4.彼の決意
「リアム様、あれはいけません」
渋い顔をしたマークからそう声を掛けられたのは、ようやく公務が一段落し、食べ損ねた夕食の代わりに軽食の用意を頼んだ時だった。
「……言わないでくれ。私が一番よくわかっている」
そう言ってはみたものの、マークからの小言は止まらない。
「そもそも、どうして応接室で待っていらしたのですか? 『到着されたらお声掛けします』とお伝えしていましたのに」
「あの場で待っていた方が、クララに早く会えるじゃないか。私は、一分一秒でも早く彼女に会いたかったのだ」
なぜそんな当たり前のことを聞くのだろうかと思ったが、私の返事を聞いたマークは呆れたような表情を浮かべている。
「……なるほど。ですが、その後もです。気の利いた会話どころか、返事も碌になさらないで……」
「仕方がないだろう。にやけてしまわないように口元に力を入れるのに必死だったんだ」
「しかし、あれでは誤解されてしまいますよ?」
「……つまり、再会早々クララに緩み切っただらしない顔を晒すべきだったと言うことか?」
私だって、もっと上手くやれると思っていた。
けれども三年間という長い月日をかけて、クララは私の想像を超える成長を見せていたのだ。
三年前、この国を発つ前日に彼女に会った日のことを、私は今でも鮮明に思い出すことができる。
「『どうしても叶えたいことがある』と聞き及んでおります。どうぞ、ご無事で」
当時十五歳だったクララは、淡いブルーの瞳を潤ませながらも、決してその目から涙を零すことはなかった。
そんな別れの間際に私に向けられた、口角だけを無理矢理に上げたようなクララの下手くそな笑顔は、異国の地で私の心の支えとなっていた。
解決への筋道すら見えないような困難に直面した時、周囲に味方がおらず心細くなった時、一向に減らない山積みの課題を前に漠然とした不安に苛まれた時……。そういった全てを投げ出したくなるような時に、幾度となくクララのことを思い出しては、気持ちを奮い立たせてきた。
だから心のどこかで、保険を掛けていたのかもしれない。「私は彼女を美化しすぎているのではないか」と。
しかし、それは杞憂だった。
三年ぶりに顔を合わせたクララは、記憶の中の彼女に輪をかけて美しくなっており、私は膝から崩れ落ちそうになった。
もちろんそれは、外見についても言えること。
絹糸のようなシルバーグレーの髪も、陶器のように白く滑らかな肌も、垂れ目気味の目元を縁取る長い睫毛も、彼女を構成するその全てに目を奪われた。
けれどもそれ以上に、すっと伸びた姿勢だとか、カップを持つ際の揃えられた指先だとか、そういった〝彼女が努力によって身につけてきた美しさ〟が、私の目には一層眩しく写ったのだ。
「そもそも、どうしてあのような表情を? およそ好意を抱いている相手に向けるような視線ではありませんでしたよ?」
「険しい顔をしてしまっていたことは認めよう。だが、クララの全てを目に焼き付けておきたかったのだ」
私が「瞬きをする間すら惜しかった……」と呟くと、マークからは「美しく成長なさっていたことは確かです」という答えが返ってきた。
「……私の婚約者だぞ?」
「わかっておりますよ。私にまで嫉妬なさらないでください」
もちろん、マークのことは信頼しているし、彼が自身の妻と娘を溺愛していることも知っている。
けれども、そんな相手であってすらも「牽制しておかねば」と思わせるくらいに、彼女は魅力的だった。
だからこそ、時間が許す限り彼女の姿を見ていたくて、彼女と同じ空気を吸っていたくて、予定の時間を大幅に超えてもあの場にとどまった。
「さすがにそろそろ戻らねばまずい」という時になってようやく重い腰を上げた訳だけれど、結局公務はこの時間にまで及ぶことになった。
去り際に成長したクララの姿をもう一度見ておきたい気持ちはあったものの、振り向いていたらさらに遅れてしまっていただろうから、あの時の判断は英断だったと言えよう。
そういえば、クララはあの後自室に案内されたはず。
この家を作るにあたって、かつて彼女から繰り返し語り聞かされていた「理想のおうち」を再現するために奔走したのは良い思い出だが、中でも特にこだわったのがあの部屋だ。
彼女は気に入ってくれただろうか?
そんなことを考える中で、ふと一つ確認しておかねばならないことに気がついた。
「ところで、仕立て屋の件はどうなった?」
マークにそう問うと、「クララ様がお疲れのようでしたので、明日来させることになりました」との答えが返ってくる。
「なるほど。ならば、やはり用意した服を先に渡しておくべきではないか?」
私の言葉を聞いて、マークがわかりやすく顔を顰める。
「あの青色ばかりの服をですか? おそらく、クララ様を怖がらせることになるかと」
クララの部屋の準備を終え、クローゼットいっぱいに詰まったブルー系のドレスを見た際にも、マークは同じようなことを言っていた。
「婚約者の瞳と同じ色の服ばかりをこんなに大量に贈られたら、逃げ出したくなるでしょう」と。
「……『クララの瞳の色に合わせた』ということにはできないだろうか?」
確かその時はそんなふうに返したのだけれど、清々しいくらいに無視されてしまったので、今回は黙っておくことにする。
ちなみに、あの時用意した服は今も別室にこっそりと隠してあるので、ばれないように少しずつ彼女のクローゼットに移動させていこうと考えている。
ちらりと時計に視線を向けると、まもなく日付が変わろうとしていた。
いつもならば明日に備えて、一刻も早く寝室へと向かう時間だが、今日はどうも寝れそうにない。
なんといっても今日からは、同じ屋根の下にクララがいるのだ。
「……一日の終わりに、彼女の顔を見に行っても許されるだろうか?」
私がそう言うと、マークは小さく溜息を吐いた。
「時間を考えてください。ただでさえ長距離の移動でお疲れでしょうに、きっともう休まれておいでです」
「寝顔を見るだけでも……」
「……同じ屋敷で生活されているとは言え、クララ様はまだクロフォード家のご令嬢です。もしもリアム様が本気でおっしゃっているのであれば、私は貴方を軽蔑せざるを得ません」
険しい顔でそう言うマークに、私は「ははは」と笑って答える。
もちろん、それは冗談だ。
いくら浮かれているとはいえ、嫁入り前の女性の寝室に無断で入るつもりはない。
彼女の方に、私への恋愛感情がないのであればなおさらだ。
私とクララが正式に夫婦になるまでには、まだ少し時間がかかるだろう。
彼女の姉が世間的には亡くなったことになっている状況で、クロフォード家に対して「非常識だ」と言わせないためにも、今はまだクララとの婚姻の儀を行うべきではない。
正直なところ、それを残念だと思う気持ちもある。「一刻も早くクララを妻にしたい」というのも本音だ。
だが、こうなってしまった以上は切り替えるしかない。
だから私は、この期間をチャンスだと思うことにしている。
今この状態で婚姻の儀を執り行ったとしても、それは〝私だけが幸せな儀式〟にしかならない。
しかし一生に一度しかない大切な節目の儀式なのだから、できることなら〝私達二人にとって幸せな儀式〟にしたい。
ならばこの与えられた時間で、クララにとって私との結婚を幸せなものにしてしまえばよいのだ。
おそらく彼女は、私のことを兄のような存在としてしか見ていない。
ここから私がクララにとっての〝愛する人〟になれるかどうかは、私の行動次第だ。
「彼女に振り向いてもらえるよう、全力を尽くそうじゃないか」
時計の秒針の音がはっきりと聞こえる部屋の中、私は改めて強くそう決意するのだった。