第02節
青空が薄暗い雲に包み隠されてしまうのにそれほど時を必要とはしなかった。
黒雲に覆われてしまい、低くなった空からは大粒の雨が滴り落ちて、瞬く間に勢いをつけて滝のように降り注いだ。
暴力的なまでの雨の旋律は山の地肌や木々に降り注ぎ、泥を吸いながら濁流となって斜面を伝い流れていった。
突然の豪雨にさらされ、山道を進むことを困難な状態にされてしまった。
こうなった以上は雨を凌げるような場所を目指すことにせざるを得なかった。
雨と泥でずぶ濡れになった着衣が肌に張り付いた状態を不快に感じながらも、すでにぬかるみきった土壌を一歩、一歩と進む。
だが、雨をしのげる場所を見つけるより早くガイナーの前に近づく気配を感じるのだった。
「…!?
こんなところに人が…!?
…!!」
雨によって視界も悪く、足音も聞こえにくい状態の中であってもこれまで魔物との戦いの中で培ってきたガイナーの感覚は研ぎ澄まされていた。
その考えをすぐに払拭させる。
すでにこの山道を誰も通らなくなっていく久しい。そう考えると近付いてくるのは唯一つ、ガイナーとしては遭遇したくないものだった。
この山に住まう魔物が近付いてくるのだろうか。ガイナーの身体は無意識に警鐘を鳴らしていたのかもしれない。
ここで戦闘を行っても体力を浪費させるにすぎない。そのことは十分に承知していた。だからこそ極力戦闘を避けることが出来るのであれば避けておきたい。ガイナーの思惑はそこにあった。
すぐに近くに岩陰を見つけ、そに身を潜めて近付いてくるものをやり過ごすことに決めるのだった。
雨音に混ざりながらも近付いてくる足音は3つほど感じられた。だがまっすぐに進んできているわけではないらしい。すぐに近付いてくる様子もなく、足音は近づいては止まり、近づいては止まるを繰り返している。まるで少し進むごとに足を止めて見通しの悪い周囲の様子をうかがっているかのようだった。
「くそっ…
こいつらは斥候か…
そのまままっすぐ進んでくれたらよかったのに…
これじゃ見つかるのも時間の問題かな…」
自虐めいたかのように呟いてみるが、今更どうすることもできない。
ガイナーはすでに次の行動をしようと剣を抜いた。
足音は推測どおり3つ、一人で相手をするにはどう考えても苦戦は必至である。
戦闘を行うにしてもこの時点で戦う方法といえば奇襲しかなかった。
ここにくるまでと同じような足取りでガイナーの前に近づいてくるとなるとガイナーが隠れている岩陰は必ず確認するに違いなかった。そこを狙う以外にない。
まずガイナーは一度岩陰から近付くものの姿を覗いてみた。
足音はだんだんと近付いてゆき、ガイナーの前にくっきりとした姿をようやく現した。
3つの姿はいずれも体格がしっかりとしたものだった。
3体とも甲冑らしきものを全身に身に纏った兵士のような姿をしている。
ただ、兜の中の顔には金色の瞳が不気味に輝き、引き裂かれたかのような口には鋭利な牙がむき出しのまま飛び出していた。
人の姿をしてはいるが、それは紛れもなく人ではないと考えるのは容易なことだった。
何よりも人と違うとされたのはその肌の色だろう。人のような赤みを帯びたような色ではなく、どす黒い灰色のような肌の色をしている。
それはゴブリンよりも大きな体躯を有し、それよりも獰猛な魔物、“オーク”と呼ばれるものだった。
「よりによってオークかよ…
しかし、なんだあの武装した姿は…!?」
オークはめったに姿を見せないが、メノアにも生息はしていた。しかしこれほどまでに物々しい武装をした姿はみたことがなかった。
オークは普通の成人した男性よりも力は強い。まともに組み合うようなことになればガイナーといえど力負けしてしまう可能性は高い。ましてや武装をしたオークとなれば尚更である。
戦闘体制はすでに整っている。戦闘の前の緊張感からだろうか、肌に張り付いた着衣の不快さはもはや感じることもなくなってきていた。
オークたちは岩の前で足を止め、オークの一体はガイナーが潜んでいるとも知らずにその岩陰を覗こうとしていた。ガイナーはオークが近づいてくるにつれて剣の柄を掴む手に力を込める。
オークの注意を逸らすためにガイナーは落ちていた小石をオークとは反対方向に投げつけた。
放物線を描いた小石は雨の中で泥の中に音を立てて弾ける。
ガイナーの思惑通りに周囲に警戒を怠らずにいたオークたちは音のしたほうに目を向ける。
小石が転がるのと同時にガイナーは踏み込み、一瞬注意のそれた一番近いオークめがけて剣を突きかかった。
狙うのは甲冑のカブトの間の首元、全く剣を振るったことのないような素人であれば狙えるような的ではなかったが、ガイナーは躊躇なく全体重をかけて突進した。
ドシュッッッ!!!!
