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 年末の空気というのは、どこか人をそわそわさせる。

 冬休みに入った小学生たちのはしゃぎ声や、元旦に向けて買い出しに走る家族の慌ただしい足音が響き、年の瀬の気配が肌にじんわりと伝わってくる。もちろん、それは僕の家族も例外ではなく、みんなそれぞれに忙しくしている。


 一方の僕はというと、勉強の楽しさが最高潮に達していて、立花さん――もとい結衣さんの鬼スパルタカリキュラムを、毎日ひたすらこなしている。

 前までは「手伝え」とうるさかった家族も、今は「勉強に集中しなさい」と言ってくれて、むしろ僕のやりたいことを可能な限りやらせてくれている。


 朝早く起き、机に向かって数時間。カリキュラムを終えた僕は、結衣さんから譲ってもらった過去問を、椅子にもたれながらぼんやりと眺めていた。

 ひと月前の僕だったらさっぱりわからず、手をつけることもできなかっただろう。けれど今は、解ける問題が少しずつ出てきて、過去問を解くのも楽しくなってきている。


 そんなときだった。

 家中に響く固定電話の着信音が鳴り響いた。一階、二階、三階に設置された電話のスピーカーが、同時にピリリと震える。

 僕は反射的に立ち上がり、胸を小さく弾ませながら受話器を取る。すると、案の定、電話の向こうからは結衣さんの声が聞こえてきた。自然と口元が緩んでしまう。


「佐倉結城くんのお家の電話番号で、お間違いないですか?」


 ここで、ふとイタズラ心が芽生えた僕は、自分の鼻を摘まんで、似ても似つかない留守番電話のモノマネを披露してみる。


 ……すると、電話の向こうでクスッと笑い声が漏れた。

 けれど次の瞬間、「似てない」と一刀両断されてしまう。


「ふふ、こんなにも似てないことあるんだね。おはよう、結城くん」


 さっきから結衣さんのことを僕は「結衣さん」と呼び、彼女は僕のことを「結城くん」と呼んでいる。

 なぜ名字ではなく下の名前で呼び合っているのかというと、少し前に腹を割って話せるようになったのをきっかけに、「名前で呼び合うべきだよね」という流れになり、強制的にそう決まった。


