EX.消えた聖女(sideヒースクリフ/後編)
フィリアとロニアスは幼い頃から婚約していたが、政略的なもので互いに愛情はなかったという。
今、二人を見ていても全く温かさはない。
ロニアスはフィリアを愛していると言い張っていたが、目つきや態度を見れば見るほど、実際にはフィリアを見下しているのが分かる。
口先だけでも愛をささやいておけば、フィリアは喜んで言うことを聞くとたかをくくっていたんだろうな。
何しろアストニアにいた頃の彼女は、献身的にロニアスへ仕えていたようだから。
今はもう違う。
フィリアはすがられても絆されるどころか、心底嫌がっている。
ざまを見ろとしか思わないな。
ロニアスは新しい婚約者の令嬢とも上手く行っていないそうだが、相手を大事にしないからだろう。
だが……少しだけ嫉妬もあった。
彼等が共に過ごした時間に。
『あの人は一口も食べないと思います』
フィリアとロニアスの婚約期間は長かった。
なんだかんだ言って、彼等はお互いをよく知っている……それゆえの甘えがあるんじゃないだろうか。
ロニアスは強張った表情をしながらも諦め切れない様子だ。
俺は駄目押しをしておくことに決めた。
隣に座っているフィリアの肩を抱き寄せる。
そして頬に……いや、限りなく唇に近い場所へ、キスを落とした。
「――――!!??!?!?」
一瞬で真っ赤になるフィリア。
かわいい。
ベルーザではこの程度、人前でも普通だ。
むしろ、しないと不仲説が出たりする。
俺はフィリアに合わせて、公の場では手を握るくらいだったが……
今まで「氷」と呼ばれるほど女性を遠ざけていたので、そんな俺がフィリアと片時も離れない時点で誤解はされていない。
一方、フィリアは手を握っただけでも頬を染めるのが可愛らしい。ベルーザの貴族女性には、あまりいなかったタイプと言える。
『新しい性癖に目覚めちまった男がいっぱいいて……隙あらばフィリア様に近付いてくるもんで護衛は気が抜けません』とライルがぼやいていた(無論、全員薙ぎ払えと命じておいたが)。
そんな訳で、珍しい場面を目撃したアリオット侯爵夫妻やウルクス師長、アルヴィオ達はそろってニンマリした。
当然ながら非難の色はない。
アストニア貴族のフェルナンは……さすがに目を吊り上げたが、空気を読んで黙っているな。賢い義弟で頼もしい。
間抜けな顔になっているロニアス達に向かって、俺はフィリアの肩を抱いたまま社交用の笑顔で言ってやった。
「そうだね、俺は完全に彼女の虜だ。フィリアは自分のことを食い意地が張った悪食な令嬢だと思っているようだが、そんなところも可愛くてたまらない。美味しく頂いてしまった俺の方が、ずっと悪食なのではないかと思うよ」
よっぽど勘の悪い人間でなければ察するだろうな。
俺達は既に、深い関係なのだと。
「クリフ! 何をおっしゃるの――――あっ、ちょ、ちょっと!」
フィリアが首筋まで赤くして否定しようとするので、今度は頬ずりで黙らせた。
「そういう場合じゃないでしょう?!」と小声で抗議しつつ、わたわたしている。
ああ、かわいい。
本当に食べてしまいたい。
ガタン!という音がした。
ロニアスが椅子を蹴倒して立ち上がっている。
「フィリアッ! お前……お前……まさか……その男に、肌を許したのかッ?!」
やっぱりな。
思い込みの激しい奴が勘違いした。
……させたとも言う。
自分はフィリア以外の令嬢を侍らせていた癖に、都合の良いことだ。
フィリアもロニアスの表情を見て、俺の策略に気付いた。
頬を薔薇色にしたままモジモジして――ここは演技ではなく地だ――目を伏せて言う。
「――嫌ですわ、ロニアス殿下。皆様の前で下品なお言葉を口にしないでくださいませ、アストニアの品格が疑われてしまいます。もう、恥ずかしいったらありません」
彼女も上手いな。
俺と関係を持ったと明言はせず、しかし思わせぶりな態度を取ってみせた。
この場合、否定しなければ認めたのと同じだが。
赤くなって動揺しているのも「俺がとんでもない嘘をついたから」ではなく「いきなり夜の事情をバラされたから」に見えるだろう。
ロニアスの勘違いは深まる一方という訳だ。
「ご、ご、誤魔化すな! どうなのか答えぬか!!」
「ですから、恥ずかしくてとても口にできないと申し上げているではありませんか……私だって一応、嫁入り前の令嬢でしてよ……?」
フィリアはますます恥じらってみせ、ロニアスはますます青くなる。
「でも、そうですわね……あえて申し上げるなら、女に生まれた身ですもの。心より愛する男性に『特別な甘いデザート』を差し上げるのは当然のことではなくて?」
その言葉も嘘ではないな……
