第04節
まさに草原という名の海原といえるものであった。
草原は風に揺られて波にも似た模様を浮べている。草原といっても、芝生のような背丈の低い草というものではなく、ガイナーやカミルの履いていたブーツのすそをすっぽりと隠すほどの背丈を有する草がほとんどであった。中にはガイナーの腰にまで差し掛かるほどの高い背丈の草地もあり、3人からすれば草の中を掻き分けながら進んでいるといった表現のほうが正しいのかもしれなかった。
周囲が見渡すことが出来る草原とはいえ道なき道を進むということになると、誰でも慎重になるのは言うまでもない。
先人達の切り拓かれた道であればそこに何があるということも周知のことではあるが、この場合ガイナーたちが先駆者となって道を切り拓かなければならない。足元が見えない中を進むことになるので、進行方向への警戒は一層強まった。ガイナーとカミルはそれぞれ剣を抜いたまま自身の足元を軽く薙ぐような形をとり、リーザを二人の間を割るように並べて進んでいった。
普段の移動速度を大幅に下回って移動しなければならず、西の空に太陽が沈んでいこうとするときに、ようやく樹海の入り口ともいえる樹海と草原の境界線に差し掛かった。
「今これ以上進むのは危険だね」
「そうだな。今日はここまでだな」
「え…でも…」
リーザからすればいても立ってもいられない心境だったかもしれない。すぐにでも走り出して父の元へ向かいたかったに違いなかった。だがこうして日も暮れて世界が闇に包まれようとしているときに樹海の中に入っていくことは憚られた。
「リーザ、あせる気持ちはわかるけど、今日はここまでだ。樹海へは明日の朝、日が昇ってからだ」
「は、はい・・・」
すぐにでも父親の許に近付きたい気持ちが強かったリーザではあったが、ガイナーの言葉に従った。
夜が世界を包み込んでからすでに時はながれ、月が天頂に達してその儚げな光を与えていたころになってもリーザには未だに眠りの園への誘いにつられることはなくじっと炎を見つめていた。
「まだ眠れないのか?」
先に見張りを引き受けていたガイナーはあたりの警戒を終えて戻ってきていた。
「ご、ごめんなさい、眠っておかないといけないことはわかっているんです。
でも・・・」
「心配要らないよ」
「え…?」
ガイナーは先んじて発した言葉はあったが、それは自身に言い聞かせる言葉でもあった。
「リーザのお父さんと一緒にいるであろう人は俺の幼馴染であって俺よりも腕が立つくらいの達人なんだ。きっとリーザのお父さんも無事でいるはずさ」
それはリーザにとっても一時の気休めにすぎないものではあった。無論ガイナーにしてもそれは熟知していた。それであったとしても今は何よりも心強い言葉であったに違いなかった。
「だから、明日は今日歩いた分以上に進むかも知れないんだから、無理にでも横になって眠っておくほうがいいんだよ。な!?」
「はい…」
随分と荒っぽい言葉ではあったが、リーザはその言葉にガイナーの中の気遣いが感じとれていた。ガイナーの言葉に従って、リーザは起こした火のそばで身を横たえ、一時の眠りに就いた。
リーザが父を心配しているのと同様にガイナーもまた少し前にメノアを旅立った青い眼の青年のことも気がかりになっていた。
“ケイン、なんでこんなところにいるのかわからないけど、大丈夫だよな・・”
周囲は再び静寂に包まれ、時折聞こえるのは焚き火より聞こえる薪の割れる乾いた音だけだった。
朝日は樹海に遮られていたためか、目が覚めたときはまだ辺りは薄暗いものだった。
ザックに入れていたパンと干し肉と水で胃の中をわずかに膨らませると、3人は樹海の中に入っていった。
樹海に入っていったころはまだ木々もまばらに立ち並んでいたためか、陽の光は木々のフィルターでやさしく降り注いでいた。しかし、だんだん遠くのほうへ進むにつれて樹木は鬱蒼と繁っていたのか、草木に湿り気を帯び始めたためか、辺りの空気が重々しく感じられるようになってきた。
ガイナーとカミルは草原と同様にリーザを挟む形で樹海の奥へと進んでいった。
だが一刻ほど進んだころにカミルは足を止めた。カミルが足を止めるという行動は近くに魔物がいるということを意味していた。ガイナーも同様に足を止めるとそばにいたリーザに喚起を促した。
「リーザ、そばを離れるなよ」
「は、はい」
二人の雰囲気が変わったことを察したのだろう。リーザはガイナーの背中にしがみつくような形で身をすくめた。
ガサガサと草木を分けてこちらに近付いてくる音はだんだんと大きくなってきた。姿を見せるようになったころには二人は戦闘体勢を整えていた。魔物の姿は巨大な蜘蛛を形づくっていた。その蜘蛛はガイナーたちに近付くとその8本の足を曲げ、一気に頭上に飛び上がってきた。
「くっ!」
頭上から襲ってきた魔物に3人はその場を跳びよける。すかさずカミルはそのまま大蜘蛛めがけて斬りかかった。
シャッッ!!!
