34.最終話 大公妃フィリア
――ウィンディアス大公妃フィリアには幾つもの異称がある。
例えば「乗馬妃」「馬上の大公妃」は彼女が乗馬を好むことによる。
貴族女性には乗馬をする者もいなくはないが、フィリア妃のそれは趣きが違っている。
フィリア妃は乗馬用の茶色や紺のドレスではなく、男性と同じトラウザーズをはき、リボンかスカーフ、またはフリルがついたシャツの上にジャケットを重ねた姿で鞍へまたがり、軽やかに馬を操るのである。
その颯爽とした姿に魅了された者は数多く、一大流行を巻き起こした。
現在この女性用乗馬服はクィーンズスタイルと呼ばれるが、これもフィリア妃にあやかってロネー商会が売り出したシリーズが源流と言われている。
このためフィリア妃は男装の麗人、リリエンテの再来と呼ばれることも多い。彼女は乗馬服姿のまま内向きの公務を行い、社交や来客の予定がある時にしかドレスを着用しない。
そもそも、それまで王族の妃はそれぞれの離宮で公務を行うのが通例であったのだが、夫であるウィンディアス大公ヒースクリフ(当時は王弟)と共に白亜宮へ通うようになったのもフィリア妃が最初である。
その理由は「夫と長く一緒にいたい」かつ「その方が公務が効率よく進む」というものであった。
王宮文官達も最初のうちこそ妃が何をするか分からず戦々恐々としていたが、蓋を開けてみればフィリア妃は大公を邪魔するでもなく粛々と自らの公務をこなし、時折「これは殿下のご意見を伺ってくださいませ」と書類を提出する程度であった。
彼女はアストニア生まれであり、彼の国でも第二王子の婚約者を務めていた。あまり公にはできぬ話だが、王子の公務の大部分を彼女が代行していた時もあったという。
そのためかフィリア妃は高い教養を身につけており、時に鋭い洞察を見せて文官達を大いに感心させた。
大公もしばしば妃に意見を求めるなど頼りにする反面、休憩は必ず妃と取り、片時もそばから離さない熱愛ぶりという。
しかしながら、彼女の最も有名な異称は「悪食妃」であろう。
毒性が強く、食用に適さないとされていたズィーゲルフロッグやマンドレークニセニンジンなどから毒を取り除く手法を編み出し、ベルーザ王国中に広めた。
同時に誤食や食中毒を防ぐために、庶民向けに絵入り図鑑を発行して読み書きの教育を推進し、手洗いや煮沸消毒の重要性をも周知した。
これにより特に、王国の中でも後進的であった闇の森近辺の領地において妊産婦や乳幼児の死亡率が低下し、領民の生活向上につながっている。
またフィリア妃はラング伯爵領の漁村の一部でしか使われていなかった調味料、サイサやソムを殊の外気に入って愛用している他、北はリトランド王国から南はハイバリク連合首長国まで各国の食文化に興味を示し、どのような料理も必ず、自ら口にすると言われている…………
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「――陛下、お話がございます」
「エディスか。どうしたのだ」
「わたくしの可愛い妹について、このような新聞記事が出た件ですわ」
「ああこれか。噂は聞いている。取り立てて批判が書いてあるでもなし、問題はないだろう。そろそろ臣民にもフィリアとヒースクリフの為した功績が知られても良い頃合いだ」
「わたくしもそうは思いますけれど、ディウム教国がどう出るか分からないではありませんか」
「結婚して七年……いや、もう八年か。それほど経ったのだぞ? 愛する夫と子がいて、押しも押されもせぬ大公妃だ。今更聖地に囲おうとは思っておらぬだろう。強硬派の中核だったラナール元枢機卿と取り巻きの者共も、まとめて掃除されている」
「ですが……フィリアのおかげで、我がベルーザがより豊かで強く、幸運な国となったのも事実でございましょう?」
「なに、どれもこれもフィリアの知恵と勇気が生み出したものではないか。ヒースクリフも言っていたが、あるかどうかも分からぬ〈守護〉の魔法とは一切関係ない。これからも大切に守っていくさ……国王としても、義兄としても」
「あら。わたくしだって王妃として義姉として、全力を尽くしますわよ」