寝る前に二人でお茶を飲んだり、甘いものをつまんだりもしている。
フィリアが考案したアイスクリームやチョコレート、華やかなケーキなど、他にはない特別な菓子を一緒に食べられる――――
これも今のところ、俺だけの特権と言える。
妖精パックが飛び入り参加する日もあって健全そのもの、ロニアスの下世話な想像とは違うだろうけれど。
やくたいもないことを考えた俺の隣で、フィリアはずばりと切り捨てた。
「いい加減になさいませ。今のロニアス殿下、ズィーゲルフロッグの背中にあるぬめりよりも気持ち悪いですわ」
蛙以下か、なるほど。
………………。
俺も今後、よく気をつけよう。
✳︎✳︎✳︎
「――くっ、フィリア嬢!! なんという恥ずべきことを! 神がお認めになりませんぞ!」
しつこいロニアスを撃退したと思ったら、ラナール枢機卿が食ってかかってきた。
聖人や聖女の力……〈守護〉の魔法は、別に純潔でなければ使えない訳ではないらしい。
ただし俺と深い仲だとなれば、枢機卿と言えども簡単に引き離せなくなる。
ラナールは危機感を持ったんだろう、柔和さを捨て、あからさまに脅しをかけてきたが。
「私が望むのはヒースクリフ殿下の妻になることです。〈守護〉の魔法も持っていませんし、ひいおばあ様は私が生まれる前に亡くなられていて本当に聖女であったどうかも分かりません。あまりに畏れ多いことでご辞退申し上げます」
フィリアはちっとも怯まなかった。
俺が昼食会ぎりぎりで青花宮へ戻ってきたので、フィリアにはディウム教国に狙われている理由をまだ話せていなかった。
前触れもなく聖女の子孫だと聞かされて驚いたはずなのに、即座に立ち直ってみせたんだ。
「この世で最高の栄誉を捨てるのですか?!」
圧力をかけたラナールの方が動揺しているな。
「もっと大切なものがございますので」
そう言って俺を見上げてくる、黒い宝玉みたいな目。
愛情と信頼できらきらと輝いていて、俺は一も二もなく微笑んで額にキスをした。
女神に選んでもらえたことが誇らしかったよ。
そこに思わぬ闖入者が現れた。
『――――ちょっと待ったぁ〜! 腹ん中真っ黒のきたねーオッサンが、おいら達の大事なフィリアにさわるんじゃな〜い!!』
自分の庭先で起きた騒ぎに気付いた妖精パックだ。
『おいらはフィリアと、フィリアがつくった庭を気に入ってるんだぞ! さすがに黙ってられないぜ〜!』
ふよふよ飛んできたパック……俺には大きな蛍みたいな、金色の光球にしか見えないんだが……は、光る粉のようなものをラナールに浴びせた。
するとラナールは激しく咳き込んでくしゃみを乱発し、しまいには教皇の悪口や自身の企みをぼろぼろと喋り出した。
どういうことだ?!
『えっへっへ〜、こいつは自分のココロに素直になって、な〜んでも喋りたくなっちゃう妖精の魔法の粉さぁ!!』
………………。
パックの助力はありがたいが、なんて恐ろしい粉なんだ。
ラナールは自分がまずいことを言っている自覚もないのか、得意げに喋っている。
……フィリアを「聖女の子孫」どころか聖女そのものに仕立て上げ、自分の手駒にしようとしていた?
しかも穏健派の現教皇を押し退けて、自分が成り代わるつもりだった……だと?
他国のこととは言え、立派なクーデター未遂だな。
俺はライル達に合図してラナールを連れ出させた。
――決着がついたな。
ラナールが排除されればロニアスとフィリアの婚約破棄が確定し、新たに結んだ俺とフィリアの婚約が完全に有効となる。
ついでにロニアスがサーラとか言う頭や尻の軽そうな令嬢と結んだ婚約も。
どう頑張ってもひっくり返せなくなった訳だ。
ようやくロニアスも理解したようで、茫然としたまま退場していった。
……兄上やフェルナンに話をつけて、とっととアストニアへ送り返してしまおう。あの役立たずな外交官も一緒に。
アレでも他国の王族、手荒な扱いはできない。
こっちに迷惑をかけないならば、あとはアストニアの問題だ。
俺は他の招待客達に、この場で騒ぎが起きたことを詫び、同時に他言しないよう依頼して散会とした。
元々、俺達に好意的な者ばかりだから大丈夫だろう。
これでよし。
後は――――
俺は、テーブルの上を片付け始めた侍女に声をかけた。
「ああ、少し待った。その料理は持っていかなくていい」
「はい?」
ロニアスが食べなかった料理を指さすと、侍女は不思議そうに首をかしげる。
「俺が食べる」
「ええっ?! で、殿下が、でございますか?!」
「何をおっしゃっているの?! 貴方に残り物を食べさせるなんて!!」
侍女ばかりか、横にいたフィリアまで悲鳴を上げている。
そんなに驚くことか?
