第10節
静寂の中でエティエルの寝息だけが微かに聞こえてくる。
それこそがエティエルが生きてはいるという何よりの証ではあるものの、北の離宮での一件以来エティエルはずっと眠り続けている。それをただじっと眺める以外に今のガイナーには為す術がなかった。
「俺は…」
膝下で組んでいる手に無意識に力が入る。
「俺は…君に助けられてばっかりだ…」
ガイナーはふとエティエルと出会ったときのことを脳裏に浮かべている。
思えば出会った時から少女はガイナーを助けてきた。
クリーヤの山中において瀕死の状態のガイナーを救い出し、カストのアジトから出てからもサーノイドの襲撃に際してもいち早く敵の気配を察知してガイナーに知らせ、時には目となって敵の位置を的確に伝え、その強い魔力をもって大勢の人たちの傷を治癒させるという奇跡もガイナーの前で見せた。
そして北の離宮においても…
「俺は…
どうやって君に報いたらいいんだ…?」
今のこの状態においてその答えを見出すことは出来るはずもなく、ただじっと俯いたままでいるしかない自分に苛立ちを募らせずにいられずにいられなかった状態がしばらくの間続いていた。
静寂の中、各所に用意された燭台から蝋燭の芯が焼ける音が微かに聞こえてくる。
ガイナー自身ドミニークとの戦闘での疲労が抜けたわけでなく、椅子に身を預けたまま視界が暗転しようとしていた。
「ん…」
「…!?」
ふと意識を遠のかせてしまいそうになってしまっていたときにふと耳にした吐息で我に返ったとき、ベッドで横たわる少女はいつの間にか意識を取り戻し、ガイナーを見つめていた。
「…エティエル。」
お互いの視線が合わさったとき、漸く目の前の現実に脳が働きかけたのか、身を乗り出してしまっていた。
「よかった…気がついて。
どうだい、痛いところとかはないかい?」
ガイナーの問いかけにエティエルはゆっくりと頷いてみせる。
「…そうか。」
そう応えるエティエルではあったがまだわずかに疲労の色が残っているようにガイナーには映っていた。
それでもエティエルの応えにガイナーは少し落ち着きを取り戻し周囲の様子を伺う。
あれからどれくらいの時が流れていただろう。
室内に用意された灯りにはテーブルに据え置かれた蝋燭の他に部屋の四隅にもランプが灯されている。その火はいまだに油を残してゆっくりと揺らめき立っている。
外はまだ闇に支配されたままで未だに白む気配を見せてはいない。
あの時、ドミニークによってガイナーが取り込まれてしまう刹那に庇ったときからその後の様子を知る由もないエティエルではあったが、ガイナーが目の前にいることで安堵した表情を見せていたのは他ならぬエティエルの方だった。
ガイナーが無事でいたことこそがエティエルにしてみれば何よりのものだったのだから。
「…ともかく。まだ陽も昇ってはいないことだし、今はゆっくりと休んだらいいよ。」
そう言いながら椅子から立ち上がり、シーツをかけ直そうとするところ、着衣の裾を掴まれた感覚を受ける。
「エティエル…?」
不意のことにガイナーも少し驚くも、エティエルの身体にやや震えが見られることに気づいたとき、改めて自身の迂闊さが腹立たしいと感じてしまっていた。
あの時、誰よりも不安と恐怖の中誰よりも心細かったのは他ならぬエティエル自身であったことだろう。
それを知っていながら、ガイナーは自分を責める以外に何も出来ずにいた。それ以外に何もなかった。
「ごめん…」
エティエルの心情を気づいてあげられなかったことへの謝辞だった。
そう言いながらアクアマリンの長い髪に触れるとゆっくりと梳くように撫でる。
ガイナーをじっと見つめ続けていたエティエルではあったが、髪を撫でられることの心地よさからか、或いは目の前に立つ少年の姿があることへの安堵感からか、やがて静かに目を閉じて先程までと同様に静かな寝息を立てるに至る。
「…おやすみ、エティエル。」
エティエルが眠りに就いてもガイナーはその場を離れることはなく、ただじっとエティエルの髪を撫で続けていた。
「エティエル…心配したんだからね。」
ベッドに身を置いたまま身体を起こしていたエティエルの顔を見た途端にフィレルはその身体いっぱいに抱きしめる。
「・・・・・」
「おい、フィレル。エティエルはまだ…」
「あ…」
つい条件反射的に身体が動いてしまったフィレルは突然のことに呼吸が苦しいものとなったエティエルが思わずフィレルの背中を軽く叩くことで我に返り、抱きしめた腕を解く。
「あ…アハハ…ご、ごめんねエティエル。
大丈夫?どこも痛いところとかはない?」
急に抱きつかれたことで思わずむせてしまい、エティエルはやや咳き込むもフィレルに向けて微笑みを向ける。
「そっか…でもよかったわ。一時はどうなることかと思ったものね…」
「…ああ。」
ガイナーもエティエルの顔を見て漸く安堵したかのように胸をなでおろす。
「そうよね~。
ガイナーはずっとエティエルのことが気がかりで仕方がなかったものね。」
「…!?
