第10節
エティエルの手をとりながら階段を駆け上がったフィレルは、ひとまず自身の装備を手にしようと部屋に入った直後のことだった。
「っ!!??」
そこで見た光景、フィレルとエティエルが泊まる部屋にあったものはおびただしいまでに赤く染め上げた世界と3人の変わり果てた姿。
その様はフィレルを驚愕させるに十分なものであり、それを見たフィレルは絶句する。
遺体は全て首を鋭利な刃物で掻き切られ、そこからの出血によって生命活動を強制的に止められていた。
部屋のほとんどを染め上げていったように撒き散らされた赤い液体はフィレルの鼻腔に鉄の錆びた臭いを感じさせながら顔をしかめさせる。
それらが生々しさと凄惨さを物語っているようである。
首筋からいまだに体液が流れている有様からみて、死体はまだそれほど時が経っているわけでもないようである。
当然ながらフィレルには出会ったことも見たこともない者たちであることは確かなものではある。
あまりにも突然すぎる景色の変化はフィレルにまともな思考をさせることを出来ないものにさせてしまっていた。そのことが周囲の警戒を怠ってしまっていた最大の要因でもあった。
「何なの!!?いった…」
部屋の様子に呆然としたままでいたフィレルが部屋に入ろうとした途端、扉の後ろに立っていた者に突然手を掴まれ、後ろ手に回されて口を塞がれる。
「ぅぅ…!!!??」
あまりの凄惨な状態にフィレルの警戒心は弱まってしまっていたこともある。まさか扉の後ろに人が立っていたことなど今のフィレルには到底考えられることもなく、我が身をなすがままに拘束されてしまっていた。
「声を出すな。」
「っ…!!??」
口を塞ぐ張本人にそのようなことを言われたところでフィレル自身納得がいくはずもなく、必死に抵抗しようと身じろぐ。しかし、相手の動きのほうがずっと上手だったのか、フィレルの拘束が解けることはなく、腕をさらに締め付けて痛覚を刺激させる。
「ぁ…」
「これ以上、声を出さないでもらいたい。
自身のためにも、下にいる少年の為にも…」
「…!!?」
そこまで言われて初めてフィレルは抵抗をやめる。
その声は野太い男性の声とは異なるものだった。むしろ成熟しきれていない少年、或いは女性に近い声色であった。
フィレルの抵抗する姿勢を崩したことを確認したうえでゆっくりと拘束を解く。
「ぷはっ…!」
口を塞がれ続けていたフィレルはその場で大きく息を吐き出しては同じように吸い込んでゆく。
新鮮な空気はフィレルの脳内を冷静にさせてくれるものだった。
後ろ手にまわされて締め付けられた手首をほぐすように手首を動かしてフィレルはゆっくりとした動作で振り向き、背後に立っていた者の姿を見やる。
そこに立っていたのはフィレルとさほど背丈の代わり映えのしない小柄な姿だったことに驚きを隠せないでいた。
身体つきもどちらかといえば華奢なほうで、すべてにおいて線の細い体型。もし正面から取っ組み合うことになったのであれば、どちらかと言えばフィレルのほうに分があるようにも見える。
「あなたが…あなたがここにいる人たちを殺したとでも言うのかしら!?」
どこか半信半疑な部分が隠しきれず、やや納得のいかないという表情を見せてフィレルは部屋に伏したままの見知らぬ遺体に指差して目の前の少女ともいえる容姿の人物に問い質す。
「…否定はしない。」
実際に目の前の女性が手にしていた短剣には見知らぬ者達を刺した時に付着した赤い滴りが残ったままだった。
「どういうことなのか、納得のいく説明はしてもらえるんでしょうね!?」
「…
まずはこの事態を抜けてからさせてもらうことにしよう。」
そう言ってフィレルと部屋の外にいたままのエティエルとともに階段を下りるように示唆する。
フィレルには先ほどのように短剣を咽元に宛がったままあたかも人質をとったかのような姿勢のままである。
フィレルの部屋で息絶えた者達と何らかの示し合わせをしていた男たちにとって、3人が行った偽装工作は階下にいた男たちを完全に油断させることに成功したことになる。
「それで、まずはあなたが何者なのか、そしてこいつらが何者であるのかも聞かせてもらえるんでしょうね!?」
本来であればフィレルの部屋にいた者達が動いていたのであれば今現在どうなっていたのかもわからない。何よりも自身を襲うものたちの正体くらいは知っておきたいものである。
「私の名は…ティリア。」
「ティリア…」
この名前をガイナーはどこかで聞いたことがあったことを思い出す。