「フィリアの手料理だろう? 俺だって一度しか食べたことがない。他の奴にやれるものか」
こういう会食の残り物は使用人に下げ渡され、彼等のちょっとした楽しみになる。
分かっているが、手料理は別だ。
「ま、待って。あの料理はちょっと……万が一を考えて仕掛けがしてあって」
フィリアが一生懸命説明してくれた。
……ロニアスは偏食家で、知らない食材など食べないはず。しかし念には念を入れて、奴の苦手な辛い味付けにしてあるという。
「『私を愛しているなら残さず食べられますよね?』みたいに言っておいて、最初から完食させる気はなくて。プライドの高いロニアスに恥をかかせてやろうという、ひじょ〜に陰険な嫌がらせだったのですわ!」
……可愛らしい仕返しだな、と思ってしまう俺はおかしいのだろうか。
しかも詳しく聞くと「絶対に食べられない辛さ」ではなく「根性を入れれば食べられなくもない辛さ」のようだ。
追い詰められたロニアスが完食したら、どうする気だったのか……
あの甘ったれた男がそこまでしないと読み切っていたんだろうけど。
面白くない。
非常に。
「……いや、君はとても優しいよ。俺なら遅効性の致死毒を盛るぐらいはする。それでも食べるけど」
なあフィリア、君はロニアスの仕業で闇の森に捨てられて、危うく命を落とすところだったんだぞ?
心が綺麗すぎないか、俺の婚約者。
女神か聖女だな。
――ラナールの動機と手段は間違っていたが、フィリアは実のところ聖女と呼んでも差し支えない存在ではあるんだよな……
「……自分でも食べられない辛さにするのは、悪食のプライドがありまして……いえ、毒はやり過ぎです! いくら貴方に〈毒無効化〉があるからって! とにかく絶対に駄目!」
畜生、ロニアスめ。
やはり帰り道に、殺る気に満ちあふれた盗賊団でも仕込んでおこうか。
やや不穏な思考を巡らせているうちに、フィリアは俺の腕を引っ張って青花宮の中へ入り、ずんずん歩いていく。
「……そんな無茶を言うなら私にも考えがありましてよ?」
……え?
いつの間にかフィリアの部屋の前にいた。
ドアが開いて俺とフィリアを通して、背後で、ぱたんと閉まった。
二人っきりでヨランダもアリスもいない……
すると――――
ふわりとフィリアが抱きついてきて、耳元でささやかれた。
「悪食な私の殿下。どうしても食べるとおっしゃるなら……『特別な甘いデザート』にしてくださいませんか?」
「?! フィリア…………」
俺の密かな悩みを一撃で吹き飛ばしに来た。
思い切りが良すぎる。
フィリアも知識の上ではベルーザの歴史や風習を学んでいるが、自分が既成事実をつくろうなんて考えもしなかったようだ。
うん。
そういう君が好きなんだ。
だから言わなかった。
でも、フィリアも真実を知ってしまった。
今回はパックの介入もあり、ラナールを追い払うことができた。
だが、本当にフィリアが聖女の子孫であり本人にも隠された能力があるとディウム教国側にバレてしまったら……また妨害が入るだろう。
もちろん秘密にはしている。
しているけれども、秘密というのは常に、明らかになってしまう危険をはらんでいる。
わざわざ俺達が深い仲だという嘘話をしたのも、ロニアスだけではなく教国への牽制だった。
結婚式まで、これで押し通すつもりだったんだ。
ところがフィリアは嘘はいけない、いっそ本当にすべきだと考えているらしい。
「手段を選ばず」って言ってたものな。
……責任感が強すぎないか?
フィリアらしいけども。
だが、ちょっと待ってくれ……
そうじゃなくて……
我ながら情けなく固まっていると、フィリアが柔らかなキスをくれた。
駄目だ、かわいい。
ここで流されてはいけないと思うのだが、フィリアがかわいい。
――いや、うん、俺は甘いものに限らずフィリアと一緒に食べるなら、何でも美味しいと思えるだけだ。
君がいないと意味がないんだ……
………………
…………………………
………………………………………………。
俺はつくづく思い知った。
王弟の身分だとか、歳上なのにとか、余裕があるとか、あるいは無いとか。
そういうものを剥ぎ取られてしまった、ただの男が。
女神に敵う訳がなかった。
✳︎✳︎✳︎
――翌朝、まだ眠っているフィリアの顔を見つめて決意した。
一日でも早く結婚式を挙げてしまおう、と。
かわいくて、勇敢で、悪食な俺の恋人。
どこかの貴族家の養女に入る必要はなくなった。
兄上も皆も反対しないだろう。
その日から結婚式に向けて奔走することになった。
ただでさえ公務が立て込んでいるのに、自分で仕事を増やすなんて馬鹿かもしれないが俺は本気で取り組んだ。
忙しすぎて、肝心のフィリアとも滅多に顔を合わせられなかったくらいだ。
不謹慎と言われようがなんだろうが、寝室を一緒にしておいてよかったと思ったな。
深夜に帰ってくると、さすがにフィリアも寝入っていることがほとんどだが……
彼女の隣へ潜り込み、そっと抱きしめて眠るだけでも満たされるんだ。
そうやってフィリアを補給しながら、飛ぶように日々が過ぎていって――――
やがて、とうとう結婚式の日がやってきた。




