6.彼の空回り
クララの様子がおかしい。
そう気づいたのは、彼女がこの屋敷に来てすぐのことだった。
はじめのうちは、私が国外を飛び回っていた三年の間に、彼女の趣味や嗜好が変わったのだろうかとも思った。
しかし、どうやらそうではないらしい。
クララの変化の一つ目は、お菓子の量。
小さい頃からお菓子が好きだと公言していた彼女は、成長してからもお菓子を前にすると瞳をキラキラと輝かせていた。
彼女を観察するうちに、特定の何かを好んでいるわけではなく、お菓子の見た目や食感も含めて楽しんでいるのだと気づいた私は、「五感を総動員して食べてもらえて、作り手側も喜んでいるに違いない」と思ったものだ。
だからこそ私は、彼女をこの屋敷に呼び寄せるにあたって、「お菓子に力を入れてほしい」と、料理長に直々に頼んでおいた。
「承知いたしました。クララ様にご満足いただけるよう、力を尽くします」
平民の出でありながらも、料理の腕一つで公爵家の料理長を任されるだけの地位に上り詰めたという自負もあるのだろう。その時の彼は自信満々といった態度でそう答えた。
しかし彼女がやって来てそれほど日が経たないうちに、しおしおとした様子の料理長から「クララ様に『お菓子の量を減らしてほしい』と頼まれました」との報告を受けた。
詳しく事情を尋ねてみたところ、クララは困ったような表情で「体型の変化が気になる」というような説明をしたらしい。
……なぜ?
「私の作品を心底嬉しそうな様子で召し上がるクララ様を拝見するのが、近頃の楽しみでしたのに」
そう言って嘆く料理長に慰めの言葉を掛けることができないくらいに、私は衝撃を受けていた。
クララはどうしてそんなことを気にしているのだろうか。健康を害するくらいに太っているならまだしも、あの小さな身体のどこにも不要な部分などないというのに。
そもそも、この世からクララの質量が減ってしまうだなんて、世界にとっても損失でしかないじゃないか。
しかし、いくら私がそう思っていようとも、クララの身体は彼女自身のもの。私が「痩せるな!」と命令するのもおかしな話だ。
一方で、料理長の気持ちも理解できるし、彼にやる気を失われるのはどうにかして防ぎたい。
この問題を双方にとって良い形で解決するには、どうするべきなのだろうか……。
「太らないお菓子があれば良いのだが」
考えなしに呟いた言葉に、料理長の肩がぴくりと動く。
「リアム様、今なんと?」
「いや、クララが体型を気にすることなく食べられるお菓子があれば……と思ってな」
でもまあ、難しいだろう。子どもの頃に厨房に忍び込んで、お菓子作りの様子を見たことがあるが、想像を絶する量のバターと砂糖が使われていた。お菓子とは、そういうものなのだ。
しかし料理長は、そうは思わなかったらしい。
何気ない私の言葉から着想を得た彼は、現在ヘルシーなお菓子の試作に精を出している。
その行動力と柔軟性は、さすが公爵家の料理長を任されるだけの人物だと言えよう。
クララの変化の二つ目は、空き時間の過ごし方。
過ごし方……というよりは、「読む本のジャンルが変わった」と言った方が正確なのかもしれないが、最近の彼女は小難しい専門書を読んでいるらしい。
「わからない箇所については、私に説明を求めに来られたりもします。とても熱心に勉強なさっておいでですよ」
マークからはそう聞かされているし、それが近い将来公爵夫人になることを見据えての行動なのかと思うと、いじらしくて仕方がない。
けれども同時に、未来の公爵夫人という重圧のせいで、彼女から本来好きだったものを取り上げてしまったのではないかという、後ろめたさのようなものもある。
何事にも全力で、真面目に取り組む彼女だからこそ、空き時間くらいは自由に過ごしてほしいというのが、私の正直な気持ちだ。
それに、近頃は実家から連れて来た専属侍女のマリーすら部屋に入れず、自室に籠ることがあるとも聞いている。
「お部屋から出てこられたクララ様はどことなく疲れたご様子なのですが、落ち込んでいるわけではなく、前向きなオーラを漂わせていらっしゃいます」
マリーからはそんな報告も受けており、この件に関してはマリーとも連携を取りつつ、現在も調査中である。
そしてクララの変化の三つ目は、屋敷内の人々に対する接し方。
三兄妹の末っ子かつ人見知りがちな彼女は、昔からどちらかというと〝周囲から気にかけてもらう側〟だった。
それが今では積極的に、自ら使用人に声を掛けるようになっている。
おそらく、ゆくゆくは屋敷内の人事にも口を出さねばならない自身の立場を考えての変化なのだと思う。
この家に馴染もうとしてくれていることは素直に嬉しいし、そんな彼女が使用人から評判が良いことを聞いて、誇らしくも思っている。
だから、公爵家当主としての立場からすると、彼女のこの変化は喜ばしいものである。
けれども、私個人としては手放しで喜べない。
なぜなら、彼女は魅力的すぎるのだ。
つい先日、彼女が執事見習いの青年と一緒にいる場に出くわした。
クララが彼と話している場面を見るのは実は二回目で、前回よりも距離が近くなっていることに気がついた私は、思わず眉を顰めてしまった。
もちろん、クララを疑っているわけではない。
「距離が近い」と言っても、それは雇用主と使用人との距離を逸脱するほどの近さではなかったし、話の内容だって業務に関することだった。
