第02節
夜通しに渡って行われたゴブリンによる襲撃の報を受けた段階において、ウェスタリアの城砦のみならず、都市部においてもこれまでにないほどの緊張感に包まれている。
陽が昇る頃にゴブリンの軍団はあらかた駆逐、撃退するに至り、城側の被害は数えるほどの報告で留まりはしたものの、城壁上の騎士や傭兵たちにとっては、夜を通して戦闘を繰り広げたことの昂揚感と、それに勝る疲労感が入り混じった感じを覚えるとともに、休む間もなく新手が押し寄せてくる徒労感と、僅かな絶望感を漂わせずにはいられないでいた。
さらに言えば新手の軍勢はゴブリンのような小型の魔物とは転じて、中型の完全武装されたオークの影を軍勢の中に捉えているだけに、次の攻撃を受けることになる時点で、これまでにないほどの被害を出してしまうことは疑いようもなかった。
しかし、ゴブリンの襲撃後、すぐに城砦に迫ってくる気配がない。
今、この僅かではあるも時間が生じているのは、偏にウェスタリアの騎士や傭兵の奮闘によるものであるともいえるが、敵方の軍勢の編成が完了していなかったところは知る由もない。
それでも生じた貴重な時間の中を利用して、防衛司令であるゼルフト卿は全体を鼓舞するかの如く指示を下す。
「敵はすぐにでもやってくる!
手の空いている者から今のうちに食事と武器の補充を、態勢を万全に近いものにしておくのだ!」
城壁の兵士たちが一層動きを活発に見せながら、二メートルにも届く巨躯を有する男がその様子を流し見ながら大きく嘆息する。そんな姿を男に歩み寄るハニーブロンドの髪の少女は見逃さなかった。
「随分と大きなため息ね。ツキが逃げてしまうわよ」
「んあ?
ああ、姉ちゃんか、ゆっくり休めたかい?」
「ええ、おかげさまで」
「ああ、それでいい。ここからはちときついところも出てくるだろうからな。
嬢ちゃんの方はどうした?」
「リーザはヒューバートの騎士様のところに顔を出すって言っていたわ」
「そうかい」
夜が明けはじめてゴブリンの襲撃がある程度の収束を迎えるころにヴァイスは目の前の少女ともう一人の貴族の少女、あと近くにいた幾人かの新兵を休息の為に後方へと下がらせた。
ヴァイスとしてはそのまま前線に戻ることはなく、王都へと帰還を果たしてくれたほうが、これから起こるであろう凄惨なものを経験させずに済むのではないか、とも頭をよぎらせていた。
しかし、その考えはファラージュの頭首たる少女に頑なに固辞されてしまい、ヴァイスとしては頭を悩ませてしまう一つとして残ってしまっていた。
「やはり心配?」
そう尋ねながら、サリアは手にしていた木の皿にパンと炙った肉を載せたトレーをヴァイスに渡す。
「ああ、助かる。
・・・・・そうだな、俺としては嬢ちゃんには血生臭い場所には縁がないようにあってもらいたいものだね」
トレーごと受け取ったヴァイスは、トレーを口の近くまで持っていくと、炙った肉をそのまま齧り付く。
「もう、言ってくれれば・・・」
得物を手にしたままトレーを受け取ってしまったが故の行動ではあったが、サリアは呆れ気味にヴァイスからトレーを取り戻して、すぐにヴァイスが手に取りやすい高さに掲げる。
「はは・・・すまねぇな」
「まったくもう・・・
それで、嘆息の理由は空腹とあの子のことが原因ってだけではないんでしょ?」
「んぐ・・・まぁな」
