第07節
夜の帳が掛かるのはどの世界にも平等に訪れる。ラクローンの夜は昼間の寂しさがさらに上乗せされるかのように静寂を保っている。
サーノイドの脅威に晒されたことにより活気が失われたことに要因もあるが、ラクローンの夜は昼間よりも気温の低下が著しいことからラクローンの住人はよほどのことがない限りは外に出ようとは思わないものである。
ラクローン市街においてもそうであるように、貴族達の住まう邸宅が存在する王城付近、第1区と呼ばれる区画においてもそれは同様である。
貴族達は自身の邸宅の周囲においては警備の兵が数人みられる。
これらはすべて正規の兵というわけではなく、貴族達が擁する私兵である。
貴族達は常に周囲に私兵に警備させて誰一人として不審なものを近づけさせることはない。
その警備の度合いが過剰なものではないかと言うものは貴族の中では存在することは無い。
彼らは独自で雇った密偵を放ち、他の貴族達の情報を手に入れようとする傾向がある。
それに対すべく、私兵を擁して邸宅の警備を強化させる。
それらの堂々巡りを繰り返し、貴族達はより一層私兵を囲うようになっていた。
ラクローンにとって貴族と言う位置づけというものは、あくまで国王を補佐するという位置づけに在るものではあった。
しかし、長年の歳月の積み重ねによってそれらの存在意義が変わってきていることもまた事実である。
もともとのラクローンの貴族の始まりは建国時において国王に対して何らかの支持、援助を行ってきた者がその功績によって特権を得たことに由来する。彼らは国王より下賜された土地や財産を保有しつづけ、それによる権益によって財を成す。
そしてそれらは子や孫へと世襲させつづけていくことにより、家柄といったものを存続させている。いわば貴族達はこの継承劇によって何世代も権力を固持し続けていた。
しかし、何世代もの世襲による継承が続く中で、貴族達にとっての利益の追求を目的とした貴族同士の権力争いというものがあったことが大きな位置を占めている。
絶対的な君主制を布くラクローンにおいて貴族達はどこかで自己の権益、権力を固辞、拡大しようという欲望が生じてくる貴族も存在してきた。もとよりこれ以上ラクローンの国土が膨れ上がることが無い以上、限られた国土の中において権益を増大させるためには他の貴族達の権益、領土を狙うほかに無い。
それらの追求を図るための手段として、密偵を差し向ける。中には実力行使の暴挙に出た貴族もあったのではないかと噂されるほどの行いも存在していたともいわれている。
サレス伯の私邸においても過去の貴族達の例に漏れることはなかった。
邸宅の周囲にはサレス伯の私兵が警備のために数多く費やされている。その物々しさは王城の警備に匹敵するほどのものであったともいえる。
「やはり尻尾はつかむことは難しいか…」
サレス伯の私室において伯爵が放った密偵からの報告を聞き一人頷いていた。
密偵たちは体格に個人差はあれども、それぞれが黒衣に身を包み、己の素性も明かさぬように同色の覆面にて顔を隠す。
「それと、どうにも侯爵閣下の側近というものの存在が気になります。
素性は計り知れません。しかし、侯爵に何らかの口添えをしたということも間違いありますまい。
ですが予想以上に警戒が厳しく、我が恥を晒すようではありますが、これ以上の侯爵への接近はどうにも…」
「…わかった。では何らかの動きがあれば直ちに報告せよ。」
「ははっ。」
傅いた状態のままさらに頭を下げ、黒い着衣に身を包んだ男はサレス伯の私室をあとにする。
「候の側近…その者が何らかの入れ知恵を与えているのか…」
サレス伯は密偵が立ち去った後に自室に設置されている机に肘を置き一人思いに耽る。
サレス伯はラクローンにおいて騎士団長という地位にあって実働部隊を統括し、事が起これば直ちに騎士団を動かすことが出来るものではある。
しかし、それはあくまで国王の臣下という上でのことであって、国王の命なくして動くことはサレス伯といえども叶うべくもなかった。
ラクローン国王とその補佐に在る者、現時点においてそれは同義のものとなっていた。
国王の補佐たる者、ゴルドール候は摂政の任についてより以降、侯爵の権力は他の諸侯に比べ格段に大きなものとなっていた。
サレス伯にとってそれは単にゴルドール候の存在が圧し掛かってきていたものであったという解釈で片付けられるほど単純なものでもなかった。
もとより侯爵家であるゴルドール候の地位という点においてはサレス伯よりも高い地位にあり、他の諸侯に比べても格段に上位に位置するべき家柄ではある。
格式は高いものの、ゴルドール候の人となりを問われるのであれば地位の高さに比べればやや凡庸なものであるといえる。市井における侯爵の評判において悪い噂は立つことは無いものの、良き噂が立つと言うわけでもない。
ラクローン開闢以来の家柄と言うこともあるだけで今の地位にあると言うことも貴族の間においては周知のこととなっていた。