そもそも、この屋敷の使用人はみな信頼に足る人物なのだ。執事見習いのこの青年についても、例外ではない。
だから、その時私が感じた不快感は、嫉妬以外の何物でもない。
二人に落ち度はないというのに、私は彼に嫉妬した。
頬がほんのりと赤らめている青年が、クララと同い年であることを思い出したから、余計に。
「クララと、随分と仲が良いようだな」
クララがその場を去った後、私は彼にそう声を掛ける。
怖がらせないようにと考えていたにもかかわらず、思っていた以上に低い声が出たし、視線も冷たかったのだと思う。
「こ、公爵様……」
そう言って頭を下げる青年は、真っ青な顔をしていた。
……やってしまった。
「私が未熟であるがゆえの嫉妬だ」ということや、「君に落ち度はない」ということを説明し、なんとかその場を収めることには成功したものの、事の次第を聞いたマークには渋い顔をされてしまった。
「彼には悪いことをしてしまった。後でフォローを頼む」
私がそう伝えると、マークからは「もちろんでございます」との言葉が返ってきた。
その後、執事見習いの青年とクララが二人きりで話しているところは見ていない。
どうやらマークは、クララが好きすぎるあまりに空回っている私の様子を、彼に伝えておいたらしい。
「『お二人の関係がより良いものになるよう応援しています!』と言っていましたよ」
マークがそう言っていたことを鑑みるに、青年が私に向ける視線が生温かいものになったのは、おそらく気のせいではないのだろう。
……とまあ、このようにクララの変化の一つ一つは小さなものだし、それによって困っていることも今のところはない。
彼女が悩んでいるだとか、悲しんでいるだとか、そういった様子も見られないことから、「いずれ機会があれば、それとなく聞いてみよう」程度に考えていた。
だから、クララとようやく夕食を共にする時間が取れた今夜、話題の一つとしてそれらの彼女の変化についても言及するつもりだ。
クララときちんと話ができたのは、彼女が屋敷に来た日以来のこと。あの時の対応が酷いものだったことは、自分でもわかっている。
あの日の反省を生かし、今日はなんとしてでも挽回せねばならない。
山のように積み上げられていた仕事もようやく一段落したので、食事の後にもゆっくりと二人で過ごせるはずだ。
いきなり「好きだ」と思ってもらえるとは考えていないが、せめて今後の私との生活を明るいものだと感じてもらえるよう、最善を尽くそうではないか。
クララを食堂で待つ間、そんなことを考えていたからだろう。約束の時間よりも少し早めに食堂に現れたその人物がクララであることに、私はすぐに気づくことができなかった。
……いや、そのせいだけではない。
今日のクララはどうしてだか、全体として彼女らしくないのだ。
見たこともない大人っぽいデザインのドレスに、ぴしりと結い上げられた髪、そしていつもよりも目元が強調されたメイク。
そのどれもが普段のクララのイメージからはかけ離れたものなので、目の前の人物が彼女であると認識するのに時間が掛かってしまったようだ。
それ自体に問題はない。クララらしくないというだけで、非常識な格好をしているわけではないのだから。屋敷内でどのような格好をしようと、彼女の自由だ。
けれども、すぐにあることに気づいた私は、衝撃のあまり息をするのも忘れてしまった。
……クララの内臓は、どこにあるんだ?
そんな疑問が頭に浮かんでくるくらいに、目の前の彼女の腰は細く薄い。
彼女が小柄であることを差し引いても、あまりにも細すぎる。私と同じだけの内容物が身体に詰まっているとは到底思えないくらいの細さなのだ。
女性のファッションに疎い私であっても、不自然なその細さがコルセットによって無理矢理に作り出されたものだということくらいは、すぐに察せられた。
後から考えると、私と二人きりの夕食の場にそのような格好で来たことの意味に気づいておくべきだった。
同じことを伝えるにせよ、この場に着飾って来たクララに対して、まずは「きれいだ」と言うべきだった。
しかしその時私の脳裏には、どこかで目にしたことがある、【コルセットによって身体を強く締め付けることは、健康に悪影響を及ぼします】という文言だけが浮かんでいた。
「肋骨の変形」「内臓の圧迫」「血行不良」……、そんな言葉が一瞬のうちに頭の中を駆け巡る。
それどころか、コルセットが原因で若くして身体を壊した彼女を私が看取ることになる……などという、最悪のシーンまで想像した。
冗談じゃない。私は、柔らかな日差しが差し込む自室で、ベッドの傍で私の手を握るクララに「生まれ変わってもまた君と夫婦になりたい」と伝えて生を終えることを、目標にしているというのに。
だから別に、腹を立てていたわけではないのだ。ただただ、彼女の身体を心配していただけのこと。
……もちろん、それが言い訳にしかならないことは、私も重々承知している。
「そんなことをする必要はないっ!!!!」
「今後の私との生活を明るいものだと感じてもらえるように最善を尽くそう」と考えていたはずの私が、その日初めて彼女に向けて発したのは、そんな怒声だった。
「今のはいけない」と思った時にはもう遅く、私の目の前には愛するクララが真っ青な顔で突っ立っているのだった。