「やっぱりどうしても犠牲者が出てしまうってことかしら?」
「そりゃな、戦いってものがある以上、ある程度の犠牲ってものはあって然りだ。
だが、今度ばかりはちと犠牲だけを考えていいわけじゃねぇ。そうなってくるとどうも苦しい展開になるんじゃないかってね」
多大な犠牲者が出る。そのことは頭の上ではサリアもこの場に参じた以上理解はしているつもりでいる。そしてそれを強いられてしまう立ち位置にいるということも。
だが、ヴァイスの言葉にはそれ以上の懸念を持っているのではないかと考えてしまうのだが、それが何なのかが今のところは及びもつかないでいた。
「よくわからないわね。
あなたの懸念するところはどこにあるというの?」
ヴァイスは口に入れた肉を嚥下すると、得物を城壁のラインに沿って動かしてみせる。
「そうだな。まず、この城壁がどう伸びているのかっていうのはわかるかい?」
城壁は直線に伸びているわけではなく、緩やかにではあるも砂漠の側に向けて弧を描くように形づくられている。
これまで考えることもないものであったが、ヴァイスの指摘を考察してみれば、奇妙な違和感を覚えはじめていた。
「よく見ると不思議な形ね、砂漠に突出したような形に見えるわ。
これだと守りのための人員がかなり必要だと思うわ」
サリアの見解にヴァイスは感嘆の息を漏らす。
「そう。ここは防衛のための城壁という割にはあまりにも長すぎる。
これだとすべての戦線を維持するためには言うように人員がいくつあっても足りやしねぇ」
「確かにそうね。サーノイドの為の防衛線を張るというのであれば・・・
ウェスタリアよりも後方に築いたほうが人員的にも効率的にも負担が少ないわ」
「ああ、これまでのちっちぇ戦いであったならばそれほど負担らしいものはなかったのかもしれねぇんだが、今回ほどの規模で来やがったというのであれば、下手をすれば流石にどこかが討ち減らされてしまうかもしれねぇ。こういうのは一度綻んでしまうともう手が付けられねぇ。あとはそこから内部へと蹂躙されてあえなく陥落さ。」
「それは確かに深刻ね。でも今からじゃどうすることも出来ない・・・」
サリアはある程度頭の中でヴァイスの懸念の正体を結論付けていた。
「そういうことだ。確かに数年前にでもこの場を放棄して、もう少し後方にある山間部に築城するってぇ考えに至っていりゃ、まだやりようもあったんだがな・・・
まぁ、今更言っても仕方ねぇ。何より壁が全くないってぇよりは、はるかにマシではあるんだ。」
「この壁だけでも一から築くとなるとどれだけの人足と時間を要するのか測り知れないわ」
「そういう点においてはここに拠点を置くというのは正解ではあるんだぜ。
元々、この城壁はサーノイドからの為に造られたわけじゃねぇんだ。いわば旧時代の遺物の再利用ってなわけだからな。そもそもこいつは西側からの防衛を目的としたわけじゃねぇんだその逆さ」
そう言いながら、サリアが持つトレーの上の残りのパンを手に取る。
「逆?・・・それじゃ一体誰と戦っていたというの?」
「この砂漠だって城壁があったころはまだ緑の平原だったこともあっただろうし、そこには文明だってあったはずだ。だがアファを相手にしていたわけじゃねぇ。同族同士で争い合うというよりも、ライティンが相手取っていた種族っていうのはサーノイドよりもむしろ・・・」
「!!
