きっとわたし、あなたのこと
もう恋愛なんてこりごりだ。
そう口に出したことはなかった。ほぼ確実に理由を訊かれるだろうから。
わたしは別に、何かを語りたいわけではなかったのだ。
告白をされても、ごめんなさいと頭を下げる。今は恋愛よりも優先したいことがあるんです、と大嘘をつく。
女子校だったから出会い自体少なかったけれど、高校三年間はそれで乗り切ってきた。
……高校三年間、は。
大学一年生になった今は、状況が変わったのでした。
* * *
「玖須さん、今日この後お暇ですか?」
「ごめんね、今日は絵画教室に行く日なんだ」
「明日はいかがですか?」
「明日はオーケストラ部の練習があって……」
「そうですか……」
しゅん、と落ち込んだ顔をするのは、英語の授業で同じクラスになった笹塚くん。誰に対しても常に敬語で礼儀正しいが、意外とぐいぐい来る性格でもある。
百九十センチもある長身に、あまり動かない表情。切長の目は、正面からじっと見られると睨まれているようにも感じる。
正直少しだけ近寄りがたい雰囲気の子だが、いい子であるのは確かだった。
……そして、どう考えてもわたしのことが好き。
勘違いだったら恥ずかしいけれど、わたしと話すときは表情がやわらかくなるし、何より、今みたいなお誘いがすごく多い。
正直、少しだけ困っていた。何せいい子なものだから、好意に応えられないことが苦しいのだ。
「……明後日なら、三限の授業が休講になったから少しは時間があるかも。笹塚くんは?」
だからこうやって、良くないと思いつつも妥協案を出してしまう。
応える気がないのなら、気のある素振りなんてほんの少しもしてはならない。……わたしの、世界一可愛くて美しい親友から学んだことの一つ。
わかっていても、中途半端なわたしは上手く実行できなかった。
笹塚くんはぱっと顔を輝かせた後、何かに気づいたかのように一瞬固まった。
「だい……じょうぶです」
「……本当に?」
「必修では……ないので…………」
「笹塚くん、授業サボったことないでしょう」
「なんで知ってるんですか?」
「ふふ、やっぱり。そういう感じする」
わたしもしたことないからお揃いだね、とは言わない。そこまで言うのは友達以上の距離感だから。
「授業をサボったこともない人は……いや、すみません、なんでもないです」
しゅんとした顔で、笹塚くんは何かを言いかけてやめた。彼は結構慎重に会話をする人だった。
……そしてたぶん、自己評価が低いタイプなんだろうなぁ、というのも、ここ数ヶ月で察していた。
それでもわたしに声をかけてくれるのは、きっとすごく勇気を振りしぼった結果だ。
そう思うと余計にむげにできなかった。
「慣れないことはしないほうがいいよ。無理しないで」
「ですが、せっかく玖須さんと一緒に過ごせるかもしれなかったのに……」
素直な言葉に、笑顔を保ったまま少したじろぐ。元彼がこういうことを全然言わないタイプだったということもあり、気恥ずかしいというか、戸惑うというか、なんていうか。
……困ってしまう。
「……また次の機会にね」
「お忙しい玖須さんと予定が合うなんて、そうあることじゃないじゃないですか」
「あはは……そうだね……」
彼のために時間を空けようと思えば空けられる。そのくらいの余裕はあるから、罪悪感がちくりと胸を刺した。
「それじゃあ、ごめん。そろそろ帰るね」
「はい、また明日。お気をつけて」
「ありがとう。笹塚くんもね」
「ありがとうございます」
たったこれだけで嬉しそうに笑ってくれるから、わたしもつい笑ってしまう。
……こういうのもよくないって、わかってるんだけど。
* * *
恋愛をしたくない理由は、かつて散々な恋愛をしたことがあるという、ただそれだけの話。
初めての彼氏が、わたしの親友に恋をしてしまった。わたしの親友はそれはもう可愛くて綺麗で素敵な子だから、正直その気持ちはわかる。
だけど、その結果が最悪だった。
わたしとまだ付き合っているのに、わたしの目の前で親友に――瑞姫ちゃんに告白して、断られてもしつこく迫って。
そのせいで、瑞姫ちゃんはわたしに変な罪悪感を持ってしまって、二年以上、顔を合わせることすらできなかった。
それが本当に、本当につらかったのだ。