 最初はつい癖で「立花さん」「佐倉くん」と呼んでしまいがちだったため、罰ゲームとして「間違えたら10秒間手を握る」というルールまで作った。

 結果、お互いが「一生離せない」みたいな事態になって、罰ゲームどころじゃなくなり……。それならもう自然に名前で呼ぼう、ということで、今では完全に定着している。


「結城くん。最近、話せてなかったけど、寂しくなかった? 私は辛かったよ」


 そんなことを結衣さんから聞くなんて、ストッパーが外れたからだろうか。

 最近は、どこか僕のほうが達観しているような瞬間が増えた気がする。


 ……まあ、悪い気はしないし、むしろ嬉しいけど。


 僕らがいままでしてきたことといえば、罰ゲームで手を繋いだくらい。

 それ以上のことは、なにもしていない。いや、でも――付き合ってないなら、それが普通なのかもしれない。


 それ以上のことをしたいと思ったこともあったけど、求めてはいけない。

 ただ隣にいてくれるだけで、いまは十分幸せなんだから。


「僕は僕で、毎日勉強して、やっと過去問の解ける部分ができてきた。嬉しいよ。結衣さんと話せないのも、一緒にいられないのも寂しいけど」


「ふふ、おまじないの効果かな?」


 ――おまじない。

 結衣さんの言うそれは、何か特別な儀式ではなく、ただ「頑張れ、頑張れ」と言ってくれたあの日から、ずっと僕の背中を押し続けてくれた言葉。


 効果はあった。間違いなく。

 それに今でも思い出すけど、あのときほど「耳が妊娠した」なんて言葉を信じかけた瞬間はないと思う。


「そういえば、結城くんって元旦の予定、あったりする?」


 元旦は、母さんとおばあちゃんが作ってくれる豪華なおせちを食べてからは、また勉強しようと考えていた。だから、特別な予定はない。


「特にないかな。それがどうかしたの?」


 少しの沈黙が流れてから、結衣さんは照れたように言った。


「……一緒に、初詣に行きたくて」


 もちろん、結衣さんとなら、どこへでも行きたい。

 僕は二つ返事で了承した。元旦に誰かと予定を入れるなんて、人生で初めてのことだ。


 彼女は、何かを言いかけたようだったけど、それを途中で飲み込んでしまった。

 だから、僕もあえて聞かなかった。


 ――友達もいるの。


 その言葉だけが、ほんの少しだけ、胸に残った。


 あれから特にイチャイチャするようなことはなく、気づけば二時間近くも話し込んでしまった。

 ……さすがに長電話すぎたみたいで、ちょっぴり怒られてしまったのは内緒だ。


 *


 年が明けた朝。

 僕は、いつも通学で使っているバスよりもずっと早い時間のバスに乗って、待ち合わせ場所へと急いで向かった。


 まだ人通りもまばらな街並みの中で、誰よりも先に着いてやろうと胸を躍らせながら角を曲がると、そこにはすでに、見慣れない晴れ着に身を包んだ結衣さんの姿があった。


「もう来てたんだ。……驚かせようと思って、僕も早く来たつもりだったんだけどな」


「ふふ、晴れ着姿を早く結城くんに見せたくて、つい早く来ちゃった」


 結衣さんは、少し恥ずかしそうに袖口をきゅっと握りながら、微笑んだ。

 その笑顔と、色とりどりの晴れ着が冬の澄んだ空気の中でいっそう映えて、思わず僕は言葉をなくしかける。


「……綺麗だ。携帯があれば連写してたよ」


 見惚れながら、口から出たのはそんな一言だった。

 自分でも少しキザかな、と思ったけど、目の前の結衣さんは、それに対して今まででは考えられないくらい――うぶな反応を見せてくれた。

 その照れた表情すらも、たまらなく可愛い。


「結城くん! そんなナンパ野郎みたいなキザなセリフ言う前に、ちゃんと待ち合わせしてるんだから! 行くよ!」


 恥ずかしさが最高潮に達したのか、結衣さんは頬をぷくっと膨らませ、小さな地団駄をトストスと踏みながら歩き出してしまう。


「ごめん! 許してよ、結衣さん!」


 僕は僕で、可愛い地団駄を踏みつつ駅へ向かう彼女の後ろ姿を、必死に言い訳をしながら追いかけた。


 ⸻


 同じ電車の、同じ車両に並んで乗って数分。

 初詣だろうか。駅が近づくにつれて、晴れ着姿の人たちが徐々に増えていき、乗り込む頃には、ほとんどが晴れ着のカップルばかりになっていた。


 僕と結衣さんも、いつか――カップルに見間違えられる日が来るのだろうか。

 そんなことをぼんやり考えていると、ふと気になっていたことを思い出す。


「ねえ、結衣さん。一昨日の電話、切る前に何か言いかけてたよね。友達がどうとかって、聞こえた気がして」


 すると結衣さんは、少し間を置いてから、ふわりと笑った。


「うん。……結城くんと初詣も行きたかったし。でも、友達に“行こう”って誘われてて。いい機会だから、紹介したかったんだ。――私の、大切な人って」


 二人きりで初詣、行きたかった。けど――その最後の言葉は、あまりにも破壊力が強すぎた。

 “私の、大切な人”だなんて……。


 だめだ。顔が、熱い。

 冬の朝なのに、ちっとも冷める気配がない。



 ⸻


 電車を降りて、道が分からない僕を結衣さんが案内しながら歩いていく。

 そうして、彼女の友達と待ち合わせしている場所にたどり着くと、そこには――晴れ着こそ着ていなかったけれど、明らかに僕の世界にはいなかったような“大人の女性”が立っていた。


 結衣さんと関係が続いていなければ、一生出会うことはなかったかもしれない。

 そんなタイプの人だ。


「奈緒〜! 先に来てたなら連絡してくれたらよかったのに〜」


 弾んだ声で駆け寄る結衣さんに、その“大人の女性”――奈緒さんは、少しだけ目を細めて、肩をすくめた。


「邪魔しちゃ悪いと思ってね。好きな人なんでしょ?」


 その言葉に僕はびくりと肩を震わせる。

 別に会話に入れてもらえたわけでもないのに、奈緒さんの視線はまっすぐに僕へと向けられていた。

 つま先から髪のつむじまで――まるで値踏みするかのように、じっくりと。


「……時間はあるから、結衣。近くの喫茶店でお化粧直ししてきな。

 それと、私は――話し込まないといけないからね」


 その言葉には、どこか意味深な響きがあった。

 誰と? 何を? ……まさか僕?


 サイゼリヤの店内は思ったよりも静かで、他のテーブルの会話がまばらに聞こえてくる。その中で、僕と奈緒さんの間に流れる沈黙だけがやけに重く感じた。


 対面に座る奈緒さんは、さっきまでの見定めるような視線こそないものの、やはりどこか圧がある。まっすぐな目で、無言のままこちらを見つめてくるものだから、視線を合わせることすらできなかった。


 カトラリーをいじるふりをして手元を見ていると、奈緒さんがゆっくりと口を開いた。


「そんなに身構えなくていいよ。誰も取って食おうってわけじゃないんだ」


 奈緒さんはそう言って、軽く肩をすくめた。冗談めかしてはいたけれど、その言葉の端々には、気遣いと優しさが滲んでいる。


「……あの子がさ、“好きな人”、“大切な人”って言ってて。だったら会ってみたいなって思ったの。紹介してって言ったのは、実はあたしの方なんだ」


 そう言って、奈緒さんは柔らかく笑った。まるで昔から知っていたかのような、懐の深い笑顔だった。


「会えて嬉しいよ。……結衣に、ごちそうさまって伝えておいてね」


 まるで、美味しいものでも食べた後みたいに――どこか照れくさそうに、それでも満足げに微笑みながら、奈緒さんは立ち上がるとコートの裾を軽く整え、レジのほうへと向かっていった。


 席には僕一人が残り、先ほどの言葉の余韻だけがぽつんと残されていた。


 そうしているうちに、結衣さんが少しだけ華やかになった顔で戻ってきた。さっきよりも整った表情の中に、ほんのわずかだけ不安そうな色が見える。


「……奈緒、何か言ってた?」


「うん。『ごちそうさまって伝えておいて』ってさ」


 僕がそう言うと、結衣さんは一瞬きょとんとして、すぐにぷっと吹き出した。


「……なにそれ。もう、奈緒ってば……」


 でも、笑ったその表情は、どこかホッとしたようにも見えた。


 そのまま僕たちはサイゼリヤを後にし、賑わう参道を肩を並べて歩く。人混みの中で時折、袖と袖が触れるたびに、妙に胸が騒いだ。


 長い列に並んで、二人で無言のまま鈴を鳴らし、お賽銭を入れ、手を合わせる。


 何を願ったかなんて、言わなかったけれど――きっと、結衣さんも似たようなことを思っていたんじゃないかと思う。


 初詣が終わった帰り道、冷たい風が頬を撫でても、心は不思議と、あたたかかった。


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