1.彼女の事情
「お姉様が駆け落ち!?!?」
思わず大きな声を出してしまった私の口を、専属侍女であるマリーが慌てて塞ぐ。
「クララ様、『内密に』との話でしたでしょう?」
マリーの口調は厳しいけれど、これが叫ばずにいられるだろうか。
現に部屋の中にいる面々は、私に対して「気持ちはわかる」とでも言いたげな表情を向けている。
「だって、『駆け落ち』ってあの駆け落ちでしょう!?」
「ええ。周囲から認められない相手と婚姻を結ぶために男女が行方をくらます、あの駆け落ちです」
「お姉様が駆け落ち……」
これが私に関係のないところで起きている出来事ならば、ここまで驚くこともなかっただろう。
物語の中でしかお目に掛かったことがないその行為に対して、「全てを捨てて愛に生きようとする二人……なんてロマンティックなのかしら」などと、無責任な感想を抱いていたかもしれない。
けれども、それに実の姉が関わっているのであれば話は別だ。
「ど、ど、ど、どうしてなの!? 」
私が声を上げると、眉間に皺を寄せた父が、厳かな様子で一枚の紙を差し出した。
【ジャックと共に国を出ます。探さないでください。 グレース】
確かに、そこに綴られた美しい文字も末尾に記されたサインも、見慣れた姉のもののようには見える。けれども、万が一ということがある。
「……これは、本当にお姉様が?」
何かの間違いかもしれないという僅かな希望を託してそう尋ねるが、しかし父は眉間に皺を寄せたまま一度だけ首を縦に動かした。
おそらく、これが偽造されたものではないことくらい、とっくに調査済みなのだろう。
「理由はわからない。二日前の朝、部屋に入ったらこれが置かれていたそうだ」
そう言う父の目元には真っ黒な隈が浮かんでおり、心なしかやつれているようにも思われる。
「確認したところ、使用人のジャックについても、三日前の夜中を最後に姿を見た者はいないらしい」
父はそのまま「はあ……」と深い溜息を吐き、両手に顔を埋めてしまった。
部屋に集められた全員――と言っても、私と父を除いては、母と兄、そして執事長とマリーがいるだけなのだけれど――が、口をきゅっと引き結んで父の次の言葉を待つ。
憔悴しきったこの家の当主を前にして、軽々しく言葉を発することができる人間などいるはずもない。
……【非常事態】という言葉がこれほどぴったりの状況も、なかなかないわよね。
現実のこととは思えない状況に、私はどこかぼんやりとした頭でそんなことを考える。
「わざわざ不幸になる選択をする必要はないけれど、この家の娘として生まれたからには、私達はクロフォード侯爵領の民の生活を、そして彼らの未来を一番に考えなくてはならないわ」
常々そう言っていた姉が、まさか周囲への影響も考えずにこのような身勝手な行動をとるなんて、誰が予想していただろうか。
品行方正、容姿端麗、貴族の令嬢としても特に優秀で、〝淑女の鏡〟とまで言われる姉なのだ。この駆け落ちにもきっと深い訳があるに違いない。
けれどもどれだけ目を凝らして見ても、手紙には「駆け落ちの相手」と「国を出る」こと、そして「探さないでほしい」ということしか書かれておらず、そうするに至った理由だとか、姉の胸中だとか、そういった内容を読み取ることはできない。
この後のこちら側のことを、どうするつもりなのかも。
「リアム様との婚約は……?」
思わず漏れ出てしまった私の言葉を咎めるように、兄が「おいっ!」と声を上げる。
しかし父はそれを手で制して、「クララ、続けなさい」と言った。
「リアム様との婚約は、どうするのです? 第二王子との結婚を間近に控えておきながら、使用人と駆け落ちしたなんてことが知られたら……」
知られたら……どうなるの?
まあ、不敬罪にはなるだろう。今回の姉の行為が不敬以外の何物でもないことくらい、私にだってわかる。
けれどもこれは不敬罪で済ませられる内容なのだろうか?
姉とリアム様の結婚は、国王によって認められた正式なもの。それを一方的に反故にするのだから、忠誠義務違反だと捉えられてもおかしくない。
ということは、下手すれば反逆罪? ……え、本当にどうなるの?