あんな男と付き合ってしまったわたしを、もはや殺してしまいたい気分だった。
瑞姫ちゃんは本当に素敵な女の子だから、わたしがまた彼氏を作ったら、同じようなことになる可能性は否定できない。
わたしのことを嫌いにならない限りは、もう避けないでほしいと伝えてはあるし、約束もしてくれたけど……瑞姫ちゃんは変に空回ることがあるから、どうなるかはわからなかった。
――だからわたしは、もう二度と恋愛なんてしたくない。
わたしにとっては、瑞姫ちゃんとの友情がこの世で一番大切なものだった。
『また次の機会』、は案外早く訪れた。
あの会話から一週間後、英語の授業が急遽休講になったのだ。
教室に入ってから人の少なさを不審に思い、校内システムの掲示板を確認したら、つい十分前に休講のお知らせが出ていた。お、遅い……。
空き時間は図書室にでも行くかな、と思っていたら、ちょうどやってきた笹塚くんと目が合ってしまった。
――そして現在、わたしと笹塚くんは、大学近くのパンケーキ屋さんで向かい合って座っている。
さすがに今日は、断れる理由がなかった。
「今日はお付き合いいただきありがとうございます」
律儀に頭を下げる笹塚くんに、「いえいえ、そんな……」と恐縮する。
「こちらこそ誘ってくれてありがとう。このお店、気になってたんだ」
「僕もです。男一人だと入りづらくて、助かりました」
甘いものが好きなんだろうか。笹塚くんはいつもよりもにこにこしていた。
わたしは一番シンプルなパンケーキを、笹塚くんはうさぎの形のパンケーキを注文した。
届いたパンケーキを見て、笹塚くんは目をきらきらさせながら写真を撮る。
「あ、すみません、玖須さんのほうは写していませんので……」
「うん、お気遣いありがとう」
「いえ。……かわいいな。来れてよかったです、ありがとうございます」
パンケーキに再び視線を落とし、笹塚くんはやわらかく微笑んだ。
当たり前かもしれないけど、独り言は敬語じゃないんだな、と思う。
「うさぎがすごく好きなんです。昔飼ってたんですよ。パンケーキも好きなので、もうこれは絶対食べたいなと……あ、そうだ。あの、もしも玖須さんがうさぎをお嫌いでなければ、写真を見せてもいいですか?」
弾んだ声音でスマホを握る笹塚くんは、なんだか小さな子どもみたいだった。
うさぎはわたしも好きなのでうなずくと、笹塚くんは嬉々とした雰囲気で(表情はあまり動いていない)スマホの画像フォルダ『ぶーちゃん』を見せてくれた。ブタさんみたいな名前だなぁ。
フォルダ内の大量の写真はどれもこれも可愛かった。
薄い茶色の、ふわっふわの垂れ耳うさぎ。
「か、かわいい……!」
「はい、かわいいんです。すごくかわいくていい子でした」
懐かしむような声に、寂しさや悲しさは滲んでいない。さっきの口ぶりからして、きっともうこの子はこの世にいないのだろうけど、それでも愛おしさばかりを感じる声だった。
この子のこと、本当に好きだったんだろうな。
優しい顔で画像を見ていた笹塚くんが、ぽつりとつぶやく。
「玖須さんって、この子に似てるんですよね」
――思考が止まった。
止まってから、ゆっくりゆっくりと動き出す。
「……あ。あー。そう、いう」
そういう。そういう、『好き』。
大好きなペットに似ているなら、それは確かに対応がやわらかくなるし、仲良くだってなりたくなる、よね。
つまり笹塚くんは別に―― わたしのことが恋愛的な意味で好きなわけじゃなかったんだ。
は……は、はずかしい、どうしよう、どうしよう恥ずかしい。
かああっと顔が赤くなるのがわかる。熱い。
勝手に勘違いして、中途半端に距離を取ったりして、笹塚くんを傷つけて。なんてことをしてしまったんだろう。
ごめん、という謝罪の言葉はなんとか呑み込んだ。ここで勘違いを謝罪したら、きっと笹塚くんまで恥ずかしい思いをする。
だから、わたしがするべきなのは、適切な距離を保ちつつ、今後はきちんと友人としてお付き合いをすることだ。
「玖須さん? どうかされましたか」
「う、ううん、なんでもないの。ちょっとこのお店、わたしには暖房が効きすぎてるのかも」
頬に手を当てる。やっぱり熱い。
ほんのりレモンの味がする冷たいお水を飲んで、一息つく。
「……そうだ、笹塚くん。連絡先交換しない?」
