私の心は
この日、アグリは昼食も自室で食べ、夜まで一人で考え続けた。
夕方になるとグランド一家が揃って訪ねて来た。
「王子が届いたぞ。……心は決まったか」
アグリは皆の顔を見回して微笑んだ。
「だいたいは。後は、いくつかトウル殿下に確認してから決定したいと思います。……私達二人……とケント様だけでお話しさせて貰えますか?」
「ああ、わかった。ではこちらに夕食の支度をさせよう。三人で食べながら話すといい」
「ありがとうございます」
アグリの客室に三人分の食事が並べられ、最後にトウルとケントが自分たちを案内する魔族の者にびくびくしながら部屋へ入ってくる。
トウルは、部屋で待っていたアグリを見つけて目を見張った。
彼女がここにいることは初めからわかっていた筈なのでそれについてではない。どうやら華やかに整えられたアグリの姿を見て驚いたようだ。けれどすぐに目を逸らす。
アグリはそんな彼らに黙って近づくと、二人共の怪我を一気に治癒魔法で治療した。
「さあ、これでいいでしょう。どうぞお座りになって下さい。ふふ、思えば殿下とお食事を共にするなど初めてですね」
先に腰かけ、パンを手に取る。
「お腹が空かれているでしょう。冷めない内に召し上がって下さい。ご存じでした? こうやってパンをちぎってこれを塗って口に入れるととても風味があっておいしいのです! 魔界式食べ方です!」
「パンにバターはこちらでも普通だ。……殿下、せっかくなんで頂きましょう」
護衛騎士ケントはそう言って、自分も椅子に座って食べ始める。かなりがつがつしているので、魔界に来てから何も食べていなかったのかもしれない。
ケントに遅れてトウルも椅子に崩れるようにして座ると、グラスに入った水を手に取りごくごくと飲み干す。それを見たケントが自分の食事の手を止めないまま片手で水差しからお代わりを注いでやっている。
「まずは……私を迎えに来て下さったことに感謝致します。私の追放を、殿下はご存じなかったのですね」
「当たり前だ」
水を二杯飲み干し、スープを何口か飲んだところで気持ちが落ち着いたのだろう。トウルは黒い前髪の間から覗く紫色の目をアグリへ向けた。
「そういう訳だからこの食事が終わったらすぐに国へ帰るぞ。まずは父上と兄上たちを退けて私が王となり、その後世界征服だ」
(本気でおっしゃっているのかしら?)
アグリはトウルの隣のケントに目をやる。ケントは誰とも目を合わせずに食を進めている。
「あのう、殿下。その前にいくつか確認したいことがあるのですが」
「……何だ」
トウルが手を止める。アグリは、フウ、と息をついてから。
「殿下はこれまで何をご存じで、何をご存じなかったのですか? 例えば……私が聖女として慣例ではない扱いを受けていた事実は?」
「……お前を城の聖女宮で暮らさせなかった話か?」
(まあ。そんな場所があったのですね)
「それともあれか。お前に使うべき聖女予算のほとんどを王族と教会で振り分けていたことか」
(全く知りませんでした)
アグリはトウルを見る。
「殿下は、私に対するそれらの扱いをご存じで放置されていた、ということでよろしいのですね?」
「ああ、わかった。国に帰って私が王になればお前は王妃だ。これまで与えなかった分、存分に贅沢をさせてやる。それでいいだろう」
「殿下、違うのです」
ここで初めてアグリもカトラリーから手を離した。
「膨大な仕事量も少ない食事も休養も華やかでない服装も私はあまり気にしていなかったのです。ただ……この度この地へ捨てられて、初めて。私と言う者が、少し邪魔になったら犬猫のように捨てられてしまう存在なのだと……せめて謀反に手を貸さないよう説得したり、取引をしたりというそれくらいの手間も惜しまれるほどに同じ人間として扱われていなかったのだという事実に気付いてしまい、とてもとても悲しかったのです」
殿下、と言葉を繋げる。
「そして今も。殿下にとって私は強大な武器でしかありませんよね? 贅沢は武器を動かす為の燃料ですか? 15の数値を見下されるのも、1015の数値を恐れられるのも同じことです。私にも心というものがあるのですよ殿下。これをしたら私がどのように感じるのか、一瞬でも考えて欲しかった。嘘でもいい、形だけでもよいから私の心を伺う一言があれば考えていたかも知れません。いえ、もしかしたら先日までの私ならそれでもいいと思ったかもしれない。でも私はここの方々に出会ってもう知ってしまったのです。こんな私にも何かを感じる権利があり、それに寄り添ってもらうというのはどれほど温かなものなのかと」
