8.彼の回想
「ごめんなさい……」
謝罪の言葉と共に、クララの瞳からぽろりと涙が溢れたその瞬間、食堂の空気がぴしりと凍りついたのを感じた。
誰も言葉は発していないけれども、皆が「おまえのせいだ」と思っていることが、ひしひしと伝わってくる。
とりわけマークとマリーなどは、氷のような視線を私に向けている。これについては、それだけのことをした自覚があるので、甘んじて受け入れるしかない。
「すまない、言い方が悪かった」
「いえ、こちらこそすみません。すぐに止めますので……」
クララの方へと一歩踏み出してみたものの、彼女はこちらへと両手を伸ばし、それ以上私が近づくのを拒絶した。
顔を背けて涙を隠そうとする彼女の姿に、あの時のことを思い出し、不甲斐なさが湧き上がる。
……ああ私は、クララの涙を拭える存在になりたかったというのに。
◇◇◇
クララに初めて出会ったのは、私が十一歳の時。
「婚約者候補が妹を連れて来るらしい。リアムも一緒に来るかい?」
兄にそう声を掛けられて、兄と婚約者候補の親睦会に付き添うことになった私の前に現れたのが、当時五歳になったばかりのクララだった。
姉であるグレースの影からこちらを窺うクララは、最初こそ私のことを警戒しているようだったが、ぽつりぽつりと言葉を交わしてくれるようになるのに、それほど時間は掛からなかった。
おそらく、「一つしか違わないが、可愛い可愛い私の弟だよ」という兄の言葉のおかげで、私のことを〝弟妹仲間〟だと認識してくれたのだろう。
その日から私達は、共に兄姉に付き添う形で、頻繁に顔を合わせるようになった。
「無理に付き合わなくてもいいんだぞ? クララが同席していても邪魔にはならないし、もしもの場合は他の者に任せることもできるんだから」
兄からはそう言われたが、私はできる限りその場に顔を出せるようやり繰りをした。
先に言っておくと、この時の私にクララへの恋愛感情はなかった。
十一歳の私にとって、六歳という年の差はあまりに大きく、彼女をそういう目で見るという考えすらなかった。
私を兄のように慕ってくれるクララのことを、私も実の妹のように思っていた。
兄とグレースの婚約が内定したのは、私とクララが「まるで本当の兄妹みたい」だと言われるようになった頃だった。
申し分ない身分に加えて、知性、教養、マナー、ダンスや刺繍の腕前まで、何をとっても他家の令嬢より頭一つ抜け出して優秀なグレースが、王太子の婚約者に決まったことに、異を唱える者は誰一人としていなかった。
もちろんこれらは、グレースが努力によって身につけてきたものだ。彼女の努力を否定するつもりはまるでない。
しかし、「努力さえすれば誰もがグレースのようになれるか」と問われると、首を横に振らざるを得ない。生まれ持った素質やセンス、そして要領の良さがなければ、こうはいかないだろう。
周囲の人間も、それはわかっているはずなのだ。
けれどもどうやら「優秀な子と同じ親から生まれた人間は、同じように優秀に違いない」と思ってしまうようで、クララは常にグレースと比べられていた。
「グレース様の妹なのに……」
「期待していたほどでは……」
クララがそのように評されるのを耳にするたび、胸が詰まる思いがした。
きっとその声は、クララの耳にも届いていたことだろう。
しかし彼女は、どんな時でも前向きだった。
姉を引き合いに出されるたびに、クララは「身近に優秀なお手本がいるなんて、私はとても運が良いのですね」と言って、屈託なく笑った。
「できるまでやれば、必ずできるのです」
そう言ってひたむきに努力するクララは、とても眩しかった。
「社交界デビューが決まりました!」
クララからそう報告を受けたのは、彼女が十四歳になった年のこと。
平均よりも少し早い社交界デビューに、私は思わず「早すぎないか?」と言ってしまったものの、自分に口出しをする権利がないことくらいわかっていた。
「私ももう十四なのですよ? いつまでも〝可愛い小さな妹〟ではないんです」
クララはそう言ってくすくすと笑ったが、彼女の隣に男が並び立っている様子は、上手く想像できなかった。
「当日は私もなるべく近くにいるようにする。不埒な振る舞いをする人間がいないとも限らないからな」
私の言葉を聞いたクララは「お兄様を通り越してお父様みたいですね」と、こちらを揶揄うような口振りで言った。
思い返すとその通りでしかないのだが、その言葉にはなぜかモヤモヤとした気持ちが湧き上がった。
それからしばらく、クララとは会えない日が続いた。
グレースによると、どうやら社交界デビューに向けたレッスンが、彼女の予定を埋め尽くしているという。
「あの子、ダンスに関しては特に苦手意識があるせいで、『今まで以上に厳しくしてください!』と頼みに行っておりましたわ。身体を壊さなければいいのだけれど……」
グレースからそう聞かされて、「無理をするな」と伝えようかと思った。
けれども、できるまでやろうとするクララに対して、私から言えることは何もなかった。
そして迎えたクララの社交界デビュー当日。
遠目からでもわかるほどにクララのダンスは上達しており、彼女の今日までの努力が透けて見えるようだった。