それはサレス伯への紹介状をカストにしたためてもらった時のことだった。
『サレスに会うことが叶わなかった時のことあったのであれば、ティリアという者を探してみるといい。ラクローンのどこかにいるはずだ。』
あのとき、たしかにカストはガイナーに言っていた。すでに記憶の奥に眠ったままでいたものではあったが、このときにおいて漸く浮かび上がってきた。
「あんたがティリアだったのか…」
「私の名を知っていたと??」
「ああ。以前、カストさんが俺にティリアって人に頼ってみるように。といっていたからな。」
『まさかこんな自身と変わらない年頃の人だったなんて…』
そこまで口にしてしまいそうなところをガイナーは唾と一緒に飲み込む。
サレス伯爵と会えない時点で頼る人物と言われてまさかガイナーたちと似た年頃の女性、しかも密偵を生業とした人物だったとは思うべくもなかった。
ガイナーの沈黙にやや眉をひそめるも、一応納得した面持ちを見せてティリアと名乗る女性は話を続ける。
「…
こいつらは、サレス伯爵を死なせた者達の一味。」
「サレス伯を死なせた!!??」
ティリアの言葉にはサレス伯を死に至らしめた者の名を知っているかのような口ぶりだっただけにガイナーは訝る。
「あんたは伯爵を殺した奴を知っているのか!?」
ガイナーの言葉にはティリアという女性に警戒心を強めていることが含んでいた。
サレス伯の死が何者かの手によるものであるのならば、ガイナーたちが狙われる理由というものに対しての疑問が生まれてくることも明らかなものとなっていた。
フィレルにとってはいわれのないままに襲ってくるものたちに憤りを隠せないといった表情だったが、それはガイナーも同じことではある。
「確たるものがあるわけではない。
だがおそらく、伯爵の手元にあったお前達への書状を見て何らかの関わりがあるのではないかと考えたからだろう。」
「それじゃ、やっぱりゴルドール侯爵が…」
フィレルは先ほどの突拍子も無い推理したことが真実味を増したことに声を上ずらせてしまう。
その声にティリアと名乗る女性はやや表情を険しいものに変わっていた。
「お客さんたち、大丈夫かね…?」
男たちの狼藉によって衝撃を受けてふらついたままに宿屋の主はガイナーたちのいる食堂に戻って来ようとしていた。
「っ!?
親父さんこそ、大丈夫なのかい!?」
壁面にたたきつけられた宿屋の主人はやや苦悶の表情を残している。
「なに、それほどでもないですよ。しかし…」
主人が食堂で見たのは散乱した椅子の破片や調度品、そして床に伏せたままでいる3人の男の姿。それらを見たとき、言葉を失わざるを得なかった。
「ごめん、何かと壊してしまった…」
「いや、気にしないでください。それよりもお客さんが何もなくてよかったですわい。」
こればかりはここにいる者たちを責めるわけにもいかず、やむなしといった感じのため息をこぼす他になかった。
「うぅぅ…」
ガイナーが皆の安否を気遣っている間、ブロンドの男は意識を取り戻していた。
だが、今動いたところで再び打ち倒されてしまうことは必至である。
男は倒れたまま短剣をゆっくりと掴み取り隙をうかがう。
ある程度様子を見るに、ガイナーたちは倒れる男たちに背を向けたままでいてしまっていた。
その隙をブロンドの男はこれ見よがしに素早く身を起こし、背を向けたままの黒髪の少年に短剣の切っ先を向ける。
「死ねぇっ!!!!」
「!!?
ガイナー!!」
「っ!!??」
ジャッ!!
男の短剣はそのまま進めばガイナーの背中の中心に刺さる筈だった。
だがいち早く気付いたフィレルの叫びにも近い呼びかけに咄嗟に身を翻したことによって身体に突き刺さることだけは免れた。
しかし、短剣はガイナーの左腕の一部を小さいながらも切り裂いていった。
「ぐっ…」
「くそっ!しくじったか!!」
「何てことするのよ!!!」
男の凶行にフィレルは怒声を張り上げるも、男はこれ以上踏み込んでこようとはせずにガイナーの血を付着させた短剣を手にしたまま、入ってきた入り口から飛び出していった。
「ちょっと、待ちなさい!!!」
「追うな!外に仲間がいるかも知れない!!」
「…!?」
突然のことではあったが、ティリアは冷静に状況を把握していた。
男がごく単純な報復行為でこの場を離れていったのであれば、必ず待ち伏せがあると考えるのがここでは妥当といえる。
フィレルも待ち伏せを考慮したのか、ティリアの言に従ってその場に踏みとどまる。
「だけど、どうする?