大蜘蛛はその図体に似合わず俊敏で、カミルの斬撃にも跳び退いた。すかさず大蜘蛛はガイナーに向けて粘液状の白い糸を吹き付ける。リーザを伴ったままのガイナーはすんでのところでその糸をかわす。
「くそっ、こいつ!!」
ガイナーもリーザを木の陰に隠れさせたあとに大蜘蛛の背後に回り、一気に踏み込んで斬りかかった。しかしその斬撃においても大蜘蛛はすばやい身のこなしでかわして見せた。
「ちょこまかと・・!!」
攻めあぐねている状態にガイナーは焦りを覚えていた。
「ガイナー、一つ方法があるんだけど」
「カミル?」
「・・・・・」
カミルの提案を聞いた後にガイナーは頷いて応えた。
「よしっ!いくぜ!!」
ガイナーは再び大蜘蛛に向かって斬りかかった。
案の定、大蜘蛛はガイナーの斬撃に三度跳んでかわし、そのままガイナーに再び糸を吹き付ける。
ガイナーは手にした剣で糸を防ぐが、糸は思った以上に粘りガイナーの戦闘力を奪われる。
「くっ…この…」
ガイナーは剣をその場で振って絡んだ糸を振り払う。
隙ありと見てとったのか、大蜘蛛はガイナーに噛み付こうと跳び掛る。
カミルはその一瞬を見逃さなかった。
跳躍する大蜘蛛にタイミングを合わせてカミルは剣を前に向け回避するガイナーのすぐ後ろから突っ込んだ。
ザシュッッ!!
跳び掛ってきた大蜘蛛はカミルの尖突に対して避ける術はなかった。
カミルの一撃は頭部の左目のある辺りを穿った。
剣が刺さったまま地面に胴体から着地した大蜘蛛は左目を穿たれた衝撃によってか、辺りの木々に激突して暴れ始めていた。だがそれもほんの一瞬であった。
すでに大蜘蛛の天上に跳躍していたカミルは背中の大剣を抜き、そのままの勢いを持って大蜘蛛の背中めがけて身体ごと突っ込んだ。勢いのついた大剣は、大蜘蛛の背中の辺りを貫く形で地面に突き刺さった。
「やった」
蜘蛛は剣が刺さった状態で足をばたつかせてもがいてみせていたが、しばらくの後にその活動を停止した。
「ふぅ、何とか倒したか…」
思いのほか苦戦を強いられたガイナーはわずかにため息を漏らす。
「こんな危険な場所にお父様は…」
大蜘蛛の死骸にやや目をそむけながらリーザは今以上に父親のことを案じるようになる。
「先を急ごう」
大剣を背中に戻し、カミルは2人に進むことを促す。
3人は更に樹海の奥のほうへ進んでいった。
樹海はさらに木々が欝蒼と生い茂り、温暖な気候の中の密林ゆえの不快感の高まるほどの湿度が3人の実を包み込んだ。わずかな距離を歩くだけで汗はしたたり、着衣を湿らせた。そんな中でさらに3人の空気を重々しくさせるものを先の視界に捕らえてしまうことになった。
「人が倒れている!」
3人はその場に駆け寄ろうとしたが、その姿を見たガイナーはあわててリーザの顔を自分の懐に埋めた。
「見てはダメだ!!!」
「!!!?」
突然の行為にリーザも面食らわせ、一瞬顔が上気したようだった。表情は見えないながらも隠せなかったが、何が起こったのかわからぬまま腕の隙間から顔をのぞかせようとした。
「!!!!?」
それは生命活動を無理やりに終了させられてしまった戦士といった風貌をした男の変わり果てた姿であった。男の姿は片腕が折られていて、関節以外の箇所も曲がっており、さらに胸の中心にポッカリと槍のようなもので刺突されたような大きな穴が開いていた。おそらくそこから大量に血と腸物を噴き出したであろう生々しい爪あとが血のりとなってその男の着衣と地面に凝固して遺されていた。
「ひでぇことしやがる・・・」
樹海の気温は日が昇るうちはメノアほどではないにせよ上着を必要としないほどで、なおかつ湿度は森という環境からか以外と不快さが残るほどである。
