第29話 理想郷の影
朝の空気は、変わらず澄んでいた。
畑に立つ者。
水路を直す者。
焚き火の火を整える者。
一見すれば、
何も変わらない。
だが、
人の視線だけが、
少しずつ変わっていた。
「……あの人が、
ここを作ったんだろ?」
囁く声。
「数字を否定した人」
「王国を揺らした存在」
その言葉は、
悪意ではない。
むしろ、
尊敬に近い。
それが、
一番厄介だった。
最近、
空白地に来る者たちは、
迷っていなかった。
疲れてもいない。
追い詰められてもいない。
代わりに、
答えを探している目をしている。
「ここなら、
正しいんですよね」
「加護を信じないって、
正解ですよね」
「数字に従わなくていい場所なんですよね」
そう聞かれるたび、
胸の奥に、
小さな軋みが生まれる。
「……違う」
否定しても、
完全には伝わらない。
人は、
“正しさ”を
持ち歩きたがる。
昼前、
小さな騒ぎが起きた。
見回り役が、
やや強い声で呼ぶ。
「……来てくれ」
丘の向こう。
十数人が、
集まっていた。
皆、
同じ色の布を腕に巻いている。
王国のものでも、
教会のものでもない。
「反・加護派だ」
誰かが、
低く言った。
彼らは、
こちらを見る目に
一切の怯えを含んでいなかった。
むしろ――
確信。
「ここは、
正しい場所だ」
中央に立つ男が、
はっきりと言った。
「数字に縛られた世界は、
間違っている」
「だから、
数字を信じる者も、
間違っている」
その言葉に、
周囲がざわつく。
「……それは」
誰かが反論しかけるが、
男は続けた。
「加護を持つ者は、
支配の象徴だ」
「排除されるべきだ」
その瞬間、
空気が冷えた。
俺は、
一歩前に出る。
「……ここは、
排除する場所じゃない」
男の視線が、
俺に向く。
「あなたが、
通りすがりの人か」
その言い方には、
奇妙な敬意が混じっていた。
「あなたが示しただろう」
「加護は、
嘘だと」
俺は、
首を横に振る。
「示していない」
「選ばなかっただけだ」
男は、
眉をひそめる。
「違う」
「あなたがいるから、
世界は揺れた」
「あなたが、
正しさを証明した」
その言葉を聞いたとき、
はっきりと分かった。
――これは、
王国より危険だ。
「……勘違いだ」
俺は、
静かに言う。
「ここは、
答えを出す場所じゃない」
「正しさを掲げるなら、
去れ」
男の顔が、
歪んだ。
「……なぜだ」
「ここは、
解放の地だろう」
「数字を否定する者が、
集う場所だろう」
俺は、
はっきりと言った。
「否定する場所じゃない」
「選ばせる場所だ」
沈黙。
男の背後で、
数人が不安そうに視線を交わす。
だが、
男は退かなかった。
「……なら、
あなたは敵だ」
その言葉に、
誰かが息を呑んだ。
俺は、
一切動じない。
「そう思うなら、
そうすればいい」
「だが」
一歩、
さらに前に出る。
「ここでは、
他人を裁くな」
「それが守れないなら、
ここにいる資格はない」
男は、
しばらく俺を睨み――
やがて、
踵を返した。
「……行くぞ」
全員が、
従ったわけではない。
二人は、
その場に残った。
迷いの顔だ。
俺は、
彼らを見た。
「……選べ」
「従うな」
「ここに残るなら、
自分で考えろ」
二人は、
しばらく立ち尽くし――
やがて、
焚き火の方へ戻ってきた。
誰も、
歓迎しなかった。
だが、
拒みもしなかった。
夕方。
焚き火のそばで、
ユグが言った。
「……これ、
増えますよね」
「正しさを求める人」
「増える」
俺は、
即答した。
「だから――」
炎を見る。
「線を引く」
「支配しないために」
「象徴にならないために」
「……厳しくなりますね」
ユグの言葉に、
俺は小さく笑った。
「優しさを、
使い切っただけだ」
夜。
空は、
変わらず広い。
だが、
この場所はもう
放っておいていい場所ではない。
理想郷は、
必ず歪む。
歪ませないためには、
拒む覚悟が要る。
「……通りすがりでいるには、
少しだけ、
責任を負いすぎたな」
そう呟き、
焚き火を見つめる。
次は、
何を許さないかを
言葉にする番だ。
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