フィレル!!」
「アハハ。いいじゃない別に。」
「まったく。」
いつもの軽口を交えて満足気になったのか、フィレルはベッドの前にある巨大な窓にかかる薄手のカーテンをかき分けて窓を開ける。
外はやや強い風が吹き荒れていたのか、フィレルが開け放った直後から強い風がかき分けたままのカーテンを翻しながら部屋の中に入り込んできた。
ラクローン一帯に吹く風にはむしろ肌寒さを感じさせるほどの冷気をまとっている。しかしこの日は強い日差しが差し込まれていたためか、それほど肌寒さを感じることはなく寧ろ穏やかな心地を与えるものであり、これまで眠り続けていたために久しぶりに外気に触れるエティエルにはこの上ない心地であった。
「・・・・・」
風を受けて靡くアクアマリンの髪を見ながらガイナーはふと昨日までの様子を振り返る。
同時にガイナーの中に大きな負の感情に近いものが沸々と湧き上がってくることを自らの中に薄々ながら感じ取れてもいた。
そんな想いに耽っているも、気づいた時には当事者たるエティエルが不思議そうな面持ちでガイナーを見ていたが、目が会った瞬間に穏やかな微笑みを浮かべていた。
「…っ!?」
先ほどまで彼女のことを考えていただけに妙に意識してしまうのか、その笑みを見てどこか気恥かしさが残ってしまっているのか、どうにもエティエルを直視できずにあわてて視線をそらしてしまう。だが、その先にあるものを見てガイナーの表情は怪訝なものへと変わっていった。
「フィレル…?」
「はぁ…」
これまで軽口を飛ばしながら振舞っていたフィレルであったが、どこか思いつめたかのように自ら開けた窓からの景色を眺めながら大きな溜息を吐いていた様子が目に留まる。
「フィレル。」
「え…!?
何よ、何かあった!?」
ガイナーに呼びかけられたことで不意に我に返ったかのように背筋を伸ばす。
「何かあった…ってフィレルこそ、何かあったのか…?」
「何よ…?」
「さっきから妙に溜息が多いというか…」
「悪かったわね。
私にだって悩むことくらいあるわよ…」
相変わらずの軽口で返されるも、フィレルの態度があからさまに違っているのはガイナーには気がかりでもあった。
「・・・・・」
どうにも打ち出しにくいものがあるのだということはガイナーにも理解できる。
とはいえガイナーとしてもフィレルが内に何を抱えているのか知っておきたいという探究心は少なからず存在する。
だが敢えてガイナーは深く追求しなかった。
知ったことによって何かが大きく変化してしまうのではないかという懸念の方が大きく芽生えていたということもある。
「ハァ…」
露骨な溜息を吐くも、それを続けることで何ら変化があるわけではないということはフィレル自身承知しているものである。だからこそフィレルとしてもガイナーに向けて切り出すべき言葉を模索していた。
「ねぇ、ガイナー…」
「…どうしたんだ?」
「サーノイドって何なの…?」
「サーノイド…」
それはラクローンに住まうもの、或いはライティン全てが思うことでもある。
そしてそれを完璧に回答出来る者はここにはいないことでもあった。
なぜそのような質問をしてくるのかはわからぬままではあった。だがガイナーには一つはっきりとしているものが存在していた。そしてそれだけに打ち出された答えも明確なものであった。
「…敵だよ。」
「…敵?」
「そうだろう!!