しかし、国王、皇太子の崩御の後、侯爵以上の地位を有する他の貴族を差し置いて宰相に近い地位に就くこととなり、現在においては国王よりも政務における決定権を有するに至っている。
そんなゴルドール候の周りの貴族達はその力に媚を売る者、その地位を疎ましく思うものの二極に分かれていた。
国王に絶対の忠誠を誓う身であるサレス伯からすれば、ゴルドール候の専横ぶりは少々目に付くものがある。
されど、国王を擁する以上、サレス伯は侯爵からの言に従う他に無かった。
元々、サレス伯とゴルドール候は先王の代においてはとかく不仲だったというわけでもなく、寧ろ交流は他の貴族よりも多かったものである。
王都において伯爵と侯爵はお互いにいがみ合う存在であると噂されることもある。しかし、サレス伯が憤りを覚えるのは先のサーノイドの襲撃において自ら率いるべき騎士団の出撃を見合わせるよう勅命を用いたこと。そしてラクローン郊外に集まる難民達に対してなんの施策も行おうとしない点においてのみである。
政務における落ち度があるわけでもなく、武人たる自身としては侯爵に弾劾したところで栓無きものでしかなかっただけにサレス伯はただ沈黙を保ち続けていた。
「伯爵。」
すでにサレス伯の私室に一人の小柄な姿がサレス伯の前に立っていた。
「…ティリアか。」
その様子にサレス伯も驚くことはなく、ティリアと呼ぶものに顔を向ける。
「すべてはご命令どおりに…」
ティリアと呼ばれたものはただ自身に与えられた役割を果たしたことをサレス伯に報告する。
他の密偵と同様に顔は黒い布で覆われているためどのような面をしているのかは判別がつかない。しかし、その名前と姿と声色から察するに女性。しかもまだ年端もいかない少女のものであることが見て取れる。
「うむ。ご苦労であった。」
サレス伯もこのティリアと呼ばれる少女に労いの言葉を以って報いる。
「して、どうであったか?」
「今のところは変化が見られるものではありません。」
「そうか…」
「それと…」
「…どうした?なにか分かったことがあるのであれば申してみよ。」
言葉に詰まるティリアにサレス伯は問い返す。
「いえ、そういったものではないのですが…
あの男が…“ブラッドアイ”が王都にいます。」
「何…?」
「これまではカストゥール卿の下にあったらしく、サーノイドの軍勢を撃退したのもどうやらあの男によるものであるとか。
現在は王都にありますが、先日にあった傭兵同士の諍いの件においてもあの者が関わっているようです。」
「あの男が、カストの下に…そうか。」
サレス伯はティリアの予想外の報告に驚きを見せるも、その人物をよく知るが故にただ淡々と頷くのみであった。
「あの者が今更王都に現れたところでどうにかなるわけでもないであろうが、そちらにも周到にしておくに越したことは無いようだな…
ティリアよ、今一度動いてはくれまいか?」
「…ご命令とあらば。」
「では近こう寄れ。」
サレス伯はティリアと呼んだ密偵を傍まで寄せると耳打ちするように声を殺して語る。
「…承知しました。」
「頼むぞ。」
「…それでは私はこれにて。」
一人サレス伯を残したままに軽い会釈を交わす程度でティリアと呼ばれた小柄な密偵はサレス伯の私室をあとにする。
他の密偵よりも足取りが軽いのか、瞬く間に気配を消して部屋にはサレス伯ただ一人が残された。
「場合によってはあの男がこの場にいることはよかったと思うべきなのかも知れんな…
この王都にこれから起こることを考えるのであれば…
それとファラージュの遣いの者。」
誰につぶやくでもなくただ一人言葉は夜の闇に掻き消えてゆく。
「カストよ…お前はこの王都の状況を見てどう思っているのだ?
このような者を送ってきて…」
サレス伯の机の上には古い友人から送られてきた書状が広げられたままだった。
友人からの書状、そこには“ある若者が預言者に会うべく王都まではるばるやってきた。
どうか御身の力添えを願いたい。“と。
そしてその者はアファの魔導師であったファラージュ候の推挙によるものであったとも手紙にはしたためられていた。
「今頃になってファラージュ候…アファの存在が出てくるとは…」
これから起こりうるやも知れない、王都の命運。
サレス伯は友人の手紙に何かしらの運命付けるものを感じていたのかもしれない。
「フフフ…なかなか興味深いお話をなさっていたようでありますが…」
「!!!??」
この声にサレス伯は瞬時に我に返る。
思いに耽ったままこの部屋にいるもう一人の存在を気付くことはなかったことに我が身の迂闊さを呪いながら。
「…何奴だ!!?」
声のするほうに顔を向けるもそこにはなにもなく、ただ明りに使用する蝋燭の灯火の光が揺らめいているだけだった。
だが目線を元に戻した時、サレス伯の目の前には深い茶色のローブに同色の外套を身に纏う仮面をした男の姿が映し出されていたことに驚愕を覚えるも、すぐさま冷静さを取り戻そうと息を呑む。
「!!?
