3.彼女の決意
「なんて素敵なお屋敷なの……」
馬車を降りてすぐ、目の前に広がる光景に、私は思わずそう零す。
新たに公爵家の当主となられたリアム様から、私宛てに手紙が届いたのは数日前のこと。
姉が突如として姿を消したことにより、混乱しているであろう我が家の様子を気遣う言葉から始まるその手紙には、「できるだけ早くに公爵領にある我が邸宅へと移り住んでほしい」旨が記されていた。
【このような状況下において、予定通りに婚姻の儀を押し進めるつもりはありません。しかし親睦を深めるためにも、いずれ担ってもらうことになる公爵夫人としての公務を学ぶためにも、クララにはなるべく早いうちにこちらに来ていただいた方が良いと、私は考えております。】
癖のない読みやすい文字で書かれたその手紙は、リアム様から我々への配慮が伝わってくるもので、「姉の代役を立派に務めなくては!」と張り詰めていた私の気持ちを、優しくほぐしてくれるかのように感じられた。
「リアム殿下もこうおっしゃっているのだ。すぐに支度に取り掛かり、準備ができ次第向かうように」
本来の婚約者である姉が駆け落ちしてしまったという負目もあって、父がそう指示を出すのは当然のことだったと言えよう。
そして今日、私はこの地に降り立った。
手紙に書かれていた【君の専属侍女を受け入れる用意もしてある】という文言に甘えて、マリーも一緒に。
「クララ様がお好きそうな外観ですね……」
そう言いながら屋敷を見上げるマリーに、私はぶんぶんと首を縦に振る。
暗い色の石材でできた外壁に、白いフレームがついた大きな窓、そして急勾配の濃灰色の屋根を持つ二階建てのそのお屋敷は、私が幼い頃に周囲に語って聞かせていた「理想のおうち」そのものだ。
そしてお屋敷の正面玄関の辺りには、初老と見られる男性が立っていた。
にこやかな表情で「ご無沙汰しております、クララ様」と言うその男性は、自分のことをマークと名乗った。
マークは姉と共に訪れた王宮内で何度か見かけたことのある人物で、見知った人間がこの場にいることに私はひっそりと安堵する。
「ご無沙汰しております。今はこちらで働かれているのですね」
「はい。この屋敷では執事長を務めております」
「……本当に、素敵なお屋敷ですね。思わず見惚れてしまいました」
「リアム様が、こだわり抜いて建てられたお屋敷ですので」
そんな会話を交わしながら、私はマークの後に続く。
外観のみならず内装までもが私の理想そのもので、あまりきょろきょろとするのははしたないとわかりながらも、視線があちこちに吸い寄せられてしまう。
「どうしましょう……。こんなお屋敷に住めるなんて、夢が一つ叶ってしまったわ」
そんな私の言葉を聞いて、マークは目元を和らげると、「そう言っていただけると、リアム様もお喜びになると思います」と言った。娘や孫を相手に語り掛けるような、優しげな声色だった。
目の前にいるマークだけではない。私がこの屋敷に着いてから、すでに何人かの使用人の方々とすれ違ったが、彼らから私に対する嫌悪感のようなものは感じなかった。
きっと、姉が駆け落ちしたということは伏せられているのだろう。けれども、〝淑女の鏡〟と呼ばれる姉の代理が私であることを、もっと落胆されていると思っていた私にとって、この屋敷の人々の態度はとてもありがたく感じられる。
……ここでなら、上手くやっていけそうな気がするわ。
しかし、そんなふうに楽観的に考えられていたのも、応接室に着くまでのことだった。
案内された部屋の中、最初に目に飛び込んできたのは鮮やかなブロンドで、私は思わず息を呑む。
「……っ!?!?」
なんとか叫び声を上げずには済んだものの、気の利いた言葉は出てこない。
だってまさか、リアム様が待っていらっしゃるとは思ってもいなかったのだから。
「……ご無沙汰しております」
辛うじてそう発してみたけれども、リアム様から返ってきたのは「ああ」という固い言葉だけ。
それ以上何を言う訳でもなく、険しい表情でこちらを見つめるリアム様は決して機嫌が良いようには見えず、私は内心で冷や汗をかく。
「お待たせしてしまいましたでしょうか?」
事前に伝えていた時間通りに来たつもりだったけれども、ひょっとすると伝達ミスがあったのかもしれない。
現に、リアム様の正面に置かれたティーカップの中身は空っぽで、彼が少し前からこの部屋で待っていたことが見てとれる。
けれども、またしても彼からは「いや」という短い否定の言葉が返ってきただけで、それ以上話が広がることはなかった。
促されるままにソファーに腰掛けてはみたものの、応接室は気まずい静寂に包まれている。
加えて、リアム様の深青の瞳が、まるで「一挙手一投足まで見逃すまい」とでも言うかのように、こちらに向けられているものだから、居心地の悪さに拍車を掛けている。