一気に吐き出した。
自分にとって切実な気持ちをこんなにもたくさん口にしたのは初めてかもしれない。
トウルの手がナイフを握り締めた。
「……私がお前を愛しているとでも言えばよかったのか?」
「いいえ。要りません。そのようなお言葉は、あちらにいる頃にわざわざ私の所まで来て『将来私がトウル殿下の側室という名の真実の妻になるからよろしくね』と宣言しに来た何人かの貴族令嬢たちにおっしゃって下さい」
トウルは口を閉ざし顔を顰める。
アグリは立ち上がり、頭を下げた。
「トウル殿下。これまで、ほとんどお会いしたこともありませんでしたが、長い期間婚約者でいて下さってありがとうございました。ここで関係は解消しましょう。魔界ではこちらの皆さんにとてもよくしてもらっているんです。私はそちらへは戻りません。……殿下が迎えに来たと知った時には、驚きの方が大きかったですが少し嬉しかったです。それでは」
言い残して部屋を出た。
扉の向こうにはグランド一家が張り付いていた。見つけて、まあ、とアグリは驚く。
「私たちが思っていたよりずっと、アグリさんがきちんと自分の言葉を伝えられる人で驚いたわ」
テレサが微笑み、アグリの体を抱き締めた。
「勇気を出して疲れたでしょう? 食堂にデザートを用意してもらって、皆で食べましょう。おいしい物は気持ちを潤してくれますからね」
「……はい!」
(温かい)
テレサの温もりに不思議と涙が出そうになった。
だがそこはぐっと堪え、頑張って作った笑顔を皆には見せておいた。
皆と一緒に初めてのスイーツを食べ、アグリは心をぽわぽわさせる。その後ヴィンスに誘われて、一緒に城内を移動していた。
彼女たちがやって来たのは城の屋上だった。
アグリは頭上に広がる夜空を見上げて思わず声を上げる。
「まあ……! 赤い月と青い月と黄色い月がなんて綺麗……!」
見たこともない光景に胸を打たれる。
その横顔に、ヴィンスは頬を赤らめていた。
「……アグリさん。実は私は、貴女に言わなければならないことがある」
「はい。何でしょう?」
真っすぐに見上げられて、ヴィンスが何故か目を逸らす。
「その……実は私は、以前に貴女と会っている。そちらの国でな」
「え……」
驚いた。アグリにはまるで覚えがなかった。
(この方を見かけて忘れてしまうなんてないと思うのだけど……)
首を傾げるアグリにヴィンスは説明をしてくれる。
「一年ほど前か。私は視察の為に人に化けてそちらの国に紛れていた。だが滞在していた町がひどい嵐に見舞われたんだ。二日経っても嵐は収まらず、このままでは目的も果たせないので帰ろうかと外を覗いた時に……一人の騎士と共に、貴女が転移魔法で町中に現れた」
ふむふむと記憶を辿る。
「一年前の嵐、ですか。となるとセイランかシュスかもしれませんね」
「セイラン、だっと思う。騎士はすぐに自分だけ転移でどこかへ姿を消し、貴女だけが嵐の中で取り残された。……正直、私は、またこの国が一人の娘を生贄に捧げて嵐を鎮めようとしているのかと誤解した。だが、そんな私が貴女を助けるかどうするか考えている内に、貴女は一人、堂々とした様子で天を仰いだ。そして両手を空に突き出すと、嵐の力をその体にみるみる吸収していったんだ」
「ああ、はい、覚えてます! なかなかしぶとい嵐でかつてなく苦労したんですよね」
認識が一致した。嬉しくて手を叩く。
「雨風に打たれ、一人雄々しく嵐に立ち向かう貴女のその姿は、とても……とても美しかった。いや見た目も美しかったが、その、たった一人で誰かを守ろうとする心根と勇気に私は、心を奪われた」
「……はい?」
真っ赤になったヴィンスがアグリを見下ろした。
「あれだけの力を持った人間はきっと国でも大事にされているのだろうと思った。だから貴女に深入りするのは止めた、あの場だけの夢を見たのだと、忘れようと思っていたんだ。……なのに貴女は今こうして私の前に現れた」
アグリはヴィンスの瞳をじいっと見つめ、あ、と声を上げる。
「あの時! 任務後に倒れた私を建物に入れて休ませてくれた人ですか⁉」
「! 覚えていてくれたのか」
「もちろんです、すぐに私を連れ帰ろうとした騎士様を止めて、一時間の休養を作ってくれましたよね。すごく助かりました! 今更ですがお礼を言わせて下さい」
身を乗り出して来るアグリに一瞬体を引こうとしたヴィンスはそこで思い止まる。