このまま本当に仲間がいたのならまた襲ってくるかわからないぞ。」
ガイナーはティリアの言い分を踏まえて問う。
ガイナーの左腕には小さいながらも鋭利な刃物で切られた傷がぱっくりと口を開け、そこからは赤い血が滴り落ちていた。
「大変!!すぐに手当てしないと。」
フィレルはガイナーの右腕を強く掴み止血を試みる。
「痛つっ!!」
「少し、我慢しなさい。」
何か手ごろな布がないか目で探していると、主人が前掛けのポケットに入れたままの手拭いをフィレルに手渡す。
「サンキュ。」
主人に礼を言ってから片手で器用に傷口に手拭いを宛がい、キュッと結び目を作って巻きつける。
手拭いの表面には赤い染みが生じるも、きつく縛り付けたことにより、それ以上拡がりを見せることはなかった。
「まぁ、これで大丈夫でしょう。」
「ああ、ありがとう。」
「…話が逸れてしまったな。
私の任務だが、お前たちをある場所へと導くことにある。」
「ある場所…??」
「王城にある北の離宮。」
「北の離宮?…って王城!!??」
「お前達の本来の目的地でもあるはずだ。」
「まさか…!?
預言者…!?」
ガイナーは目の前に突然開かれた、しかも目的地まで一直線と言ってもいい道に歓喜するより前に驚きを隠しきれないでいる。
「一体どういうことよ!?
あなた一体何者だっていうの!!?」
反してそのことでより一層目の前の覆面の女性に対してガイナーとフィレルは警戒心を拭いきれないようにもなってしまっていた。
「私はただの使いに過ぎない。これに関して信じる、信じないはお前達に任せるほかは無い。強制的にとも言われているわけではないのだからな。
それでもお前達にとっては悪い話ではない筈だ。」
「それは…」
ガイナーの心情を読み取るかのようにティリアと呼ばれた女性は諭す。
「どうする、ガイナー?」
フィレルにどうすると問われるも、ガイナーの答えはすでに定まっていた。
このまま黙っていたとしてもこれ以上の道が開かれてゆくとは限らない。ならばいっそ目の前の女性の言葉に乗って話を進めていったほうが道は自ずと見えてくる。それが何者かの手によるものであったとしても、何者かの手による罠であったとしても。
「あなたは俺たちを助けてくれた。もし俺たちが邪魔な存在であるというのなら、すでに殺すことだって出来ているはずだ。」
ここにあってガイナー自身、ティリアという人物をよく見定めることが出来ていたといえる。
ガイナーの言うとおり、ティリアにとって都合の悪い存在であると言うのであれば、これほど回りくどいことをする道理が見当たらなかったのだから。
「…いいのだな?」
「ああ、このまま黙って過ごしていたとしても俺達にはどうしようもないからな。」
「…承知した。」
仮に罠が生じていたとしてもそれを打ち破ってみせる。そういった意志の表れがガイナーの中に見て取れた。
ガイナーからの答えを聞いたティリアと呼ばれる女性はその場から歩き、宿屋の主人の前に立つ。
「あの…?」
「この者達が出た後に付近の番所に伝えるといい。悪いようにはしないはずだ。」
「…は、はぁ。」
「親父さん。俺達、この人の言うように王城行ってみることにするよ。」
「王城へ…お客さんらがそう考えるのでしたら。わたしは何も言うことはないです。
しかし、気をつけて行きなされよ。」
「うん。」
宿屋の主人はガイナーたちを快く送り出してくれるものの、内心は穏やかなものとは言い難いものだったはずである。
しかし、このままここに留まっていたとしても今一度先ほどの連中が仲間を連れて戻ってくるかもしれなかった。その前にガイナーはこの宿を引き払う必要もあった。
ガイナーたちは部屋に置いたままの荷物を携え、宿屋の主人に礼を言った後、宿屋の扉を開けた。
すでに陽はすっかりその神々しいまでの姿を天空にあらわし、暖かい陽射しを世界に送り届けている。
ガイナーの行く手の先には巨大な王城が遠くの景色、澄み渡る空と重なって映し出す。
しかし、その雄大な巨城はどこか不気味な気配が感じられずにはいられなかった。
複雑な思いが交錯する中、ガイナーたちは王城へとつづく通りを歩き始めていった。
「ハァ…ハァ…追ってこないか…」
そういいながら手に血の付着した短剣を手にしたまま男は市街の通りの裏をすり抜けるように駆け抜け、追っ手が無いことを確認して足を止める。
「くそっ。聞いていたのと全く話が違うぜ。」
男が聞いていた話とは大きく異なる展開に憤りを募らせながら裏路地を歩き始める。
裏路地を抜けようとするすぐのところで男は足を再び止める。
「!?
だ、誰だ!?」
男の行方を遮るように立つ者の存在を目の当たりにして身構えるも、それが見覚えのある姿だったことにその姿勢をゆっくりと解く。
「あんたか…」
ローブを身に纏う者は男にゆっくりと手を伸ばす。
「首尾はいかがでしたかな?」