ドラゴン・・・ヴァリアスっていうことね」
サリアの閃きにヴァイスは軽く口笛で正解を称えてみせる。
「ご明察だ。
これほどの長大で背の高い城壁で防護しながら戦い抜く。つまるところヴァリアスいわば俺やサランの祖先を相手にするための防壁だったってわけだ。あまり大きな声では言えねぇが、ウェスタリアの街ってのは、ドラゴンどもの屍の上に営まれている、っていうことにもなるんだな」
どこか自虐的な部分も見せながら、ヴァイスは軽く乾いた笑いを浮かべる。
「ぅ・・・あまり気分のいい話ではないと思うけどね。
でもたしかにヴァイスの溜息の理由がわかったわ」
「ハハハ・・・まぁあとはこいつがあれば俺としては溜息だって無くなるし、もう言うことはねぇんだがな」
ヴァイスはサリアにジョッキを傾ける仕草をしてみせる。
「ハァ・・・さすがにそれは駄目でしょ」
まだまだこれから先に戦闘が待ち受けている。
ヴァイスとて酩酊した状態で戦いに身を投じるような酔狂な真似はするべくもない。
「ヴァイスさん」
二人のもとにブロンドの髪を白いリボンで一括りにした少女が小走りにやってくる姿がある。
「よぉ嬢ちゃん」
「あら、噂をすれば、ね」
二人のやり取りにリーザは小首を傾げる。
ヴァイスたちは、やって来たブロンドの少女の姿に目を向ける。
貴族がよく愛用する旅装束と良質の布地であつらえた外套。
全体的に動きやすい様相をした少女の表情はヴァイスの思惑とは裏腹にしっかりとした決意を表したものであった。
「どうやら決意は固いみたいだな」
「はい、今度は私も何とか戦えるように頑張ります」
休息を取れたことで、魔力を充分に温存しえた少女はヴァイスに小さくも意気込んでみせた。
「・・・威勢は買うぜ、だが無理は禁物だ。
サリアの姉ちゃんもだぜ」
「わかっているわ」
ヴァイスとしてはゴブリンよりも次に襲い来る敵の方に重きを置くためにある部分がある。
特にリーザとサリアを早いうちに下がらせたことで、魔導師としての力をあてにしている部分も少なからずあるのだが、ヴァイスの場合は火力よりも治癒力と付与術をあてにしていることの方が大きいところはある。
この戦いは明らかに消耗戦の傾向にあるだけに、必要とされるのは火力よりも優れた耐久性に重きを置く。
兵力に十分なものがあれば代えが利いたであろう。しかし、ウェスタリアの兵力を上回る物量で押し寄せられたこの場面では如何ともしがたい。
城壁の眼下には遮蔽物の存在しえない赤みがかった砂漠が広がっているのと同時にサーノイドの軍影が誰の目にも映っている。今は大きな動きを見せてはなくとも、こちらへと向かって攻めよらんと蠢いていた。
「・・・・今度はあれらが襲ってくるんですね?」
軍勢を前にしてリーザは意気込んでみたものの、戦慄を覚えずにはいられず、既に何度となく訪ねてしまっているのかもしれないものを口にする。
「ああ、あちらさんもいよいよ本気を出してきやがるみてぇだ。
こっから先は少しばかり気を引き締めてかからねぇとな」
ヴァイスの言葉にリーザは生唾を呑む。
「・・・・・勝てます、よね?」
この問いかけは、あまりにも詮無いものでは、ということは承知している。
それでもこの目の前の屈強な体躯を有する歴戦の猛者と称するに値する男であれば、或いは少女の望むべき答えを導き出してくれるのではないか、と一縷の期待を込めた。
「まぁ、負けるつもりはねぇよ」
やや含みを込めた口ぶりを見せながら、長城の各所にある物見塔に目を向ける。
「余計な茶々がはいってこなければ、だがな」
それが何を意図しているのかは、現段階でサリアとリーザには理解できないものだった。
「ヴァイス!!どうやら奴らが動き出したようだよ!!」
「む!?」
「!!?」
赤い髪の剛腕の女傭兵の声により、ヴァイスたちも砂漠に目を向ける。
砂塵を舞わせながら徐々に軍勢が迫りつつあるのが見て取れる。
「ようやくお出ましってわけだ」
動きは司令部のおかれる城壁よりも一つ高い位置にある司令塔からも確認できていた。
「閣下!」
「うむ、総員戦闘態勢を取れ!!!
いよいよ奴らが本格的に動き出してきた!」
砦の司令の立ち位置にある壮年の将軍の号令により、一斉に場内の兵士たちの動きが活発になる。
「ここを手薄にするな!
もう少し兵力が要る!」
「向こうから戦力を回して来い!!」
「こっちにはもっと矢を回せ!!このままじゃ迎撃が出来なくなってしまう!」
「来るなら来てみろ!!