「おっと……国王たる余と張り合うつもりかな、最愛の妃よ?」
「女同士の付き合いに嘴を挟んではいけませんわ、わたくしの横暴な陛下」
「……そなたには敵わぬなあ。この辺りにしよう、ディランに睨まれる」
「怖い侍従長ですものね。まあ、もしもフィリアにちょっかいをかける命知らずが現れたら歓迎して差し上げましょう」
「そうだな。ヒースクリフが叩き潰した後、息が残っていればで良かろう」
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「ヒースクリフ……いいや大公殿下よ、本当に大丈夫か? この記事」
「意外とアルヴィオは細かくて気が小さいなぁ。殿下は知ってるに決まってるだろう」
「うるさいぞレオニス。おまえが雑なのだ」
「問題ない。青花宮の者達も、俺やフィリアが許可したから記者の質問に答えたんだ」
「よく許可を出したな」
「フィリアがね、記者も人間だから付かず離れず適度な関係をつくった方が良いと言っていた」
「おー、さすがフィリア妃。目の付け所が素晴らしいねえ」
「レオニスは意外とフィリア様に甘いな」
「別に僕だけじゃないさ。魔法塔でもフィリア妃を天啓の女神として崇拝する者は枚挙に暇がない」
「なんと曲者に好かれる御方だ……」
「アルヴィオだって美人の嫁を紹介してもらって頭が上がらない癖に」
「それとこれとは別だっ。レオニスこそメアリ嬢とはどうなっている」
「僕とリンデールは共に魔法の高みを目指して研鑽し合う同僚であって、君らが邪推するような低俗な間柄ではない……それより、この記事の内容が広まるとフィリア妃の周りがもっと騒がしくなるんじゃないかい?」
「うむ。アストニアの王家もここのところ不祥事ばかりではないか」
「あーアレか。『フィリア妃から第二王子を寝取った魔性の女サーラ・オルダン伯爵夫人! アストニア国王をも毒牙にかける!!』だっけ? 息子が夫の子供じゃなかったんだけど、父親は国王陛下だとか言い出して騒ぎになってるらしいね」
「レオニス、それはアストニアで一番えげつない大衆紙の飛ばし記事だぞ。オルダン伯爵と夫人は領地に押し込められているから、さすがにその可能性は低い。まあオルダン伯爵家の使用人複数やら出入りの商人やら、父親の候補が多すぎて絞りきれんようだが……」
「うわあ下半身だけで生きてるね! 病気とか怖くないのかな、信じられない人がいるものだ。婚外子になる子供は可哀想だけど」
「いや、ロニアス……オルダン伯爵は入婿だ。夫人の子でありさえすれば、後継ぎにしても問題はない。前伯爵が引き取って教育を施すようだ。フェルナンの手紙に書いてあったよ」
「ふーん……前伯爵って商売は上手でも子供の教育は大いに失敗してるよねえ? よく言うよ」
「教訓を生かして、厳しい教師を雇う必要があるだろうな。いずれにしろ他所の国の話でフィリア様は直接関係ないんだが、こじつけようとする輩もいるぞ」
「ある程度は仕方ない。俺もフィリアも承知の上だ。最近は家族でウィンディアスに引っ込んでいて、王都にはあまりいないから大丈夫だろう」
「用心は怠るなよ」
「何かあれば僕らに相談してくれていいんだよ、大公殿下」
「ああ、もちろんだ……ありがとう、二人とも」
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「――ただいま、フィリア…………って、それは何を飲んでいるんだい?」
「あら、クリフ。おかえりなさいませ! これはですね……聞いて驚け、素敵な失敗作ですわ」
「失敗作」
「新聞記事と違って現実の私は失敗もするのです。このインフェルノベニイロトカゲはコラーゲン……美肌に良いスープが取れそうなので、毒抜きして煮出してみたのですが」
「触ると皮膚がかぶれるトカゲだと思っていたけど、よりによって美肌なのか……しかし凄い色だ」
「真っ赤ですものね。ミザが昼寝中で良かったわ」
「興奮して色水遊びを始めるだろうね。青花宮が赤花宮に染まってしまいそうだ」
「ですわね。……色もですけど、加工しても独特の臭みが取れなくて。飲めないほどではないですが、化粧品か入浴剤にした方が良さそうですわ」
