2.彼の事情
「いよいよ今日、クララが来るのだな」
そう言いながら意味もなく自室内を歩き回る私を見て、執事長であるマークが小さく溜息を吐く。
「……リアム様、同じような発言は本日六度目です。もう少し落ち着かれてはいかがかと」
「これがっ! 落ち着いてなどいられるかっ!」
乱暴な口調になってしまったにもかかわらず、マークは「やれやれ」とでも言いたげな視線を私に向けている。
元々王宮に仕えていた彼は、幼い頃から私の成長を間近で見てきたこともあって、いまだに私のことを「坊っちゃん」だと思っている節がある。
でもまあ確かに、気心知れた相手だとはいえ、こうやって言葉を荒げてしまったのだから、私もまだまだ未熟者であることは認めざるを得ない。
「……すまない、少し感情的になってしまった」
「いえ、自覚がおありでしたら構いませんよ。ですがお気をつけください。リアム様は公爵家の当主になられたのですから」
「ああ、わかっている」
当初からの予定通り、クロフォード侯爵家の子女と結婚するにあたって、先日父親である国王陛下から公爵位と領地を賜った。
私の想定通りに事が運んでいたのなら、公爵夫人となった彼女がすでに私の隣に並んでいたことだろう。
しかし、本来ならば爵位の授与式と同日に行われるはずだった婚姻の儀が行われることはなく、いまだに私と彼女は正式な夫婦にはなっていない。
「あの日の自分が憎らしい……」
それこそ、もう何度口にしたかもわからないその言葉が、私の口から発せられるのを聞いて、マークが憐みの籠った視線をこちらに向ける。
「過ぎたことです。仕方がありません」
「わかっている。だがあの日、私がもっと注意深くあれば、彼女は今頃……」
そう、あの日。あの日私はどうかしていたのだ。
「クロフォード侯爵家の子女との結婚を、お許しいただけませんでしょうか」
三年間にも及ぶ非公式の外交活動を成功させたことへの褒賞として、あの日私は父である国王にそう願い出た。国中の有力貴族が集った、正式な場においてのことだった。
「クロフォード侯爵家のご令嬢といえば、ライアン王太子殿下の婚約者ではなかったか?」
「これは、未来の王太子妃が変わることになるかもしれん」
「リアム殿下も、なんと大それたことを……」
周囲からそのような声が聞こえてくることも、当然と言えよう。
「……それは、グレース嬢がライアンの婚約者であることを知った上での発言なのだな?」
私の願いを聞いてどよめく周囲とは対照的に、そう問う父の声は随分と落ち着いていた。
「もちろんです」
「二人と話はつけているのか?」
「はい。兄上とグレース嬢からの了承は得ています」
「そうか」
父はそう短く返事をしたきり、そのまま黙り込んでしまった。
この願いがそう易々と認められるものではないということくらい、わかっている。私の願いを叶えるためには、王太子である兄の婚約を白紙にしなくてはならないのだから。
だからこそその時の私は、ただただ祈り続けるしかなかった。
思えば最初から、私の恋が成就する可能性など、ほとんどないに等しいものだった。
私が初めて彼女への恋心を自覚した時には既に、兄とグレースの婚約は決まっていたし、彼女が私をそういう目で見ていないことにも気がついていた。
それがわかっていながらも、私はどうしても彼女を諦めきれなかった。
そこで私は思いついたのだ。「褒賞という形でなら、彼女を娶ることができるのではないか」と。
そこからの行動は、我ながら随分と早かったと思う。
自身の考えを兄とグレースに打ち明けた後、私はすぐに国を出た。
ちょっとやそっとの功績ではいけないのだ。
褒賞として〝王太子の婚約を白紙にするような願い〟が認められるくらいに、大きな功績を残さなくてはならない。
そんな思いを胸に、私は十数年間国交が断絶していた隣国との関係を改善し、とある友好国ではクーデターを未然に防ぎ、またいくつかの開発途上国ではインフラ整備に携わったりもした。
まあ、この辺りのことを話し出すと時間がいくらあっても足りないので、詳細については割愛しよう。
とある開発途上国では、国の発展に寄与した私を称えるための像が作られたとだけ、付け加えておく。
とにかく、三年という年月をかけて、私は遂に国王から褒賞を受けるだけの功績を残すことに成功した。
この三年間、寝る間も惜しんで働き続けたし、やれるだけのことは全てやったのだ。
これ以上私にできることと言えば、神頼みくらいしか思いつかない。
周囲に悟られないように真面目な表情を浮かべつつも、私は思いつく限りのありとあらゆる神々に祈りを捧げる。
父が口を閉ざしていたのは、時間にすればそれほど長くはなかったのかもしれない。
けれども私にとっては、永遠にも感じられるくらいに果てしない時間だった。
「ふむ……」
ようやく父がそう発した時、私の掌はじっとりと汗ばんでいた。
言葉の続きが早く知りたいという気持ちと、父の判断を聞くことへの恐怖心とがせめぎ合い、足元がぐらぐらと揺れているような感覚になる。
しかし、ここで倒れ込む訳にはいかない。
ありったけの力を込め、真正面から父を見据えると、父が僅かに目元を緩めるのがわかった。