お前たちの屍の山をさらに築いてやるだけだ!!」
「この城壁がある限り、アファは無敵だ!!」
あちらこちらから、激昂と怒声を含んだ声が響いてくる。
「みんな、凄いわね。
これだけ一丸となれば、もしも・・・なんてことは考えられそうもないかもね」
一層の緊張感を生じさせながら、城壁の上は慌ただしく動く。その姿を見る限りにおいては、砦の陥落などある筈もないであろうという錯覚まで起こしてしまいそうだった。
「本当に」
「嬢ちゃん・・・いや、ファラージュ侯、ここから先は夕べの様な雑魚だけが襲ってくるってわけにはいかねぇ。
ここ以外が崩れてしまったらいくら俺でもどうしようもねぇからな。
だから本音を言えば、俺は今でもあの兄ちゃんが言うように嬢ちゃんとサリアの姉ちゃんだけでもここを離れてくれた方がいい。とは俺は思ってはいるんだぜ」
「ヴァイス・・・」
軍勢を見据えながらヴァイスは傍らに立つ少女に言う。豪胆を代名詞にしたようなこの男にしてはやや後ろ向きな言葉を出すことに違和感を感じている。
「ヴァイスさん、それは・・・・」
しかし、極度の緊張感の状況の最中においてそれは止む無きことなのかもしれないのだと、少女は思うことにする。
「さぁさぁ野郎ども!!
今まで見たこともないほどのお客さんのお出ましだよ!!
一丁盛大にもてなしてやることにしようじゃないか!!!!」
自身の身体よりも大きな斧槍を勢いよく振り回すと、赤髪の女傭兵サランは周囲に鼓舞するかのように高らかに唱えてみせると、周囲の兵士たちはその声に呼応して鬨の声をあげる。その声を中心に水面に一石を投じて起こる波紋の様に鬨の声は城砦に広がりを見せていった。
サランの声が刺さったのか、ヴァイスも自身の口にしたものにばつを悪くしたのか、空いた手で頭を掻く
「ったく・・・俺としたことが、どうも後ろ向きになっていけねぇ・・・
らしくもねぇことを考えちまう・・・」
「ヴァイス、こういう時はあいつらをさっさと叩きのめして、美味しい酒でも傾けることにしよう。でいいんじゃない?」
サリアの言葉に一瞬面食らったようにも見えたが、「ハハハハ・・・そりゃそうだ!!
そうに違ぇねぇ!!」
次の瞬間には、いつもの豪気に立ち返る。
「さあ、てめぇら!!
仕事の時間だ!!のこのことやってくる奴らを返り討ちにしてやろうぜ!!!」
ヴァイスの声にも周囲の兵士たちは呼応している。
この様子を見てもう誰にも恐怖の感情は消えていた。
「ではこの戦いに勝利したあかつきには我が領土からとびっきりの銘酒をこちらに運ぶ手配をすることにしましょうね」
ファラージュの領地は王都から北東の位置にある。そこはアファの中では最も葡萄の栽培に適した土壌を有しており、少女の何代も前から果実酒の醸造を隆盛としていることから、領内においての一大産業として存在しており、侯爵家の大きな収益の源でもあった。
中でも選りすぐりの逸品というものは、市中には出回ることもなく、専ら貴族間での流通だけに留まっているものもある。
「ハハハ・・・そりゃぁいい!!!
最高のご褒美だ!!!!
おい、てめぇら!!奴らを追っ払うことが出来れば、美酒と誉れの高いファラージュの逸品を味わうことが出来るぞ!!!
銘酒を味わう機会を逃したくない奴は、あいつらを追っ払って何としても生き残れよ!!!」
「「「おおおおおっっっ」」」
城の兵士たちの士気はこれまでにないほどの昂ぶりを見せていた。
「矢を番えよ!!
迎撃する!!!」
近年において誰しもが体験したことのないほどの、戦闘が始まろうとしていた。