第09節
今宵の宴に集う者達も、既にそのままその場で崩れ落ちてしまっている。
やがて潮が引けていくかのように夜の帳は徐々に白んで行く頃、未だ係留されたままの船の船首の前に立っている者の姿がある。
「おう。早ぇな。」
この船の長でもあるヘクターは背後から来る二つの足音を耳にするも、振り向くことなく声を掛ける。
ヘクターの前に立つ二人の姿。一人は女性でロミア。もう一人は隣のロミアよりも頭一つ以上の背丈を持つ屈強な男性の姿である。
男の名はゼータ。ロミアのみならず、ヘクターをも越えた体躯を有し、長に似た橙の髪に茶色の瞳。そして左目を左右に割るかのように傷跡がくっきりとのこされた強面をしている。
その傷痕は多くの戦いを経験してきたことを語りかけてくるかのようでもあった。
「それで、あの三人を運ぶっていう事だけれど…」
「ああ、いよいよラクローンへ向かうぜ。」
「「!!?」」
その目的地を聞いたとき、ある程度の差はあるものの、二人とも衝撃を受けたことに変わりはない。
「本気なのね。」
「私はあの者達がどのような人間なのかはよく知らないので何ともいえませんが、長が船を出すほどのものだというのですね?」
「まぁな。」
「今度の航海は些か危険の伴い方がこれまで以上…ですね。」
「二人はともかく、船の連中はどう考えるかかしらね…」
「その辺はある程度話をつけてからにするさ。
いやだって言うのならそいつらはここに今回は残すつもりだ。」
「そこまで…」
「それとロミア、あの嬢ちゃんのことだが…」
「…
ええ、あなたの思うとおり、あの娘はヴァリアスよ。
それも相当色の濃い。」
「やはりな。」
そういったヘクターは少しばかり口の端をあげる。
「どうやら何かと思うところがあるようですね。」
「ああ…」
「では私は船を万全のものにしておくだけです。」
「頼むぜ。皆が起きた頃にとりあえず話だけはしておくとするか。」
三人がそれぞれ動き始めた頃にはすでに陽は昇り始めていた。
「ラクローンへ向かう。」
昼近くになって集められた船員たちであったが、船長のはじめの言葉から一同驚愕の声を漏らさずに入られなかった。
「ラ、ラクローンって…お頭、わかっているんですかい!!??」
「あの海域には海竜がいて近付く船を軒並み沈めていくって。」
「そうですよ。」
「それでは命が幾つあっても足りないじゃないですか。」
「ふぅ…とにかく落ち着け…」
「それどころじゃないですよ!!!」
船員達が慌てふためく様子をヘクターは溜息混じりに傍観する他なかったが、もはや状況的に収拾のつかないところにまで陥らんとしていたときであった。
「うるせえぞお前ら!!!!」
個々が悲鳴に近い声を張り上げながらざわつく場に一喝する一際大きな声。
突如として皆が押し黙り、恐る恐る声の主に向く。
背後に立つのは人一倍屈強な体躯を有した強面の男性の姿があった。
「長の話はまだ終わっちゃいねぇ!!!
黙って聞きやがれ!!!」
「すまねぇなゼータ。」
「いえ、続けてください。」
ヘクターからの言葉にゼータは両腕を胸元で組んで仁王立ちする。
まるで誰もその場から逃がさぬと言わんばかりに。
「知ってのことではあるが、現状ラクローンの海に近付いた船はただの一隻も戻ったという話はねぇ。噂じゃ海竜があの海にはいて尽く沈めていくなんて話もある。」
「そうですよ。そんなところに何で…」
「だが、それを見たものは誰一人としていねぇ!!!」
その言葉にこれまで収拾のつかないほどの狼狽振りを見せていた者達は固唾を呑む。
「そもそもだ。ラクローンに向かった船が戻ってこねぇというのに、なんで海竜の話が浮かんできやがる?」
「それは…」
「そのあたりに誰も疑問をもたねぇのも不思議なもんだが…
お前らに問いてぇ。
海の上において俺の船を沈められる奴らがいると思うか!?」
「「「っ!!!!??」」」
ヘクターの放った一言はそれほど声を荒げたわけでもなく、ただ淡々とした口調のものではあった。
しかし、今の船員達にとっては何よりも衝撃的なものと捉えるに足る一言であったろう。
「そ、そうだ!!!」
「その通りだ!!!!」
「俺達を沈められる奴らがいるなら出てきやがれ!!!!」
「「「オオオオオッッッ」」」
周囲の雰囲気は再び収拾のつきにくいものへと変わろうとしていたが、先ほどとは異なり悲観めいたものはその場には存在しえなかった。
「なんだか凄いね。」
「ええ。これほどの自信を持ちつつ、全員を鼓舞できるほどの力量を有しているとは…
驚きです。」
この絶対的な自信がどこからあるものなのか?