マール、クリーヤ、そしてラクローン。あいつらのやっていることはただ単にライティンを殺しに来ている。無抵抗な人であってもだ。」
「ガイナー…」
先程までの思い耽っていたことも相まってか、ここにきてガイナーの中で静かに燻っていた怒りという感情が火山のマグマのごとく沸いて噴き上がろうとしていた。
「俺は…あいつらを許さない。出来るなら俺があいつらのいる場所に乗り込んで行ってやりたいくらいだ!!」
「ちょ、ちょっと、落ち着きなさいよ。あんたがそこまで熱くならなくても…」
「あいつらが何をしようとしているのかはわからないし、わかりたいとも思わない!!
…ともかく、あいつらは俺たちの敵であって、絶対に許される存在じゃないということさ。」
ガイナーの手に力が入っているのをフィレルは見ることができる。それ以上にもはや怨恨に近い感情を生み出しているガイナーの瞳にフィレルはこの時畏怖を覚えたかもしれない。
それだけガイナーの目にはサーノイドに対する怒りに満ち溢れていた。
さらにここにきて追い討ちをかけるかのようにこのタイミングでやってきた訪問者にフィレルは表情を強ばらせてしまう。
重苦しい雰囲気の中、重厚な扉をノックする音が部屋に響き渡りそのままゆっくりと音を立てて扉が開かれた。
「随分と騒々しいな。廊下まで聞こえているぞ。」
「…っ!?」
昨夜のことを立ち聞きしてしまう形であったとはいえ、フィレルとしては先程までのガイナーとの会話がライサークの耳に入ってしまったことにどこかに後ろめたさが残る心境だった。
「…ライサーク。」
「エティエルの具合はどうだ?」
聞き覚えのある来訪者の声を耳にしたガイナーは、声のする方に顔を向ける。
「…見ての通り元気になってるわよ。」
その名を耳にしたフィレルはこれまでの表情を一変させてしまうも、慌てて表情を繕いなおそうとする。
そう言いながらエティエルの肩に手を添えてライサークに顔を向ける。
「あのな…フィレルが言うことじゃないだろ…」
「な、何よ、事実じゃない。ねぇエティエル?」
「・・・・・」
そう言いながら同意を求めるかのようにエティエルの表情を伺う。またしても突飛な行動にエティエルは目を丸くするも、ライサークに向かって大きく頷いてみせた。
「ほ、ほらね。」
「…そうか。だが今はもう少し安静にしておくほうがいいな。」
ライサークの言葉にやや戸惑いを見せてはいたものの、再びライサークに向けて大きく頷く。
しばらくの間部屋にどこか重い空気が立ち込める。そう思えていたのは他ならぬフィレルであろう。
二人の様子を垣間見てライサークはどこか納得したかのような面持ちだったことがかえってフィレルには重く感じられた。
「ライサークはどう思う…?」
「どう思うとは?」
「奴ら…サーノイドのことだよ。」
「ちょっとガイナー…」
「何だよ。聞いてきたのはフィレルじゃないか…!!」
「そうだけど…」
ここにきてフィレルは自らの問いかけを省みる。
あの晩二人の会話を耳にしてから自らに納得しうる答えが見つけられずにいた。
それだけにライサークの回答が聞くのが怖いと感じてしまっている。
「…忌まわしい存在だ。この国においてはな。」
「ライサーク…」
「忌まわしい…そうだな。あいつらはライティンたちにとっては相容れないものなんだ。」
「なぁフィレル。」
「え?何?」
「さっきからどうしたんだよ?少し前から妙にそわそわしてるというか…」
「!?
べ、別に何もないわよ…!!!」
フィレルは否定する返答をするが、その時点であからさまに様子がおかしいことをガイナーに知らせているようなものである。それが自覚出来るだけにより一層空回りしていってしまい、繕うことができぬまま、どんどん綻びを増やしていってしまっている。
事実、二人の答えにフィレル自身胸が締め付けられるような感情がある。
ガイナーにしてみればライティンを無差別に襲う存在を許し得ないものがあるだろう。
ライサークは自らの出生を知りながら忌まわしいものと言う。
いずれも両者にそう言わしめてしまった原因が自分にあることにどこまでももどかしい思いが強くなる。
何よりもガイナーがライサークのことを知ってしまった時、ガイナーはどう思うのだろうか?
最悪の場合、ガイナーの手にする剣がライサークに向けられるのではないだろうか。そう思えてしまうことに不安を覚えるだけにガイナーには言い出すことが出来ずにいた。
それを知ることによってガイナーの中に大きな変化が生じることになるのだが、この時点ではその事象は回避できた。