罪滅ぼしのように、そんな提案をしてみた。
授業で会ったときに何かお誘いを受けることはあっても、連絡先を聞かれたことはなかった。
もしかしたら笹塚くんは別に知りたくないのかもしれないけど、友人になるのであれば、連絡先は知っておいたほうが便利だ。
しかし笹塚くんは、「れっ……!?」と目を見開いた。
「い、いえそんな! 恐れ多い、駄目です」
「恐れ多い……?」
――あれ? これ、どっちだろう。
思った反応と違って、困惑してしまう。
勘違いじゃなかったのかな。ペットに似ているから仲良くなりたい、というだけであれば、恐れ多いなんて言葉は出てこないような気がする。
「玖須さんは、皆さんの憧れなので……本当なら、こうして二人で出かけるのもおこがましいというか」
「そんな大層な存在ではないんだけど……」
瑞姫ちゃんに見合う人間であるために、いろんな分野で努力を重ねてきた自負はある。学内では比較的有名人として扱われていると感じてはいたけど、笹塚くんは大げさに言いすぎだ。
「こうして今話してるだけでも、非常に緊張していまして……だけどどうしても、すごくぶーちゃんに似ているので! お話したくて! あ、あの、うさぎに似ているというの、もし不快だったらすみません……!」
あたふたと謝ってくる笹塚くんに、「それは大丈夫」と否定しておく。
だけど……どっちかな……わからなくなってきた。恋愛的意味で好かれているのなら距離を取りたいけれど、ペット的意味で好かれているのなら、それは別にいい。
恋愛にさえならなければ、なんだってよかった。
「これからも……時々、こうしてゆっくりお話しできれば嬉しいです」
……だけどこのまっすぐさは、すごく好ましい。
「うん。時々、でよければ」
うなずいたわたしに、笹塚くんは「ありがとうございます」と微かに笑った。
いい子だ、ほんとに。
だから、どうか、わたしのことを好きにならないでほしい。
「玖須さんの好きなものや、大切なもののお話も、よければ聴かせていただけると嬉しいです」
「……それじゃあ、わたしの親友の話でもしようかな?」
「かの有名な親友さんのお話ですね、ぜひ」
「かの?」
「親友さんの話をしているとき、玖須さんが本当に楽しそうにされるというのは有名なので」
「……そ、そうなんだ」
なんとなく身を縮めてしまう。
わたし、瑞姫ちゃんのことそんなに話してたかな……。瑞姫ちゃんのことを特定できそうな話題は出さないように気をつけていたから、薄い内容の話しかしていないはずなんだけど。
笹塚くんは、にこにことした雰囲気でわたしが話し始めるのを待っている。
少し話しづらいけれど、話さないわけにもいかない。
小さく咳払いをして、わたしは口を開いた。大好きな親友の話なら、内容を薄めたって延々とできるのだ。
* * *
一年経っても、二年経っても。
三年経っても、笹塚くんとの距離感は変わらなかった。
そういう『欲』のようなものを感じることも一切なくて、ああやっぱり、恋愛じゃなかったんだなとほっとした。
数ヶ月に一回、大学近くでランチやスイーツを一緒に食べる。ただそれだけの友達。
彼はどこまでもまっすぐで、一緒にいるのがとても楽だった。
「玖須さん。その……い、一緒に動物園かうさぎカフェに行きませんか!」
そう誘われたのは、卒論を提出しにきた日だった。
まだ口頭試問が残っているけれど、卒論を出しさえすれば単位を落とすことはほぼない。
だからそろそろ遊びの予定を入れる人も多いのだろう。
「それは……卒業記念、みたいな感じかな?」
「そう、ですね……。玖須さんがお嫌でなければ」
緊張した面持ちの笹塚くんは、目つきがものすごく悪い。とはいえもうすっかり見慣れて、もはや微笑ましく思うくらいだった。
笹塚くんと一緒に、動物園とかうさぎカフェかぁ……。
卒業にかこつけた予定は、今のところ瑞姫ちゃんとのドイツ旅行しかなかった。習い事はいくつかしているけれどバイトはしていないし、授業がない期間は比較的忙しくない。
だから、行けてしまう。動物園もうさぎカフェも大学近くにはないので、今までとは少し違うお出かけ。
――笹塚くんとならいいかなぁ。
「うん、嫌じゃないよ」
「ほんとですか!」
うなずいたわたしに、笹塚くんは弾んだ声を出した。
なんとなく、目を細める。