カミルたちはヘクターの言葉を片隅で聞きながら、ヘクターと言う男の自信と自分達に向けてくれる義侠心に感服する他ない。
「この航海は正直なところ、俺の個人的な恩義によるものではある。
だから今回の航海に出たくないやつは遠慮はいらん。
この場に残って俺の帰りを待っていてもらってもかまわねぇ。」
「「「…っ!!?」」」
「だが命の恩義は命を以って返すというのが海の男の流儀ってやつだ。」
「そうだ。俺も頭同様にあの人に救われなければ、とうに命なんてなかったんだ。
今更、怖れる命なんざ。」
「いきましょう!!!」
「海竜が襲ってくるっていうのなら、来やがれってものよ!!」
これまでの畏怖の混じる悲鳴に似た怒号は、いつしか自己を奮い立たせんがための侠気の声へと変貌を遂げていた。
「ようし!!
野郎共、出航は明日の朝に定める。
早速準備に取り掛かれ!!!」
「「「アイアイサー!!!」」」
船長の一声を皮切りに、船員がそれぞれの持ち場や役割に動き出す。
これまでの清閑な空気は一気に慌しくなっていった。
「凄い大きな船。」
「本当だね。」
「そうですね。一般的な船の形状ではあると思いますが、それでも大きさが際立っているようです。」
出航のあわただしい空気を他所にカミルたちのような外部の人間は様子を窺うほかになく、これから乗るであろう接岸されたままの船を前に、ただ素直に感嘆を口にする。
一般的なガレオン船の形状をしているそれは、カミルたちがエルダーンより乗ってきた船と形状は似てはいるが、大きさはそれを凌駕するもので、全くの別物であることを認識させられた。
「カミル。」
出航の準備にあわただしい動きを見せる様子の中、カミル、アルティースそしてライムたちの前にヘクターが訪れる。
その傍らには船長よりも頭一つ抜き出た長身の体躯を有する男が立っていた。
「よお嬢ちゃんも一緒かい。」
「うん。」
やや人見知りな性質のライムではあったが、ここにきてヘクターやロミアにはそれなりの態度を見せるようになってきていた。
「そちらは?」
「ああカミル。紹介するぜ。こいつはゼータ。船の副長を務めている。
ゼータ、こっちがカミルだ。」
「船長が世話になった。私からも礼を言わせてもらう。」
ゼータと呼ばれた男はカミルを前に深々と頭を下げた。
「お礼も何も。僕たちは偶然通りかかったことで…」
「それでも、恩義を受けたことに変わりありません。
船長の言うとおり、我々もこの恩義は恩義で返させて頂く。」
「…うん。
どうかよろしく。」
「まあ、出発は明日の朝だ。今のうちにゆっくりしておいてくれよ。」
「ありがとう。そうさせてもらうよ。」
軽く会話を交わして、ヘクターたちは再び船のほうへと戻っていった。
「ゼータ、どうだ?」
「正直、一見するだけでは何ともいえない感じでしたが、こう間近で見ると何となく分かります。」
ゼータは先ほどまでいた場所を思い返し、自身の掌に眼を向ける。
ゼータはカミルの前で深々と頭を下げてはいた。しかし、カミルから出る気配を品定めするかのように凝視していた。
感じ取ったのはカミルのもつ独特の気配というべきもの。
これまでの戦いの中においてそれらを数多くを感じてきただけに、カミルの底知れぬ得体の知れぬ何かを触れようとしただけで全身が震え、掌が汗ばむような感覚を有した。
「たしかにあのカミルという方もそうですが…」
「どうした?」
「いえ…ロミアも言っていました。
ヴァリアス…」
このときゼータはこれ以上の言及を避けた。
銀髪の青年の傍らに立つ少女のほうがずっと得体の知れない気配を生じさせていることに。
明けて日が昇り始めた頃、船は錨を上げて入り江を出た。
目指すべきはセノン大陸北部ラクローン。
船は北西へと舵を切る。