貴様は!!?」
「お初にお目にかかります、伯爵閣下。」
仮面の男は目の前の貴族に対しての礼をするべく恭しく胸に手をあて会釈してみせる。
「どうやってここまで…!?」
サレス伯の邸宅には100人からはなる私兵によって警備、護衛されている。それらを掻い潜って伯爵の下へ来ることなどは腕のいい密偵であったとしても不可能に近いものである。それを目の前の男は労することもなく入り込んでいた。しかも伯爵の目前にまで。
「私めからすれば、このような屋敷に入ることなどいとも容易いことであれば。」
「…
貴様が何者かは知らんが、一体この私に何の用だ!?」
「これは…ご無礼を致しました。小生はネヴィリス。どうかお見知りおきをいただきたいものです。」
そう言いながら仮面の男は今一度会釈をする仕草を見せる。
今のところ害意は無い様子を見せたためか、サレス伯は一拍置いて仮面の男と対峙する余裕を見せる。
「それで、貴様の…いや、貴様の主の用向きは何だ!?」
サレス伯は目の前の存在が何者かの使いの者であるという認識を持っていた。
仮面の男もサレス伯に対し低頭の姿勢のまま口を開く。
「どうか伯爵にはこのまま大人しくしていただきたく存じます。侯爵もそれがおのぞみでありますれば。」
「な…に…?」
思わず耳を疑いそうな言葉にサレス伯は驚きの顔を見せながらもゆっくりと仮面の男から距離を取る。
「この国のために尽力されるお姿には侯爵も感服なさっておいでです。
なればこそ、懸命な貴方様であればお解かりのはずです。
もし、この願い叶いますれば、伯爵の地位の向上をお約束するとも仰せつかっておりますれば。」
「ぬかせ!!」
後ずさりながら自身の剣に手が届いたサレス伯は勢いのままに剣を抜き、仮面の男に向けて斬りかかる。
ザシュッ!!!
「む…!?」
手ごたえはあったもののそこに仮面の男の姿はなく、サレス伯の剣は何事もなかったかのように蝋燭の光を反射させていた。
「貴様、よくもぬけぬけと。元よりサレスティンは国王より地位を安堵された家柄、なぜに国王以外の輩に地位の向上の保障を受けねばならんのか!!?」
「ふぅ…これほど血気に逸るお方とは…
やはり、あなたもその程度のお方か…」
「貴様こそ、このようなところまでのこのことやってきて無事ですむとは思うまいな!?」
現役の騎士団長の任にあるサレス伯は手にした剣を仮面の男に向けたまま間合いを取る。
「くくく…我が身を案じていただけるとは、恐悦至極ですが…」
そう言いながら男はゆっくりと仮面に手をかけ仮面をはずす仕草を見せる。
「この場は我が身を案じられるほうがよろしいのでは…?」
「!!!??」
サレス伯が見たものはこの世界に存在しているにはあまりにもおぞましい輝きを放つ金色の瞳だった。
「…っ!!!???」
金色の瞳を見てしまった瞬間、サレス伯の身体が石にでもされてしまったかのように動かすことが出来なくなってしまい、仮面の男に向けられていた剣も手から離れ、足元に転がっていった。
「こ…これ…は…」
声を出そうにももはや出ているのかさえわからないものになり、無理に身体を動かそうとすればするほど体中から汗が噴き出し始めていた。
まるでこれから起こることがわかっているかのように。
サレス伯の自由が利かなくなった両手は自身の意思とは無関係なままにゆっくりと上がり、サレス伯自身の首をじわじわと押さえ始める。
「ぐぐ…おの…れ…」
必死で抵抗を試みようにも声を出すこともままならず、部屋の外に待機する私兵を呼ぶことも出来ないでいる。仮面の男の目の前で徐々に首を絞める手に力が込められてゆき、サレス伯の爪が首の皮膚に喰らいこみ首の周囲の肌の色を変色させてゆく。
「ぁ…がっ…」
もはや呼吸も途切れ途切れになりながら、サレス伯はただなすがまま自らの手によって身を滅ぼそうとしていく。自身で想像する以上の力を以って締め上げてゆく手は伯爵の気管を締め上げ、やがて爪は首の皮膚を食い破り、その奥にある赤い筋をも破りぬくとサレス伯から勢いよく赤い液体を噴出していっては部屋を赤く染め上げてゆく。
「へ、へい…か…このままでは…」
床に倒れこんだサレス伯が最期に見たのは目の前で冷たく笑う仮面の男の姿だった。
「ククク…貴方様は頭の良いお方ではありました。
しかし、それが貴方様自身のお命を縮めましたな。」
もはや動くことのないサレス伯だった肉体に今一度会釈をするような仕草を見せる。
「もはや、ここにいる者達とて用は無いですね。伯爵の放った密偵がいたようですが…
まぁいいでしょう。あとはお任せしてもよろしいのですかな?」
仮面の男は部屋の隅の誰もいない場所に語りかける。
部屋の隅には明りが届くことも無く暗闇に包まれている。姿は見えないものではあるも、そこには不気味なまでの気配が漂っていた。
誰もいるはずのない部屋の隅を振り返りながら、仮面の男の姿は音も立てることなくその場から姿を消していった。
その後、サレス伯の私邸において多くの悲鳴や怒号がこだまし、夜風に乗って周囲に響き渡っていった。