「ふむ……俺もどく……味見していい?」
「また毒味ですの? 大丈夫ですし美味しくありませんのに」
「君が飲むなら俺もそうしたいんだ。どれどれ……なるほど、不味い。もう一口」
「青汁の宣伝ですか?! 悪食ですわ!!」
「本命の口直しもしていいかい?」
「おまけに腹黒な策士!……ですが生憎、私の唇も今インフェルノベニイロトカゲの味しかしませんわよ」
「問題ない。そのうち甘くなるよ」
「口直しを何回するつもりですの! 本当に悪食ですわ!!」
「だって君がかわいいから。――愛しているよ、フィリア」
「既にショコラよりスウィートとか詐欺ではないかしら……」
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……一説によれば、未知の食材へ最初に手をつけるのは常にウィンディアス大公の方であるため「真の『悪食』は大公でありフィリア妃は夫に従っているだけ」とされることもあるが――
長らくフィリア妃に仕え、現在は青花宮侍女頭でもあるヨランダ・デルノエ夫人によれば、大公は妃のために率先して自身が毒味役を務めているようだ。
〈毒無効化〉という強力な生得の魔法を所持しているとは言え、仮にも王族に生まれた大公の行いとして非常に異例と言えよう。
デルノエ夫人もこのようにコメントしている――『溺愛、ここに極まれり』と。
――振り返れば大公が臣籍降下する前、まだ王弟の座にあった一時期『氷』と呼ばれていたなど、最早遠い過去となった。
偶然出会ったアストニア女性に一目惚れして妃に迎えたことは有名だが、結婚して八年弱が経った今も新婚同様のお熱いお二人である。
大公夫妻にあやかって結婚式に白いドレスを着る花嫁が増え、あの有名になった誓いの言葉「病める時も健やかなる時も……」もよく耳にする。
……このようにフィリア妃が我が国にもたらしたものは大なり小なり多岐にわたる。
王弟の婚約者であった頃から新たな文化を創造し続け、今日のベルーザの黄金時代を築き上げた革新的な人物の一人であろう。
この他にも彼女は妖精を手懐けている、王太子クリストハルトと双子の妹である第一王女エレーヌの命を救ったなど、幾つかの奇跡を起こしたことがある……と囁かれているものの、公式には認められていない。
しかし表向きの功績だけでも大きく、密かに「ベルーザの聖女」「森の女神」とも呼ばれているが――
「私はそんな大した人間ではありません。ただ悪食というだけですわ」
フィリア妃自身は、このように述べるのみである。
現在、我が国は大公夫妻をはじめ、国王陛下ご夫妻もたいそう仲睦まじく。
森の彼方にあるどこぞの王国とは異なり、無粋な不祥事が湧いて出る隙間は無いようだ。
まことに結構なことではないだろうか?
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「あーー! おとーさま! おかーさま! ずるーい!!」
「み、みみみミザ?! えっとこれは」
「起きてしまったのか……うん、おやつの時間だね。お姫様のおなかの時計はとても正確だ」
「おとーさま、おかーさま! ミザも! ちゅーして! ぎゅーして! ほっぺスリスリもしてーー!!」
「ん、もちろんだ。じゃあお父様から。お母様はレモン水でも飲んでからにしようか?」
「だ、だだだ大丈夫ですわ! 少しびっくりしただけで! 危なかったですけれど大丈夫ですわ!! 大好きよミザ!!」
「大好きだよ、ミザ。……フィリアもね」
「何回も言いすぎですわクリフ……!」
「えへへ〜!! ミザもね、だいだいのだーいすき!!」
「……でも扉を開ける前にノックはしましょうね。はあ、ルイーズ先生に礼法の教師をお願いしたら叱られるかしら……」
「ははは……でも、幸せな悩みだね」
「ええ、そうね……幸せですわ」
「君のおかげだ。愛しているよ」
「いいえ、私こそ。愛しているわ」
〈終〉
読んでくださった皆様、ありがとうございました。
番外編(アルヴィオやフェルナンの話)はまだ書けそうですが、これにて本編は一旦完結といたします。




