第10節
どこまでも続いているであろう青い世界が見渡す限り続いている。
船は三檣からなるマストは帆を全開にし、海風を全体で受け止めながら勢いそのままに、海原を疾駆する。
そんな景色を目の当りにした者は波間に輝く光のように目を輝かせ、表情は自ずと華やいだものにならずにはいられない。
船の甲板の上にて身を躍らせながら、緑の髪の少女は青い世界を常に視界の中に収めていた。
陸地を離れてからは、目まぐるしく景色が変わっていくという感じはなくなるも、ライムは甲板にて海風を全身で浴びながら、青い世界を満喫しているようだった。
そんな少女の無邪気な姿を見守るように、カミルは前方のマストに背を預けて佇んでいる。
だがこの時のカミルの意識はここにはなく、この海の向こうにいるであろう、黒髪の少年に向けられていた。
かつて行動を共にしてはいたものの、自己の都合によってアファで別離した時のことを振り返れば、少年が今何処にいて何をしているのか、思いを馳せずにはいられないでいた。
「もうすぐだ。」
しかし、カミルの思いとは別に黒髪の少年との繋がりを保つための手段が現状では皆無といってもいい。
ただラクローンに向かう。漠然としたものでしかないことはカミル自身、自覚はある。
それでも思いを馳せてしまうのは、それ以外の選択肢が存在しえないというところにある。
「あら、ライム楽しそうね。」
「うん。風がすごく気持ちいいの。」
そう言いながら、甲板で小躍りするかのようなステップを踏んで見せる。
「そうね。とても心地いい風…
それに…」
ちょうど同じ頃、船の上には海風に乗って、耳に心地よい竪琴の旋律が響いていた。
ロミアは靡く髪を押さえながら演奏元に目を向ける。
船の上の奏者。アルティースは船首に立って、手にしている竪琴の弦を静かに、時には情熱的に揺らす。
「宴会の場でも聞いたけれど、本当に素敵な音ね。」
「本当。とてもきれいな音。」
一演奏終えたアルティースの前にやってきたロミアは、奏者に対して拍手を以って労いの姿勢を見せた。
「ありがとうございます。」
アルティースもまた帽子を取り、一礼で応えた。
先日の宴の最中、ロミアは竪琴の演奏を希望した。
アルティースもこれに吝かではない様子を見せながら、その場で何曲かの演奏を披露すると、その歌声に幾人かの聴衆を虜にさせていた。
ロミアもその一人であり、また曲に合わせて自らも踊り始めると、その場の盛り上がりは一時凄まじいものとなっていたほどである。
「ロミア。今度はロミアも踊ろうよ。」
「そうね。これほどいい曲があるような時に体を動かすのは悪くはないんだけれど…」
「??
どうしたの?」
「でも駄目よ。あまり海風を浴びてしまったら、身体中がベトベトってなってしまうんだから。」
「え~っ!!?」
「それに髪の毛だってそう。せっかくのライムのきれいな髪がパサパサになっても、こんなところじゃ滅多にお風呂にも入れないんだからね。」
やや強めの口調ではあったが、ライムに対して窘めるように諭す。
「うぅ~~それはやだぁ~」
お風呂に入れないということが刺さったのか、ライムは頭を押さえながら小さく呻きながら、その場で座り込んでしまった。
その様子を見てカミルたちも自然と笑みをこぼしていた。
「どうだい?この船の乗り心地は?」
カミルの前に船長であるヘクターは少し得意げに手を広げてみせる。
「とてもいい船だね。うまく風に乗れているから脚も速い。」
「ハハハ…そいつは何より。
さて、すまねぇが少しばかり今後の航海について話しておきてぇんだが…」
そう言いながら、ヘクターは船の中央部の船室に誘う。
「わかった。」
「ロミアたちもいいか?」
船首に立っていた二人にヘクターは声を掛けて首肯するのを確認する。
「どうしたの?」
「ハハハ、嬢ちゃんも来てくれるかい。」
「ん?」
カミルたちに駆け寄ってきたライムも後に続いて、ヘクターたちは中央の船室に入っていく。
部屋には既にゼータが待っていた。
船の中央部に位置する船室には周囲にある程度の調度品がいくつか並べられている。
部屋の真ん中には大きなテーブルが置かれており、その上には一面に地図が広げられていた。
その地図を見てアルティースは目の色を変える。
「これは…」
「わかるかい?
こいつが海図だ。」
「これが…」
地図には中央大陸とも呼ばれるセノン大陸を中心に、東にトレイア、南北にそれぞれ幾つかの島に分かれた地形が描かれている。
メノア島を見てカミルはこれまでの軌跡を慮る。
目覚めればメノアにあって、そこで黒髪の少年と出逢い、アファを目指す最中で樹海に足を踏み入れ、アファで行動を分かち、トレイアを目指したカミルは海路にてラクローンを目指している。
「このままのペースだと、おそらくラクローン地方の陸地が見えるまでに…
一週間といったところか。」
「一週間!!??」
その回答に思わずアルティースは荒げた声を漏らしてしまう。
エルダーンからソルビナまでの航路にこの船とほぼ同型のもので3日を要する。
ヘクターたちの拠点がトレイアのほぼ北端であったとしても、目的地たるラクローンまでの航路はその5倍を有している。
たとえ順風に進むことが可能であったとしても、少なく見積もっても半月以上はかかると見ていた。
「確かに船脚は速いとは思いますが…いくらなんでもそんな速さで辿り着くとは考えられません。
それともこの先に速い潮流でもあるというのですか?」
「そんなもんねぇよ。
寧ろこれから先は潮の流れが複雑になってきて航行も難しい海域になってくるからな。」
「!?
それでは…」
「疑り深けぇなぁ…ったく。
心配いらねぇさ。俺達なら十分辿り着けるさ。」
「アルティース。僕はヘクターたちに全てを任せるつもりだよ。」
「…カミル。」
「僕たちは船のことはわからない。けれど、この人たちを信じる以外にないんだから。」
ある意味、カミルの言葉はカミル自身に向けられたものであったとも言える。
もしかしたらこの場でトレイアに引き返すという選択もあったのかも知れない。
しかし、青年は船でラクローンに向かうことを選び、その恩に報いるべく、船乗りたちはその船を未曽有の危険を孕んだ海へと奔らせる。
船を出したことで既にヘクターたちに託すこと以外にないのだから。
「ご心配はごもっともかもしれませんが、ヘクターが…うちの船長が一週間で辿り着くというのであれば大丈夫です。」
「まぁその辺は信じてもいいと思うわよ。」
「…わかりました。」
当初ヘクターの考えというものは、根拠のない予測であるとしか思えないとアルティースとしては思う以外になかった。
しかし、こちらとて根拠のない疑念であるということに変わりはなく、これ以上は邪推でしかない。
ましてカミルの言葉で船乗りたちを信じる旨を聞かされてしまうと、この先の言葉はすでに失われていた。
今一つ内に残る何かがあるような気持ちを残しながらも、アルティースもまたカミルの意に同意する。
「まぁなんだ。そこは文字通り大船に乗った気分でいてくれ。」
声高に笑い声をあげるヘクターを尻目に、残りの者たちは呆れ顔や苦笑いを浮かべていた。
あれからしばらく文字通り順風に船は進み続けていた。
陽が海に落ちて闇に包まれながらも、船は波を切って黒い海原を疾駆する。
空はそんな船を祝福するかのように星空が光り輝いている。
だが、その光のすべてが届くことのない世界、深淵の奥深くから湧き出でるかのように襲い来る狂気が近づく船に向けてまさに忍び寄らんとしていた。