第06節
ここにいるとまるでめまぐるしく動く時間の中にぽつんと取り残された世界にいるかのような感じがする。
ほとんどの家がすでに主を失っており、家屋はすでに傷みまで生じている有様だった。
だが、寂れた佇まいであったが、この集落には常に穏やかな空気が流れているようだった。ガイナーが眠っていた家もすでに主を失っていく久しいものだったらしい。生活感がなく、埃にまみれたような部屋の様子にもそれで納得する。
マールと呼ばれる小さな集落は辺境に位置するメノアよりも規模ははるかに小さく、住人もおそらく100人に満たないものだった。
クリーヤの山と山の間に位置しており、森の中を切り拓いたというよりも木々の合間に小さな家が点在しているといった感じだった。
住人もほとんどが老齢に近いものばかりで、ガイナーのような若者の姿が見えなかった。
田畑を切り拓くような場も働き手もなく、そんな中、住人たちの日々の糧は近くの山林に山菜を採ってくるか、わずかに飼われている家畜たちでまかなわれていた。
気候は比較的に涼しいというよりも肌寒い感じもする。
こことは正反対に温暖な気候で知られるメノアであるなら、日向に立っているだけでじっとりと汗ばんでくるものだが、ここでは日向に立つことで肌寒さが和らぎ、穏やかな状態を保つことが出来た。
「ん~~~~~」
マールの集落が発している穏やかな空気を身体いっぱいに浴びながらガイナーは大きく伸びをする。
思えばメノアを発って以来常に剣を携えて常に魔物との戦いに備えながらいたわけだが、ここにいたってガイナーは常に携えていた剣を失っていることに気づく。
あの時に手放してしまったのか。
それともどこかで落としてしまったのか。
うやむやになってしまっている記憶の中で見失ったままの剣を模索しながら、剣のにぎりを思い浮かべて虚空の中で剣を握るように手のひらを閉じる。
「…ッ…!!」
これまで身体の一部のように剣を振るってきた。
ガイナーの中には向かってくる相手に対してどのように動けばいいのかというようなイメージまでもしっかりと有していた。
だが、ここにきて人を刺したときの感触が根強く甦ってきてしまう。
呑み込もうとしたものがそのままこみ上げてくるような不快感が襲ってくる。
あわててイメージを払拭させようと頭を振る。
「もう、持たないに越したことはないんだけどな…」
無論、そんなことがありえるはずもないと胸中では理解している。
しかし、どうしてもあの言いようのない不快感はどうしてもガイナーの頭の隅に引っかかってしまうかのように残ってしまっていた。
――――――
「…!??」
何もない退屈なまでの集落の中でふとなにかの声がガイナーの耳に入ってきた。
耳を澄ましても聞こえそうにないほどに小さなものなのか、ここから離れたところから発せられているものだからか、意識した途端に歌声にも聞こえる小さな音は木々のざわめきの中に呑み込まれていった。
「…気のせいだったのかな…」
何もなかったかのようにガイナーはそのまましばらく集落の中を自身の体力を取り戻すようにゆっくりと歩き続けていた。
――――――
ほどなくして再び先ほどの小さな声がガイナーの耳に入ってくる。
「なんだろう…
まるで呼んでいるかのような…」
奇妙な感覚の中、ふと目を向けたのは森の中へと入っていく小さな道だった。
森の中へと入っていくいくつかの道の中、それは最も小さなものである。
「この奥…」
まるで歌声に誘われるかのようにガイナーは森の中へと吸い込まれていった。
森の間からこぼれてくる木漏れ日のシャワーを浴びるように受け、身体の重さなども忘れたかのようにどんどん足を進めていく。
「しっかりとした道だよな…」
森の中において踏み固められた道となっていることから、ここを幾度も利用する者がいるのだということを示していた。
おそらくこの先には集落の人々が必要とするものが存在しているのだろう。
ほどなくして終着点と思われる場所にガイナーは足を踏み入れた。
「へぇ…」
終着点でガイナーの目にしたのは、おそらく集落の人々にとっての水源であろうと思われる泉がそこにあった。
それほど大きなものではないのだが、クリーヤの山々の地中から湧き出ているのか、見事なまでに澄み渡り、泉の端から端までも見渡せるかのように透き通っている。
ガイナーは泉の中に手を差し入れてその水をすくいあげるようにしたのち、その水を口の中へとゆっくりと運んだ。
寝屋となっている小屋を出てからこれまでずっと歩き続けていたことでわずかに火照った身体を清涼感が咽の奥からじんわりと身体中に染み渡らせていった。
久しぶりに口にした水の感触にガイナーは感嘆の息をこぼす。
「いい水だよな。メノアにだってここまでいい水はないぞ…」
メノアは南方に位置するために、気温が高く、山から流れてくる水は一度蒸留させたものでなければ口に出来ない。もっともメノアの住人が主に使用する水は村の各所に掘られた井戸水を使用しているのであるのだが。
もう一すくい水を含んだときに、泉の水面の先に別の人の気配があることにガイナーは気付く。
「…!?
