第04節
少しでも先ほどの場所から離れたい。そんな願望があったのかもしれない。
ガイナーの足取りはこれまで以上に足早なものだった。
本来なら心臓がすでに爆発してもおかしくないほどに脈動していたに違いない。
すでに戦闘で受けた傷の痛みなど麻痺してしまったのだろうか。血の不快感に比べれば、傷の痛みなどは感じられなくなってしまっていた。
すでに正規の道からも外れてゆき、繁みを踏みぬけ、獣道に近い場所まで渡り歩いていった。すでに生気を感じられるようなものもなく、目許は黒ずみ、瞳には何重にもなるほどの赤い線が奔っていた。
ただ、これまで剣を携えてきた習性だからであろうか、まだ闘いが終わったわけではないという無意識な感覚からのものなのか、そんな状態の中であっても右の手にはしっかりと剣は握り締められていた。
すでに鞘はなく、ガイナー同様に雨にさらされたままで歩くときに切っ先を引きずってしまっていたためか、先端は泥でくるまれたような状態であった。
そのむき出しの刀身には未だぬぐいきれぬ赤い液体がべっとりと付着したままでいた。
赤い色は剣のみならず、雨と泥でずぶ濡れになった着衣の大半を赤黒く染め上げていた。
おそらく彼を知るものがいれば、すっかりと変わり果てた姿をしたと答えたに違いない。それほど恐怖に怯えるかのような形相をしていたことだろう。
生まれてはじめて人を斬った不快感を未だに拭い去ることも出来ないまま、ただ山道をさまよい続けた。
もはや、今どのあたりを歩いているのかもすでに見失っている。もしかしたらそれすらも認識しないままにただひたすら、足を引きずるように歩を進めていた。
雲の向こうで輝きを放っていた太陽は徐々に山の中に呑み込まれて消えてゆき、世界はすべての光を奪い取られていった。ほどなくして夜という名の闇の世界へと様変わりしていこうとしていた。
いまだ雨を降らせつづけるぶ厚い雲に覆われたままの空では星明りなどは届くはずもなく、ガイナーの視覚は完全に奪われ、無慈悲に振り続ける雨音はガイナーの聴覚を支配し続けた。
足取りはすでにこれまでのように逃げるように走り続けることも適わず、すでに足枷を嵌められたかのように重かった。さらに完全に閉ざされた世界では木々の間を抜けていくことなど出来るはずもなく、姿が見えるのであれば死人が冥府をあてもなくさ迷い歩いているかのように映っていたのかもしれない。
つま先の感覚を頼りに歩き続けていたが、それもわずかの間だった。
道を飛び出して伸びていた木の根にブーツの先を引っ掛けてしまう。
倒れる身体を支えようと、もう一方の足で踏みとどめようとすることも適わずに、そのまま身体を雨でぬかるんだ地面にもろに打ち付けてしまった。
「かはっ…!!」
倒れた際に打ち所が悪かったのか、傷口がさらに開いてしまったのか、衝撃に身体を震わせながらわずかに呻き声をもらしたが、ガイナーの体はそれ以上に動くことはなかった。
戦闘で傷ついた身体に凍て付いてしまいそうなまでに冷たい長雨に晒され続けたガイナーにはもはや身体を起こすまでの力は残されてはいなかった。
「はぁ…ぁ…」
息遣いも徐々に弱くなり、うすれていく意識は周囲の景色と同調するかのように闇の中の深部へと引きずり込まれていった。
闇の中感じられるのは未だ止まぬ雨の音だけがあった。
再び日は昇り、あたりには光が差し込まれていった。暴挙といわんばかりに降り続けた雨はいつしか上がり、空を覆っていた雲はすでにクリーヤの山を越えていったと思われる。クリーヤの森の中に奏でられる旋律は、雨のしたたる音から鳥の羽音や囀りに譜面は変わっていた。
葉に残る雨の名残が日の光に反射して森は神秘的な輝きを放っていた。
闇の中さまよい歩き続けたガイナーはそんな森の中でいまだに闇の中に意識をもぐりこませたままでいた。
深手を負うほどの戦闘に、一晩中長雨に晒されて冷たくなってしまった身体はすでに衰弱しきっていた。
このまま、この山道に挑んだ旅人と同様の結末を迎えるまでそれほど時を必要としなかっただろう。
すでに冥府の門の前に立っていたのかもしれない。
だが、ガイナーはその門を潜るより早く、冥府から呼び戻さようとしていた。
これまでの凍てつく世界とは正反対に身体全体を心地よいほどの温もりに包まれていくかのような感じだった。それはまるで春の日差しに身体を横たえている感覚に似ているのかもしれない。
そしてそんな中、新たに感じる喉に伝わってゆく清々しいまでの清涼感。
「…ぅ…」
葉からこぼれた雫が口の中へと入って行き、喉へと吸い込まれていったのか、渇ききった喉には久しぶりの潤いを得ることが出来た。
それが功を奏したのか、ガイナーの重い瞼はゆっくりと開く。
朦朧とした意識に不透明な視界の中、わずかな隙間からは朝の日差しを背に受けたであろう、まるで後光の刺すように映る人の姿をしていた。
少なくともガイナーにはそういう風に視えていた。
そんな中、温もりに誘われるように、ガイナーの手は天を仰ぐ。
まるで揺篭で眠る赤子が母親恋しさに手を伸ばすように。
「誰…なん…だ…??」
おぼろげな意識の中、ガイナーの手に触れられたしっかりとした感触を覚えた。
だが言葉を発することが精一杯で確認することはかなわなかった。
ガイナーの意識は再び闇の中へと引き戻されようとしていた。
だが闇へと誘われているというのに、不思議と恐怖といった感情はガイナーにはなかった。むしろ安らぎに近い安心感のほうが強く生じていた。
『…と…えた…』
声にもならないようなものが聞こえたような気がしたとき、ガイナーの意識は完全に微睡みの中へと消えていった。
再びガイナーの目が開いて意識が戻ったとき、映った景色は見知らぬ部屋の中だった。