納豆は臭いということだ。分からんって? 学校のある日にそれを食って出かけられるわけがない。歯磨きをしただけじゃ、なかなか落ちてくれないんだから。
食べたいけど、食べられない。そんな時に、“はい”と“いいえ”という単語がそれぞれ横書きで浮かんでくる。
この能力は便利だ。世の中にイエスかノーかで決められないことはないのだから。
人差し指を空中でトンボを捕まえるようにクルクルと回し、悩む。とにかく悩む。ゲームと違ってリアルの世界は遅刻という制約に縛られているから、いつまでもそうしていられない。すでに出かけた父親の席の隣に座る母親が、こちらを不機嫌そうにひじをつきながらにらんでいる。片付かないと言うのも面倒くさくなっているようだ。
整列するように並ぶ二つの文字は、俺にしか見えていない。ただ、俺がその文字を見ているという事実を家族は知っている。ここだけの秘密だ。
結局、“いいえ”を選んだ。やっぱり、臭い息はイヤだ。
というわけで、速攻で食事を終え、終わっていない宿題はガリ勉の友人に写させてもらおうと特に迷うことなく決め、制服に着替えて家を出た。
お昼の弁当には、さすがに納豆は入っていなかった。当たり前だ。そんなの、いくら俺でも即ゴミ箱行きの処罰を下す。いや、ゴミ箱はヤバいか? トイレ? 男子トイレが納豆臭くなると、犯人が俺でなくても俺が疑われるから、女子トイレに持っていくか。嫌われてもいいさ。俺にはゲームのヒロインがいるからな! 男子からは、きっとその勇気を褒め称えられるはずだ。
いらぬ妄想をしながら塩っ気が足りない卵焼きにパクついていると、後ろから肩を叩かれた。ふんわりとした優しい感触だったから、男ではないなと思いながらふり返ると、そこには隣のクラスの亜里沙が立っていた。ほっぺがりんごのように赤い。
「どうした? 俺に何か用か?」
ゲーム攻略をいつも冷静に行う俺としては、ずいぶん的外れな返しだ。用事があるんだから声をかけたに決まっている。お昼休みが始まってから十分ほどしか経っていないことから考えて、友人を訪ねてきたついでではなく、俺に強い意思を持って話しかけてきたのだと分かる。
だからこの場合有効な返しは……ええっと…………亜里沙可愛いな。まるで二次元から飛び出してきたみたいじゃないか。いつも強気な目が、今日はトロンと垂れ下がっている。唇はキュッと閉じているが、鼻息は少し荒い。俺の顔に温かい吐息がかかってきている。
こ、これはまるで、恋愛ゲームみたいだ! やったことないけど。こ、この場合、次にとるべき行動は――
「話があるから来て!」
早口でそう言い放つと、俺の手を取って引っ張るように連れていく。少し教室を見渡したが、皆の視線を独り占めにしている。亜里沙も含めると二人占めか。
「ちょっと待って――」
箸を床に落としてしまった。拾うヒマはなかった。
「好きなの」と告白された。亜里沙は、勇気を絞りすぎたかのように体から力が抜け、壁に寄りかかった。
俺の前に、二つの単語が現れた。選択を誤ってはならない。でも、返事に使う言葉はかんたんだ。目の前のもののどちらかをそのまま言えばいい。十分伝わる。
別に俺は二次元しか愛せない人間ではない。夏服に移行して白いポロシャツに変わり、女子のブラが背中から透けているのを凝視してしまうし、腕を上げた時にチラッと見える脇を見逃さないように心がける。残念ながら、パンツまでは見たことがない。三次元に興味があるという証拠は十分だろう。
亜里沙は好みのタイプだ。それなりに胸はあるし、スタイルも悪くない。俺より少しだけ背が高いのは、男として悔しい。足はモデルのようだ。
「はい」
俺は一言そう言った。すると、光を取り戻した豆電球のように彼女の表情が明るくなった。だらんと下がった手が拳に変わり、小さく「よしっ」とささやいた。
「ち、ちなみに、俺のどういうところが好きなんだ……?」
勇気を出して聞いてみた。
「部活の休憩中に、敦司がボールをシュートする所をずっと見てたから……。あと、仲間を励ましながらプレーする姿も……。そこがかっこいいと思ったのよ」
そんなこと言わせるなという風に、顔をうつむかせた。そういえば、亜里沙は女子バスケ部だった。体育館からグラウンドを見ていたのだ。全く視線を感じなかった。
その後、すぐに彼女は自分のクラスに帰っていった。まだ弁当は半分以上残っていて腹が空いているが、次の授業が始まるまで教室には行きたくなかった。
とにかく、俺は亜里沙と付き合うことになった。
女子バスケ部よりも、サッカー部の方が遅い時間に終わる。放課後に一緒に帰るとしても、亜里沙は一時間ほど待っていなければならない。だが今日、彼女は俺を待たずに帰ってしまった。亜里沙は、パフェがおいしいと評判のファミレスでバイトをしているのだという。
今日の埋め合わせはしっかりしてもらうつもりだ。制服は毎回家に持ち帰って洗っているそうだから、今度彼女の家でそれを着てもらって、手づくりパフェあるいはクッキーをごちそうしてほしい。口まで運んでもらったら、なお良い。妄想が広がっていく。その後は――
「――先輩、桐山先輩!」
マネージャーの真理子が目の前に立っていた。
「みんな、もう帰りましたよ。先輩も早く着替えてください」
気がつけば、部室は俺と真理子だけになっていた。一人で自主練をしていて、用具を片づけた後、ゆっくり着替えながら亜里沙のことを考えていたのだった。