あれは…」
ガイナーからはちょうど対岸に位置する場所にはすでに先客の姿があった。
一見すればガイナーと歳の近い感じもする。
ガイナーの目にした先にいたのはその素足を泉に浸したままじっと佇んでいた少女の姿だった。
少女は若草色をした腕と足を露にされたままの薄手のワンピースに毛織であろうショールを纏っている。肌は透き通るほどの白く、髪は腰よりも長く垂らされ、アクアマリンを溶かしたかのような色素の薄い水色をしている。それはまるで泉の水がそのまま具現化されてきたかのような雰囲気にもガイナーには感じられたのかもしれない。
遠目から見ればまるで泉の精が現れて、木漏れ日が射し込み穏やかに流れる刻の中を笑み称えているかのように存在している姿を描いているようだった。
ガイナーはまるで周囲の景色と合わさり、手の加えようのない完成した一枚の絵画のようなその姿の前にしばらくの間目を奪われてしまっていた。
我に返ったのはその少女の掌の上で舞っているかのように飛び回る光を目にしたときだった。
「妖精…」
少女の掌で舞い踊っていたのは妖精と呼ばれる小人とも言うべき姿に透き通った羽を持つ存在である。
妖精は旅人の前に現れてはその不思議な力で旅人の傷や疲れを癒してくれる。
それ故に旅人たちにとっては守り神としても扱われる存在である。しかしそれはパンの実というれっきとした取引が存在しているが故である。
基本的に人懐っこい性格からか、旅人たちの前によく姿を見せるのであまり珍しいものというわけではない。
しかし少女の掌の上の妖精はパンの実を受け取ったような様子もなく、ただ少女と戯れるような様子を見せている。
パンの実の取引もなく少女と戯れる妖精の存在を不思議に思いながらもガイナーが一歩泉に近づけたときに足許に転がっていた小石をつま先に当ててしまった。その小石が泉の中へと沈んでいったとき、音を立てて鏡面のような泉の水面に小さな波紋を生み出してしまった。
その音に驚いたのだろうか、妖精は少女の掌を離れてゆき、少女もまたガイナーの姿に気付いたようにガイナーに瞳を向ける。
「あ、あの…」
少女のエメラルドにも近い色の瞳とガイナーの黒真珠のような瞳が合わさったとき、思わず声を詰まらせてしまっていた。
「ごめん、驚かせてしまったか…」
ガイナーはばつが悪そうにあわてて言葉を出すのだが、なぜか平静を保つことが出来ないでいる。そんな中、少女は泉の中から足を上げて、素足のまま泉の縁を伝い、そのままガイナーの前に駆け寄ってきた。
ガイナーの目の前まで近づくと、そのままガイナーの手を掴んで満面の笑みを見せる。
「…!!?」
この少女はガイナーのことを知っているかの様子でいる。そう考えたとき、ふとマーキスが出した名前を思い出す。
「…エティエル…?」
エティエルと呼ばれた少女は笑顔のまま何も言わずにこくりと頷く。
「そうだったのか…」
妙な違和感を覚えながらもガイナーはエティエルに助けてもらったことへの礼を述べるのと同時に自らも名乗る。
エティエルはこれまでと同様にただ黙って頷くばかりだった。
先ほど離れていった妖精も再び戻ってきた。そしてエティエルの肩の上にちょこんと座るように佇み、ガイナーのほうをじぃっと見つめていた。
「そうか、君があの時俺を助けてくれたんだね」
あの時、自分を助けてくれたものに対し、エティエルと同様にガイナーは妖精に向かっても改めてお礼を言う。
妖精も言葉が理解できるのか、エティエルの肩の上で柔らかく微笑んでいるかのようだった。
『…でも、なんで何も言ってくれないんだろう…???』
これまでガイナーだけが一方的に話している。言葉を理解していないわけではないということは承知しているが、一言も言葉を発さないエティエルにわずかに苛立ちを募らせてしまいそうになってしまう。
「もしかして…」
“エティエルは言葉を有してはいない。”
要するに言葉は理解できるものの、その言葉を自らの口からは発することが出来ないでいる。
ガイナーが抱いていた違和感の正体をようやく悟ったとき、苛立ちの募る勢いのままに言葉に出てしまっていたことにハッとなり、思わず口をつぐむが、後の祭りだった。
「あ…」
ガイナーの言葉にエティエルはわずかに顔を曇らせながらもコクンと頷く。
「ご、ごめん…
無神経なことを聞いてしまった」
なんとか言い繕おうとするものの、うまく言葉に出来ずにただ素直に謝るガイナーにエティエルは腕を取り、首を振る。
狼狽するガイナーに反してエティエルは再び笑顔に戻って顔を上げる。
なぜかガイナーには“気にしないで”と伝えているかのように感じられた。
そのエティエルの仕草に胸をなでおろす。
『どうしてだろう…
何も言わないはずなのにこの娘の考えていることがわかるような…』
ガイナーは心の内にエティエルに対する不思議な感覚を漂わせたままでいた。
やがて時は経ち、世界は茜色に染まり、陽は西の山の中へと沈んでいこうとしていた。