そして、アグリの両手を自分の両手で握りしめた。
「アグリさん。あの日から私の中には貴女の面影がずっと残っていたのだ。貴女をあんな国には帰したくない、貴女のことは私が全力で守ろう、父上がトキ様にそうしたように。だからどうかこちらに残って私の妻となってくれないか!」
アグリは思わずぽかんとした。
この美しい顔から出てくる言葉が、自分の理解を越え過ぎている。
「ちなみに私の妻にならずともこちらに残ることは大歓迎だ、貴女の心の負担にはなりたくないのでな」
ああそうか、とアグリは城での出会いの場面を思い出していた。
(最初にお会いした時のあの反応は……この方があの時以前に私を知っていて下さったからなのね)
アグリの意識は知らなかった過去の出会いと魔界での出会いを振り返って、今に戻ってくる。
三つの月とたくさんの星々に照らされたヴィンスの姿は名画のように美しかった。
その美貌に見惚れてしまう自分の心を押さえながらアグリは口を開く。
「ヴィンス様。私は人間で貴方は魔族。私は魔族よりずっと早くに老衰してしまうのですよ?」
「構わない!」
被せるように言ってヴィンスは首を振った。
「例えわずかな時間であっても、貴女と共に生きたという記憶さえあれば私はその先の長い年月を歩いていける!」
アグリは言葉を失った。
何がどう彼の心にはまってしまったかはわからないが、まさか自分がこれほどまでに熱烈に誰かから求められることがあろうとは思ってもみなかった。
(……そうね。グランド様とテレサ様のこともあるのだし。私が死んだ後のことはあまり考えなくてもいいのかもしれないわ)
おそらくヴィンスの訴えとは違う納得の仕方をして、アグリは話を飲み込んだ。
(どうしたらいいのかしら?)
返答に迷う。
聖女認定された時から婚約者がいたアグリには、結婚することへの抵抗はない。
けれどそうであるだけに、結婚そのものの意味や、相手の選び方などは考えたこともなかった。
(でもきっと、これだけ望んでもらえるのは私にとって奇跡に近いことだわ。だったら、お受けしてもいいのかしら?)
考えて、納得する。
アグリは思い切って答えを告げた。
「では、こうしましょう! 一年ごとに更新制度を伴う婚約関係を結ぶというのはどうでしょう」
「……え?」
「お互いのことをよく知って、なんだか違うなとどちらかが思ったら婚約は解消できるのです。それなら一応重荷が少なくてよくありません?」
ヴィンスはひどく慌てた。
「待て。待て待て待って下さい。一年ごと? その場合婚約期間はどれくらい考えてるんだ?」
「そうですね、人間と魔族がお互いを知り合うのに必要な時間? 5、6年というところでしょうか」
「貴女と生きる貴重な時間をそんなには減らせない!」
アグリの手を取ったヴィンスは自分の方へと引き付けた。
「父上とトキ様は互いに一目惚れだった」
「それは特殊な例です」
「他に前例がないのだから、これが絶対唯一のやり方でいいではないか」
「無理を言わないで下さい、そもそも私たちの場合は、」
「私は貴女の心の形に一目惚れだった。……貴女は? 私の見目をどう思うのだ?」
もはやほとんど抱き込まれるような形になったアグリは真っ赤になって一生懸命顔を逸らす。
(しまった! この方、自分の容姿にとても自信があるのだわ!)
ぐいぐいと顔を近づけられてとりあえず答える。
「……お顔は、大変素敵です」
「では中身が気に入らないか」
「とても真面目で、私の……好みに合っていると思います」
(知らなかった。私は真面目な方がよかったのね)
道理で遊び人の婚約者にまるでときめきがなかった筈だと今更ながらに思う。
そんなアグリの耳元にヴィンスの唇が近づく。
「それでは……改めて、私と婚約して貰えるだろうか、アグリさん」
「い……嫌ではありません」
「婚約期間は二年で」
「二年⁉」
「おや一年がよかったか」
「二年でよろしくお願いします。……更新制度も忘れないで下さいね」
「貴女の心を繋ぎ止める為ならどんな努力も厭わない」
ヴィンスがアグリの髪に顔をうずめるような形でぎゅうっと彼女を抱き締める。
アグリはされるがままでいた。
(テレサ様に抱き締められた時も温かい気持ちになったけど、ヴィンス様だどうしてこんなに胸がどきどきするのかしら。この感じは魔獣と戦って全力疾走した後と似てるけどちょっと違うわ……)
生まれて初めて知る甘い動悸に困惑したアグリは、その夜はなかなか寝付くことができなかった。