「俺、今上半身裸だけど、真理子は平気なのか?」
彼女は有能なマネージャーだ。選手一人一人をよく見ていて、各々のコンディションを瞬時に見分け、俺に助言してくれる。ドリンクを用意し、土曜日にはおにぎりをつくってきてくれる。マネージャーは真理子一人だから、彼女がいないとこのサッカー部は成り立たない。みんな、彼女に感謝している。
「問題ありません。風呂上がりの時、弟は上半身裸ですし、父にいたってはパンツ一丁ですから。男の裸は見慣れています」
最後の一文だけを聞いた人がもしいたとしたら、思わず疑ってしまうような発言だ。真理子は続けてこう言った。
「それに、桐山先輩はマッチョですから。見てて飽きません」
マッチョなんて言葉、まだ使っている人がいたのか。真理子は一瞬恥ずかしそうに視線をそらした。どうしたのだろう。
とりあえず、さっさと制服に着替えて重いバッグを持ち、一緒に部室を出た。
「山島の奴、自分の長所を分かってないんじゃないかと思うんだ」
帰り道が途中まで一緒であるため、俺は真理子を送り届ける意味も含めて、大抵共に帰っている。実はこの時間がけっこう大事で、部長である俺とマネージャーである彼女との貴重な意見交換の場となっている。
「確かにそうですね。小柄な体を生かした小回りな動きが必要だと思うのですが、山島くんは積極的に前へ出ていこうとしていません。ディフェンスを望んでいるのでしょうか」
「やりたいポジションも大切だけど、今俺たちのチームに必要な要素を考えると、山島のフォワードとしての役割だ。必要とされていることを理解させてやらなくちゃ」
すると、真理子はニヤッと不敵な笑みを浮かべた。
「体格のいい桐山先輩が、小柄な山島くんを相手に指導ですか……。どこででしょう。グラウンドですか? それとも先輩の家で座学ですか? 暑い部屋で勉強をしていたら汗をかきますよね。二人で一緒にお風呂へ入るんでしょうか。そしてお互いの裸を見せ合うんでしょうね。フフッ、フフッ……」
まただ。また始まった。俺と部員の誰かをダシにして妄想し始めた。本人が目の前にいるにも関わらず、その勢いは毎回止まらない。さっさと駅まで連れて行ってやらねばならない。彼女は電車通いだ。いつものように、手を引いて道を急ぐ。聞きたくない所まで妄想が広がらぬうちに。
翌日の昼休み、亜里沙がドカドカと教室へ踏み込んできて、食事中の俺を無理やり引っ張っていった。しょっぱい卵焼きをあわてて飲み込んだ。
「敦司くんはあたしと付き合ってるんだよね?」
「そうだけど?」と返した。至極最もなことを言っているな。何のつもりだろう。
「なら、どうして昨日の夕方、高崎さんと一緒に帰ってたの? 友達が、二人を見たって言ったの。いつも一緒に帰ってたようだけど、あたしと付き合ってるんだから、そういう疑われるようなことはしないでよ」
「いやいや、真理子は俺にとって後輩だし、部の大切なマネージャーだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「本当にあたしのことが好きなの? 長身のあたしよりも、小柄な高崎さんの方が、本当は好みなんじゃないの? 昨日告ったばかりなんだから。安心したいの。言ってよ」
何を、と聞こうとしたが、すぐに分かった。俺は亜里沙のことが好きだ、と言えばいい。
待てよ……? そういえば、俺は今まで真理子をそんな目で見たことがなかった。あくまでも先輩と後輩だと思っていた。だが、よくよく考えれば真理子もなかなか可愛い。小学生と間違われることが度々あるくらいの体で、俺の好みだ。そのくせ、同年代の子よりも座った目つきをしている。変な妄想癖があるものの、それを抜きにすれば十分彼女にしてもかまわない。
あれ、揺らいでる……? まずい。早く返事しないと。イライラしているのがすぐ分かった。俺をまっすぐにらんでいるし、足を小さく踏みならしている。ええっと……。
その時、目の前に“はい”と“いいえ”という単語が浮かび上がった。ちょうどいい。このどちらかを選べばいい。
でも、どっち? この状況で選ぶべきものはどちらだ? こんな修羅場は初めてだ。どうすればいいか、まるで分からない。頭が真っ白になってきた。このまま黙っていると殴られそうだ。よし――!
“いいえ”
手を伸ばして選んだのはそれだった。つまり、亜里沙のことが好きではないと答えたのだ。
その瞬間、彼女の体から一気に力が抜け、冷めた目つきで俺を睨みつけた。そして俺の顔につばを吐いた。暴力を振るわなかったのは、俺の体格のせいだろう。
「あの腐った女狐と、いつまでもお幸せに!」
ダンダンと床に怒りをぶつけながら去っていった。
俺の選択は間違っていなかった。あの状況で選択肢は一つしかなかった。“いいえ”を選ばないとしたら、“はい”でもなく、なぜ亜里沙のことが好きであるのかを説かなくてはならない。こんな状況において二択で決まらない答えを用意するなんて、無理ゲーにもほどがある。
というか、今日の放課後、真理子と会うじゃないか。まともに話が出来るんだろうか。またもや選択肢が出て来たが、こればっかりはその時にならないと分からない。
お読みいただき、ありがとうございました。楽しんでいただけたのなら、幸いです。