「よかろう。クロフォード侯爵家の子女との婚約を認めよう」
……その言葉を聞いた時の、身体中の血液が急速に流れ出すかのような興奮を、私は一生忘れることはないだろう。
「……ありがとうございます」
「ああ。後ほど正式に書面を用意しよう。詳しいこともその際に」
「はい、承知いたしました」
衆人環視の元、父とそんなやりとりをしたところまでは、はっきりと覚えている。
問題は、その後のことだ。
その時の私は、辛い期間を経てようやく手にした彼女との明るい未来を夢見て、完全に舞い上がっていた。
書面の内容に碌に目を通すこともなく署名をし、そこに国王である父と立会人のサインが記されるのを見て、この婚約が正式に認められことに達成感を感じていた。
「私と彼女の婚約は、もはや何人にも覆すことができないものになったのだ」と。
そのまま帰国後初となる彼女との顔合わせの機会を早々に取り付けた私は、彼女と会えるその日を毎日指折り数え、「婚約者となった彼女は私にどんな表情をみせるのだろうか」と、「彼女の隣に堂々と立っていられる日々はどれほど素晴らしいものなのだろうか」と、そんなことばかりを考えていた。
「私ほど幸せな人間が、この世界に存在するだろうか。いや、するはずがない」などと、本気で思っていた。
しかし数日後、婚約者との顔合わせの場であるはずのそこに現れた人物は、彼女ではなかった。
「……リアム殿下? これはどういうことでしょうか?」
婚約者として私の前に姿を現したグレースは、二人きりになるなりそう言った。
「『リアム殿下がクロフォード家子女であるグレース嬢を婚約者にと望まれた』と聞かされた時は、何かの間違いだと思いましたわ。それなのに……」
グレースはそこで一旦言葉を区切ると、すうっと息を吸い込んだ。
「ですが本当に、その旨が記載されている書面には、リアム殿下のサインが記されているのですから。それを目にした時、私がどれほど驚かされたか、貴方はおわかりですの?」
口調は丁寧でありながらも、そう言うグレースは見たことがないくらいに怒っていた。
そしてそんな彼女を、私は「〝淑女の鏡〟と称されるグレースも、こんなふうに怒ったりするのだな」という気持ちで眺めていた。
そう、現実逃避をしていたのだ。
……なぜ目の前にいるのが、クララではないのだ?
私は、クロフォード侯爵家の子女であるクララと、婚約者として顔を合わせるこの日を、ずっと心待ちにしていたのに。
彼女の姉であるグレースが兄上と婚約を結んでいる以上、そちらの解消がなされなければ認められないこの縁談を結ぶために、私は血を吐くような努力をしてきたのに。
それなのに。
しかし、いつまでも現実から目を背けている訳にもいかない。
何度瞬きを繰り返しても、婚約者として私の目の前に座っているのは、私の想い人であるクララではなく、クララの姉であるグレースなのだから。
グレースと二人きりの部屋の中で、私の背中に冷たい汗が伝う。
「彼女とは……、クララとは、結婚できないということか……?」
ようやく事態を把握した私の口から漏れ出たその言葉を聞いて、グレースは気の毒そうな表情を浮かべながらも、はっきりとした口調で「そうなりますわね」と言った。
そう。この婚約は、国王によって公式な手順を踏んで承認されたものなのだ。
私とグレースの結婚について記載されている書面には、私と父のサインが間違いなく記されているし、私達の結婚に向けてすでに様々なことが動き始めてしまっている。
つまりこの婚約は、すでに何人にも覆すことができない状態になっているのだ。……それがたとえ、当事者である私であったとしても。
「なんということだ……」
そう言ってテーブルに突っ伏す私に、グレースはそれ以上何も言うことはなかった。
「……もう一度だけ確認しておきますが、リアム様が最初からクララ様を婚約者に望んでいらっしゃったことは、本当にお伝えされないのでしょうか?」
あの時感じた絶望を思い出し、ぼんやりとしてしまっていた私の意識が、マークの言葉によって呼び戻される。
「ああ。ここ数日間で、彼女の環境と未来は大きく変わってしまった。余計なことを伝えて、これ以上混乱させるわけにはいかないからな」
姉であるグレースが駆け落ちしたこと、グレースの代わりに私の婚約者になったこと、それだけでも彼女にとっては衝撃的な出来事であったはずだ。
ここでさらに「実は初めから私は君を妻に望んでいた」などと知らせて混乱を助長するのは、あまりにも酷だろう。
「彼女がここでの生活に慣れ、落ち着いた頃に打ち明けようと思う」
私が再度そう伝えると、マークは一瞬だけ何か言いたそうな素振りを見せたものの、そのまま「承知いたしました」と言って頭を下げた。
「……ところで、クララがここに着くまで、後どれくらいかかるだろうか?」
そう言いながら窓の外に目を向けると、美しく晴れ渡った空が目に入る。
「……先ほど同じ質問をなさってから十分程しか経ってません。ですからまだ、五十分程度はかかるかと」
もはやマークは呆れを隠そうともしていなかったが、ようやく手に入れたクララとの生活に思いを馳せる私にとっては、そんなことは気にもならなかった。