「一族郎党処刑……?」
ぽろりと零れ落ちたその言葉は、普段ならば自分にしか聞こえないくらいの大きさだったはずだ。
けれども残念ながら、今は非常事態。空気が流れる音すら聞こえそうなくらいに静まり返ったこの部屋においては、全員の耳に届いてしまったようで、入り口に佇むマリーの喉元からは「ひいっ」という音が鳴った。
「……そこでだ、クララ」
父はそこで一旦言葉を区切ると、母と兄に視線を送る。
父からの視線を受けた二人が、重々しく頷いた後にこちらへと向き直るのを見て、私の口からは「ひええ」という情けない音が漏れた。
いつもならマリーから注意を受けるような場面なのだけれど、残念ながら彼女は真っ青な顔をしたまま固まってしまっている。仕方がない。
注意してくれる人間がいない以上、自分で立て直すほかに道はない。
「……なんでしょうか、お父様」
なんとか自分を奮い立たせて、三人分の視線を真正面から受け止めつつ、私は胸を張って問い掛ける。
「自信がない時ほど堂々としていなさい」というのは、他でもない姉からの教えだ。
「おまえには、グレースの代わりを務めてもらうことになった」
「え?」
しかし思いもよらない父からの提案に、私のハリボテの自信はすぐにどこかに吹き飛んだ。
「混乱を避けるためにも、グレースの代わりにクララがリアム殿下の婚約者になることが決定したんだ」
困惑する私に視線を真っ直ぐに向ける父は、瞳の奥に少しの申し訳なさを滲ませながらも、はっきりとそう断言する。
父から発せられる「さすが侯爵家の当主!」とでも言うべき圧には怯んでしまいそうになるけれども、今回に関しては「はいそうですか」と即答できるような内容ではない。
「で、ですが、私にお姉様の代わりが務まるとは思いません。それに、代役を立てたからといってどうこうなる問題でもないのでは?」
「リアム殿下が公の場で褒賞として望まれたのは『クロフォード侯爵家の子女を妻にすること』であり、周囲の人間は国王陛下がそれを認められたことまでしか知らない。当然ながらクララもクロフォード家の娘なのだから、問題はあるまい」
「……問題しかないのでは?」
娘の駆け落ちという、あまりにショッキングな出来事が起こったせいで、お父様は正常な判断ができていらっしゃらないのではなかろうか?
縋るような気持ちで兄に視線を向けるけれど、兄は小さく頷くと「すでに国王陛下の了承は得ている」と言った。
え? 聞き間違い?
「いや、聞き間違いではない」
どうやら声に出てしまっていたようで、兄からは即座に否定の言葉が返ってきた。
「けれども、リアム様がなんとおっしゃるか……」
そこまで話が進んでいるのであれば、この件に関してはもう決定事項なのだろう。
けれどもこの婚約は、他国で数多くの功績を残して帰国したリアム様が、褒賞として国王陛下に願い出た結果結ばれたもの。
実兄である王太子殿下の婚約者だった姉をわざわざ指名するほどに、姉への想いを募らせていたのであろうリアム様の心中を思うと、胸がきゅうっと痛くなる。
しかしその言葉を聞いた父は、「むしろこれは、リアム殿下からのご提案なのだ」と言った。
「『対外的にはグレースが事故で身罷ったことにすれば、たとえ私の元の婚約者がグレースであったことが明らかになったとしても、クロフォード侯爵家の体面も保たれるはずだ』と言って、グレースの偽の死亡届まで手配してくださった」
淡々と事実のみを述べる父と、父から語られるリアム様の提案に、「それはそれでどうなのよ?」と思わなくもないけれど、きっとそれがこの件に関しては正しい対応なのだろう。
第二王子の婚約者である姉の駆け落ちが明らかになれば、王家としても我が家に何かしらの処分を下さざるを得なくなる。
死亡届を偽造し、私を姉の代役にしてまでそれを避けるべきだとの判断が、王家と父の間でなされたのであれば、私はその決定に従うしかない。
〝淑女の鏡〟とまで呼ばれる姉の代わりが、私に務まるとは思えないけれども、こうなってしまった以上は腹を括ろう。
「……承知いたしました」
私はそこで一旦言葉を区切り、胸一杯に息を吸い込む。
「クロフォード家の娘として、役目を果たしてまいります!」
その高らかな宣言を聞いて、扉の前で固まっていたマリーが小さく「クララ様……」と呟いたのだった。