ガイナーに気づいたオークだったが、ガイナーの的確に狙った刺突を避けることは出来なかった。
不意を突かれたオークはガイナーの通常よりも長い尺を持つ剣を自身の咽元に深々と飲み込んでガイナーともども地面に背中から倒れた。
小石の音よりもさらに大きなその音に2体のオークは仲間のオークに目を向ける。
ガイナーは深々と刺さった剣を抜くために倒れたオークの胸元を踏みつけて柄に力を入れる。すでにその足を振り払うほどの力はオークにはなく、剣が咽笛から抜けたその瞬間、その傷口からはおびただしい量の血液が勢いをつけて噴出した。
オークの体液は灰色をした肌の色とは異なり、ガイナーたちと同じ赤みを帯びたものだった。
咽元を完全に潰されたオークは嗚咽とも肺にたまった呼気が抜ける音なのか見分けのつかないような音を鳴らし、しばらく身体をのけぞるようにもがいてみせたが、血の噴出の勢いが収まると同時に断末魔の声も出すことすら叶わずにそのまま活動を停止させた。
倒れたオークの周りにはオークが噴出させた血の溜りが生じたが、雨の勢いでその血は斜面を伝って流れ始めた。
仲間が倒されたことに気づいた他のオークはすぐさま戦闘体制をとる。
だがガイナーはすでに次の目標をきっちりと定めていた。
剣をオークから抜き取るときに拾い取っていたオークの棍棒を近くのオークに投げつける。
すでに戦闘状態であるオークは飛んできた棍棒を難なく盾ではじいた。
だがその盾で視界をわずかに遮ってしまったことがこのオークの命運を決定付けた。
盾ではじいた隙をつき、すでに懐に踏み込んでいたガイナーはその死角から剣の柄に両手を添えて逆袈裟に首元から振りぬく。
甲冑といえども金属製というわけではなく、剣を体重に乗せて叩き斬ればオークの身体を甲冑ごと斬り捨てることは十二分に可能だった。
ガイナーの鋭い斬撃に自分がなぜ斬られたのかもわからぬまま2体目のオークもまたガイナーの奇襲の前に倒れてそのむき出しの金色の目を閉ざすことなく、見開いたまま曇天の空を仰いだ。
ゴブリンであれば仲間が倒されたことによって逃げ散っていくものではあるが、気性の荒いオークは怒りを覚えたのか、空に向かって咆え始めた。
オークは自身の発した咆哮を周囲の山々に残響しながらも仲間を失ったことに怖じる事無くガイナーに襲い掛かってきた。
ブンッッ!!!
力任せに振るうオークの棍棒をまともに受けるわけにいかないので身体をねじって回避する。
「たあぁぁっっ!!!」
攻撃の隙を与えないように剣を振るうが、ゴブリンとは違いしっかりと手にした盾で何度も防がれた。
闇雲に剣を振るっているだけではいずれ体力を消耗して隙を生じさせてしまう、そう悟ったガイナーは一度オークから距離をとろうとするが、ガイナーの考えを見透かしているかのようなそぶりでオークは突進する。
「この…」
オークの攻撃を回避することが難しいと認識したガイナーは足元に転がっている先ほど倒したオークが持っていた木製の盾を手に取り構える。
ガンッッッ!!!!
「…ぅくっ…」
オークの剛腕から振り下ろされた棍棒は木製の盾で防いだことにより直撃はまぬがれたものの、その衝撃はガイナーの左腕に伝達した。
筋繊維が引きちぎれるかのような、あるいは骨が軋む音が聞こえたような気がした。
盾を持つ腕に熱を帯びているような感覚を有し、そのあとに襲ってくる痛みに堪えながらも右手に力を込めて剣を振りオークを牽制した。
防御から反撃に転じたガイナーは構えていた盾を捨てて両の手で剣を持ち袈裟懸けに振るい、そこから左薙ぎへと転じ、そして突きへと変化を繰り返す。
わずかにガイナーの攻撃の間隔が短いのが功を奏したのか、ガイナーは数合目の剣戟でオークの盾をはじき落とした。
決して力負けしたわけではないものの、ガイナーの剣の鋭さに及び腰になったオークは一度ガイナーから距離をとろうとする。
ガイナーも深追いはしないで息を整えることに専念した。
「はぁ…はぁ…」
このまま膠着していても埒が明かないと、ガイナーは再び両の手を剣の柄にしっかりと握りなおし、オークの真正面に斬りかかった。
オークは片手持ちの棍棒だけでガイナーの剣戟を受け止めようと棍棒を前に迎え撃つ。
ガキンッ!! ガキィッ!!!
幾重もの剣戟を繰り返すうちにすでに及び腰になっていたオークに隙が生じ始めていた。
その隙を逃さずにガイナーはオークの前に一気に踏み込んだ。
「そこだあぁぁッッッ!!!!」
ザシュッッッッ!!!!
掛け声と同時に振るった一撃は右薙ぎからオークの胸板よりも飛び出した腹部を中心から斬りこみ、脇腹にむけて斬り抜けていった。
剣の切っ先からはオークの血が剣の軌道にあわせて飛び散っていった。
最後のオークもまた傷口から血と臓物を噴出して前のめりに崩れ去った。
オークが活動を停止させたのを確認するためにガイナーは前のめりに倒れたオークに顔を向ける。
「…お前らなんか、ケインやカミルに比べたら、相手にもならねぇよ…」
ガイナーはこれまで勝ち星をあげられなかった二人との手合わせを思い出して一人つぶやく。
ガイナーの意識がその場から離れたわずかなときだった。
ドカッッッ!!!
「…かはっ!!!!!」
背中から全身に強烈な衝撃を受けたかのような感覚を覚えた。そのことで一瞬呼吸が止まり、意識を朦朧とさせる。
「ぐっ…」
そのまま立っていることもままならずに、膝を折るが、同時に剣を突き立てて倒れることなくその場で踏みとどまった。
背後からの衝撃の正体を見極めようと朦朧とした意識の中、ゆっくりと顔を向ける。
衝撃の正体はこれまでオークたちが所持していた棍棒だった。
「こ…いつは…!?」
ガイナーはじっと眉間にしわをよせながらもその先に焦点をあわせる。
いまだ止まぬ激しい雨の中、ガイナーの前に近付いてくる二つの影がうっすらと視認できた。