そんな彼の鋭い視線から逃げるように、目の前に置かれたティーカップに口を付けた私は、先ほどまでの自分の能天気さを呪っていた。
正直に言うと、今回の件に関して、私はリアム様に会うまでは「なんとかなる」と思っていたのだ。
姉が正式にライアン王太子の婚約者に内定する以前から、〝ライアン殿下の婚約者候補〟である姉の後について何度も王宮に出入りをしていた私にとって、リアム様は知らない人間ではなかったし、記憶の中の彼はいつも私に優しくしてくれていたから。
姉と同い年のリアム様にとって、六つも年が離れた私との会話など退屈でしかなかっただろうに、彼は一度もそのような素振りは見せず、むしろ積極的に私のことを妹のように可愛がってくれていた。
だからきっと今回についても、きっと上手くいくと思い込んでしまっていた。
「たとえ一生兄妹のような関係であろうとも、リアム様とならそれなりに円満な家庭が築けるはずだ」と。
けれども、あの頃と今とじゃ状況が違うのだ。
私は今、彼にとっての妹的存在としてではなく、未来の公爵夫人としてここにいる。それも、〝淑女の鏡〟と称される姉の代わりに。
「侯爵家は慌ただしくしているのだろう。そんな中、急かしてしまって申し訳なかった」
「いえ、そんなっ! こちらこそ申し訳ありませんでした」
「君が謝ることではない」
「ですが、いろいろとご手配いただいたと聞かされております」
そんなふうに上辺だけの会話を交わしている間も、リアム様からの視線を痛いほどに感じる。
もしかすると今この瞬間も、私が公爵夫人としてふさわしい振る舞いをしているかどうか、チェックされているのかもしれない。
そう思って一層姿勢を正してみるけれども、リアム様からの視線は相変わらずだった。
結局、それ以降も会話が盛り上がることはなく、私達の距離も縮まらないままに、その場は解散となった。
「疲れているだろうに、引き止めてしまってすまない。今日はゆっくり休むといい」
最後の最後に掛けられたその言葉は、私が知っている〝優しいリアム様〟を思い出させるものだったけれど、彼はそれだけ言い残すと、こちらを振り返ることもなく早足でその場を立ち去ってしまった。
◇◇◇
その後案内されたのは、二階の奥にある広い部屋だった。どうやらここが私の自室であるらしい。
「一番景色の良いお部屋をクララ様に、とのことでしたので」
マークがそう言っていた通り、大きな窓からは手入れの行き届いた庭園が一望できる。
素晴らしいのは、窓からの景色だけではない。
私の目から見ても、この部屋の壁紙も絨毯も、家具や調度品も全て、質の良いものが揃えられている。
お姉様の部屋としては少し可愛らしすぎる気もするけれど、それでもリアム様がこの部屋で過ごす人物を思い遣り、心を砕いて準備したことが伝わってくる。
そんな満ち足りた空間であるからこそ、がらんとしたクローゼットが一層侘しく感じられる。
十分なスペースが用意されているにもかかわらず、クローゼットの中には普段着用のドレスが数着用意されているだけで、この部屋の全てが〝お姉様のために用意されたもの〟であることを物語っていた。
きっと、元々ここにもたくさんの衣装が用意されていたんだと思う。
けれども残念ながら、それらは全て処分されてしまったのだろう。女性のわりには背が高く、ほっそりとしたお姉様のための服は、私には到底着られないものだから。
……リアム様は、お姉様のために用意したドレスをどんな気持ちで処分したのだろうか。
そんなことを考えているうちに、目の奥がじんわりと熱くなってきた。
先ほどの鋭い視線も、広がらない会話も、全てリアム様の失意からくるものだったのだろう。
お姉様が駆け落ちしてから今日まで、彼は常に我々のことを気遣い、国として最善の行動をとってきてくれていた。随分と忙しく、大変な思いもしたはずだ。
そんなリアム様の張り詰めていたものが切れたのが、先ほどの場だったのかもしれない。いなくなってしまったお姉様の代わりに来た私を実際に目の当たりにして、ようやく現実を突きつけられたような気になったのかもしれない。
考えれば考えるほどに切ない気持ちが湧き上がり、遂に私の目からはぽろぽろと涙が溢れ出す。
……このままではいけない。
大きな手柄を立てた褒賞として〝愛する人との人生〟を望んだリアム様に、こんな思いを抱かせたままではいけない。
幼い頃から私に親切にしてくれたリアム様の、「愛する女性を妻に」という願いを叶えてあげたい。
私はお姉様にはなれないけれども、リアム様にとっての〝愛する人〟になれる可能性は残っているのだ。
ならば、私の行動次第で彼の願いを叶えてあげることもできるはず。
……だったら。
「今はお姉様の身代わりにすぎない私だけど、必ずリアム様を振り向かせてみせるわ!」
一人きりの部屋の中で、私は強くそう決意したのだった。