そんな中、あたりにその噴出したであろうおびただしい血液やそれに混じった体液はその周囲に匂いが立ち込められ、鼻につくほどの強烈な匂いにガイナーはおもわず口を押さえた。
「この人は、邸を警備していてくださっていた。兵士さん・・・」
リーザにとっては名前までは知らないまでも自身の邸宅の警護を勤めてくれた割と身近な人であったにちがいない。
その変わり果てた姿を目の当たりにしてしまった少女はその血の匂いと樹海の空気の重さとが重ね合わさったのだろう。顔面は蒼白になったままその場に倒れこんでしまいそうなまでの眩暈に襲われた。あわててガイナーはリーザの身体を支えた。
「大丈夫か?」
「へ、平気です。それよりも・・・」
リーザは亡き骸に顔を向けてからガイナーたちに目を向けてガイナーに訴えかけた。
リーザの希望を聞き入れて、ガイナーとカミルは折れた枝を使って浅いながらも小さな穴を掘り起こし、その兵士を埋葬した。その後リーザは小さいながらも祈りの言葉を唱えながら、つぶやいた。
「こんな場所でごめんなさい、でも私たちは先を急がないといけないんです」
もはや送辞というよりも謝辞に近いものではあった。しかしこれから先にまだ進まねばならない道がある以上、3人はそのまま先を急ぐことにした。
これまでガイナーたちは先人が遺したであろう足跡をたよりにここまで進んできたのであるが、先に進むにしたがってその足跡を見つけるのが困難になってきていた。
それでも剣で草木を薙ぎながら道を切り開き、進んでいくことにした。
どれくらい歩いただろうか?すでに陽は大きく傾き、周囲も見通しがきかなくなり始めてきた。
「しかたない、今日はここまでだな・・」
「だ、ダメです。もう少し行けばお父様が!!」
「リーザ、さすがにこれ以上は進めないよ。それに君も。」
すでにリーザの足元はふらふらになり、呼吸も大きく乱れ両肩を上下させている状態になってしまっている。これ以上進んだとしてもおそらくリーザの体力が持たずに途中で倒れこんでしまうのは明白だった。
「お願い・・です・・もう少し行けば・・」
リーザも負けじと食い下がったが、その途端に足をもつれさせてしまい、ガイナーに支えられた。
「リーザ」
わがままな子どもをたしなめるような感じでガイナーは諭す。
「わ、わかりました・・・」
リーザも自身の状態を把握できたのだろう。二人の言葉に従った。
わずかに拓けた場所で火を起こして出発前より何も口にしていなかった胃袋にわずかな食べ物をわずかな水で流し込むことにした。
「水場が近くにあればよかったんだけどな・・」
「こういう場所での水はかえって危険だよ」
実際、密林における水というものは飲用することを勧められないものである。密林に存在する水溜りはたとえ澄み渡った清流のようなものであったとしてもその底面には密林の木々による落葉が存在する。落葉がたまった水は毒性の成分を染み渡らせるものもあり飲むことによってたちどころに死に繋がるものも存在するのだ。
「お父様・・・」
すでに疲労が極限に達していたリーザは食事を済ませるとすぐに意識を夢の中に引き込まれていってしまっていた。
「何とか会わせてあげたいね」
「ああ、だが俺達にとってもリーザの親父さんがこの旅の目的の一つだからな」
「そうだね」
二人は交代で休憩を取りつつ、周囲の警戒に務めながら夜が白むのを待つことにした。
もはや陽が昇ったこともわかりにくいほどの濃い密林の中、陽の光はわずかなものでしかなかった。さらに朝の急な気温の変化は周囲に霧のカーテンを周囲にかけていた。それでも3人は完全に体力を回復させることもなく、わずかな希望を気力に替えるかのように密林のさらに奥のほうへ足を踏み入れていった。