プロローグ
「来週、長距離配達入ったから、準備しといてね」
彼女は唐突にそう言った。
「長距離配達、ですか?」
なんだか陸上競技みたいだなあ、と彼が思っていたところ、
「うん。泊りがけだからいろいろ準備要るでしょ?」
……なんだかとんでもないことだと、気付いてしまった。
ペペロン市に本店を置くミカロイド配達屋。その事務所の2階は男性配達員の寮でもある。女性配達員もいないわけではないが、少ないので女子寮はない。ちなみに人間、獣、プラス『命あるもの』の融合体である彼の仕事上のパートナーも女性である。
一通り荷物をまとめ終わり、一服しようとインスタントコーヒーの瓶に手を伸ばすと、もう残り粕しかなかった。今日は時間もあるので買いに出ようと部屋を出ると、向かいの扉もちょうど開いた。
「お! ジン、今暇か?」
そうひょうきんな声で挨拶してきたのは、なかなか端正な顔立ちの、それでいて金髪もよく似合う、同僚のアレンだ。
「あー、暇といえば暇ですけど」
コーヒーは別に急がない。これからの午後は予定も入っていない。
「ちょうどよかった。なあ今俺大掃除してんだけどさ、家具動かすの手伝ってくんね?」
それはまた季節はずれの大掃除だ。
何かあるのだろか。
それをジンが口にすると
「それを聞くのは野暮ってもんだぜ」
とウインクを返された。しばらくジンにはなんのことか分からなかったが、少し経ってから思いついて赤くなる。
彼の記憶によると、この顔も良く、気さくな青年はかなりのプレイボーイであった。おそらく新しい彼女を招き入れるのだろう。
と、それは置いておいて二つ返事で承諾すると、彼は人なつこい笑顔(これもまた1つの武器なのだろう)でジンを部屋に入れた。
部屋の中は随分片付いており、残すは本当に家具の移動だけといったところだった。もう場所も考えていたのか、てきぱきと彼は指示を出し、最後のベッドを動かすに至るまで、それほど時間を要さなかった。
「じゃこれが最後な、せーのっ」
という掛け声でベッドを持ち上げてずらした途端、なにかが崩れるような、ちょっとした音がした。
「あ、いけね。忘れてた」
そうアレンは呟いたが、ベッドの死角になっていたせいもありジンも気には留めず、指示された場所へ運んだ。
そして無事着地させたあと、
「ふー、ご苦労さん。なんかお礼しないとなー」
とアレンは上を向いて言った。
「いえ、いいですよ。そんな大した働きしてないし」
これは本当のことだ。だがふと思いついたように、彼の顔がにやりと笑みを浮かべる。
なにか良くないことを考えているときの顔だ。
というのもジンは常々言われているのだ。
『あいつは根っからの遊び好きよ! ジン、あんまり深く関わって変な影響受けないでね』
と。
「そこにある本、気に入ったやつ持っていっていいぜ。あ、いやもう全部持っていっていいや」
そう言ってアレンが指差したのは、さきほどベッドがあった場所にある、半分崩れかかっている雑誌の一山。
その表紙を見て、ジンは思わず鼻を押さえた。
「ちょっ! いりませんよあんな本!! あ、あれ、グラビア雑誌とかいうやつでしょ!?」
そういうものに全く耐性のない彼は、表紙を見ただけでも気を抜くと鼻血が出そうになる。
そんな彼の様子を見て
「はは! 青いなージンは。興味ないかー? ああいうのは。ああ、お前にはアルディアスがいるもんなー」
楽しそうに笑うアレン。
「っな! 違っ! キセキさんとはそんなんじゃ!」
その真っ赤な反応がさらにアレンを楽しませていることにジンは気付かない。
「ははは! お前、なんかかわいすぎるぞ。男はもっと強気でいかにゃあ、いかんぜよ」
語尾はふざけてみたものの、その内容に関しては、アレンは少し本気だった。決して長い付き合いとはいえない間柄だが、今までのジンを見てきた感想としては、『ちょっとこいつは鈍すぎるのではないか』とアレンは危惧しているのだ。
いや、これはごく自然に、良心から思ったことなのだ。
それほどまでにジンはまだ、世界のほとんどを知らない少年のようだった。
(いや、最近はこれでもましになったほうだろうけどな)
最初この寮に来た時なんて、水道の蛇口のひねり方さえ分からず聞いてきたくらいなのだから。
と、その話は置いておいて、実のところジンの身長はアレンより高い。見た目も、本人は自覚していないだろうが、結構モテると自負しているアレンと匹敵、もしくはそれ以上の、少しタイプが違うが美青年の部類なのだ。
(今までちやほやされたことがないわけではなかろうに)
アレンはそう不思議に思っているが、それははずれだ。
確かに極度の恥ずかしがり屋なジンの性格も問題ではあるが、彼が世間知らずなのは『青年』と呼べる姿になるまでずっと1人、研究室に隔離されていて、人(特に女性はもってのほか)とはほとんど関わりを持ってこなかったからなのだ。
その理由を知っているのは、ミカロイド配達屋の社長と、彼のパートナーしかいないだろう。
(世の女共がこいつを放っておくとは思えんがなあ)
そんな込み入った事情を知らない、案外お人よしのアレンは、まったく世間知らずな彼に、アドバイスを贈ろうと決心した。
「なあジン。お前、来週アルディアスと長距離配達に出るんだよな?」
「え? はい。ミキシカン海岸あたりまで。結構遠いですよね」
「ミキシカン!? それってこの大陸の1番西じゃあねえか! そりゃあ大分かかるんじゃねえか?」
アレンは本気で驚いていた。無茶な依頼主もいるものだ、と。
そんな遠距離を、ただでさえ運びづらい『命あるもの』を運ばせるというのだから。
「うーん、そうですねえ。とばしても3日はかかって、往復で1週間くらいって、キセキさんが」
その名前が出てきたとき、ここぞとばかりにアレンはきりだした。
「ジン。お前、チャンスだとは思わないか?」
妙に神妙な面持ちでアレンは囁く。
「え? なんのですか?」
彼は無邪気な顔で返してくる。アレンは溜め息をついてから、
「がくーーーっ、とくるぞ! お前は本当に男なのか!!?」
半ば本音を叫んでみる。すると
「え? 女じゃないですよ?」
ジンは当惑した顔で真面目に答えるからたまったものではない。
「あーもー違うって! お前は正真正銘男だってば!つーかもし女でその美貌なら俺は迷わずお前を押し倒す! って違ーーう!! 俺が言いたいのはそういうんじゃなくてだな! つーかお前鈍すぎっっっ!!」
アレンが調子を壊されるほど、ジンのぼけっぷりはひどかった。が、アレンの狙い通り、ジンはしゅんとなった。
「……やっぱり僕って鈍いですか?」
しょげた子犬のように尋ねてくる。
「え、あー、うん」
ちょっとかわいそうな気がしたが、アレンは実直なところを示してみた。
「キセキさんにもよく言われるんです……はあ……」
そういえば、ジンがアレンの前で溜め息をつくのは決まって、かのキセキ・アルディアス関係の話題のときだ。
ふふん、と急に得意げになったアレンはその午後、一種の教師、もしくはアドバイザーと化したのであった。