その甲斐もあってか、彼女に話し掛けようとする貴族の子息は後を絶たなかったが、その辺りはクロフォード侯爵やクララの兄が上手く誘導しているので、彼女に危害が及ぶ心配はなさそうだ。
……この様子なら、少しくらい席を外しても問題ないだろう。
そう思って一度会場を離れた私が、次にクララ見かけた時、彼女はなぜか一人で庭園にいた。
木陰で困ったように周囲を見回すクララは、どうやら反対側で話をしている男二人組に、気づかれないようにしているらしい。
そのまま様子を窺っていると、彼女は意を決したようにそろりと立ち上がり、そのまま足を一歩踏み出した。
しかし、どうしてだかすぐにまたその場に蹲るものだから、頭の中に疑問符が浮かぶ。
そうこうするうちに男達の方が会場へと戻ろうとするので、私は柱の影に身を隠す。
「あの伯爵令嬢はイマイチだな」
「おいおい、ここからは誰に聞かれるかわからないぞ」
「わかってるさ」
漏れ聞こえる会話から、二人がパーティーに参加している令嬢達を好き勝手に批評していることがわかった。
……自身が家の看板を背負っているという自覚に欠けるな。
そうは思ったものの、彼らがクララの存在に気づかなかったことに安堵した私は、静かに息を吐く。
クララにとって初めての社交界において、彼女の婚約者も決まっていない状況で、「クロフォード侯爵家の子女が他家の子息と夜の庭園で密会していた」などという噂を立てられるわけにはいかないのだから。
二人がいなくなったのだから、クララもまもなくこちらにやって来るはずだ。そうしたら兄である私が、彼女をパーティー会場までエスコートしよう。
きっと彼女は、「こんなところで会うなんて奇遇ですね!」というようなことを言うだろう。木陰でこそこそと身を隠していたところを見られていたとも知らずに。
「見えていたぞ」と伝えたら、クララはどんな顔をするだろうか。恥ずかしそうに「もっと早くに教えてください!」と頬を膨らますのだろうか。
……いや、もう頬は膨らまさないだろうな。出会ったばかりの頃から比べると、クララも随分と大人になったものだ。
そんなふうに昔を懐かしみつつ、もう一度庭園へと視線を向ける。私の存在に気づいたクララが、ぱっと瞳を輝かせながらこちらに向かってくる様子を思い浮かべながら。
けれども私の目に飛び込んできたのは、両手で顔を覆って立ち尽くす彼女の姿だった。
身体を縮こまらせ、肩を震わせる彼女が泣いているということは、遠目にも明らかだ。
もしも身体の具合が悪いのならば、誰かに助けを求めるだろう。木陰に蹲っていただけなのだから、怪我をしたわけでもないはずだ。
……ならば原因は、先ほどの二人組か。
奴等の会話の内容を鑑みるに、奴等がグレースやクララについて何かを言っていてもおかしくない。
そしておそらく、それはクララを傷つけるような内容だったのだろう。
一人で身を隠すように、はらはらと涙を流すクララを見て、私は今すぐにでも駆け寄って、彼女の頬を伝う涙を拭ってやりたいと思った。
しかし、私にそれをする権利はない。
クララにとって初めての社交界において、彼女の婚約者も決まっていない状況で、涙を流す彼女に寄り添う私の姿を見られでもしたら、何を言われるかわからない。
私が多少悪く言われるのは構わないにしても、そういう時に攻撃の対象になりやすいのは、男性側よりも女性側なのだ。私よりも彼女の方が身分が低い今回のような場合は、余計に。
いくら拳を握り締めようと、唇を噛み締めようと、その時の私にできたことは、彼女を遠くから見つめることだけ。
泣いている彼女を他の男が見つけてしまわないように、目を光らせることしかできない自分は、この上なく無力だった。
彼女に泣き止んでほしいと思いながらも、「他の男に彼女の涙を拭わせたくない」と思う自分が、酷く身勝手で情けなく感じられた。
そしてそのうちに、私の脳内がとある疑問で埋め尽くされることになる。
「こんな感情を抱いている私が、果たしてこの先も〝彼女の兄〟としてクララに接しても良いものだろうか」と。
最初はもちろん、家族愛のようなものだった。
しかし、彼女に他の男を近づけたくないと、独占欲のようなものを感じるようになったのはいつ頃からだ? こんな醜い感情を、果たして〝兄としての感情〟だと呼ぶことができるのか?
次々と持ち込まれる縁談を、何かと理由をつけて断り続けているのはなぜか? 彼女の社交界デビューを聞いて、嬉しさよりも焦りが優ったのはどうしてだ?
六歳という年齢差は、決して小さなものではない。兄上とグレースが婚約している以上、彼女と共に生きられる可能性など、ほとんどないに等しいことだってわかっている。
それでも、自問すればするほどに、私が彼女に向ける感情の輪郭がはっきりと浮かび上がってくる。
……これはもう、恋だ。
私が、いつからクララをそういう目で見ていたのか、はっきりとしたことは覚えていない。
おそらく「この瞬間に恋に落ちた!」などというものではなく、ゆっくりと時間をかけて〝女性としての彼女〟に惹かれていったのだと思う。
そしてこの日になってようやく、私は明確にクララへの恋心を自覚したのだった。