いい子だな。同い年の男の子に、いい子だな、と感想を抱くのもおかしなことかもしれないけれど。
「では、ええっと……」
「もう授業も部活もないし、習い事があっても別の日に振り替えられるから、基本的にいつでも大丈夫だよ」
「そっ、それなら今からとかはどうですか!?」
「うん、大丈夫。動物園もいいけど、うさぎカフェのほうが気になるかな。笹塚くんは?」
「僕もうさぎカフェのほうが気になります! いっぱいふれ合えるらしいんです、楽しみですね」
笹塚くんの目元がふわりと優しくなる。わくわくしているのが伝わってくるけれど、きっとこれも、親しくない人には怖い顔に見えるんだろう。
電車で数駅移動して、小さなうさぎカフェに入る。
とりあえず一時間滞在することにして受付を終えると、部屋の中では何羽ものうさぎがぴょんぴょんと跳ね回っていた。
「か……かわいい……」
感動して固まる笹塚くんをふふっと笑って、わたしは先にドリンクバーで飲み物を取ってくることにする。笹塚くんのもついでに入れよう。リンゴジュースがいいはず。
笹塚くんの近くのテーブルに飲み物を置き、椅子に座る。
飲み物のことなんてすっかり忘れていたらしい笹塚くんは、はっとしたように「すみません、ありがとうございます!!」と小声で叫んだ。うさぎをびっくりさせないようにだろう。
「いいえ。……うさぎ、可愛いね」
「本当に……! 抱っこできないのが残念です」
ここのうさぎカフェは、抱っこは禁止。ただし、座っている膝などにうさぎが自分から乗ってくれた場合を除く。
笹塚くんはしゃがみ込んで、真っ白なうさぎの頭を指先で優しく撫でている。
壁に貼られているうさぎの一覧表を見ると、あの子はどうやら大福ちゃんというらしい。可愛いなぁ。
小さくてふわふわで可愛くて、自分から近づくのは少し怖い。
だからゆったりと飲み物を飲みながら、ただ眺めるだけにした。ためらいなくさわりにいける笹塚くんは強い。
そうしていると、このカフェで一番大きなうさぎが近づいてきた。とはいっても特殊な種類のうさぎというわけではなくて、単純に周りの子よりも大きく育ちすぎたというだけの普通の子だ。
綺麗な黒い毛並みのうさぎ。可愛いけれどなんだか目つきが悪くて、笹塚くんみたいだな、と少し笑ってしまった。
「……わっ、お膝に乗ってくれるの?」
ずしん、と結構な重量だった。黒うさぎは心地よさそうな顔で、わたしの膝の上で落ち着いた。
……瑞姫ちゃんに写真を送ったら、喜んでくれるかな。
うさぎの邪魔にならないよう、そうっと手を動かしてスマホのカメラを起動させる。ぱしゃり。
お礼代わりに背中を撫でたら、気持ちがよさそうに目を細めた。
「……あの、僕も撮っていいですか?」
「うん、どうぞ。あ、わたしの手とかは入らないほうがいいよね」
「いえ……で、できれば撫でているところを撮らせていただければ」
「あー、撫でられてる顔、可愛いもんね。わかった。こんな感じかな?」
黒うさぎの頭を、ゆっくり、優しく撫でる。笹塚くんはほわほわした顔で、その姿を写真に収めた。
「ありがとうございます……宝物にします」
「いい写真が撮れたならよかった」
「今までの人生の中で一番いい写真が撮れました」
「そんなに?」
くすくす笑うわたしに、笹塚くんは写真を見せてくれた。うっとりとした表情を浮かべているうさぎ。確かにすごく可愛く撮れている。
「……この写真、わたしももらっていい? 親友に見せたくて」
「し、親友さんに……!? いえ、わかりました、今送りま……そうなるとついに連絡先を交換してしまうことになるんですが……!?」
「連絡先くらい気にしないで」
QRコードを見せて、笹塚くんに読み取ってもらう。終始手が震えていたので笑ってしまった。
人といるときにスマホをいじるのも悪いし、帰ってから送ろうと思ったのだけど、どうぞどうぞ! と促されたのでお言葉に甘えた。
《玖須 月子:瑞姫ちゃん、こんにちは》
《玖須 月子:かわいいうさぎの写真送るね!》
《玖須 月子:今度瑞姫ちゃんともうさぎカフェ行きたいな》
同時に二枚の写真を送ると、さっそく既読がついた。
《みずき:可愛い写真ありがとう!》
《みずき:今日は誰と行ってるの?》
…………これはあまり詳細に説明すると、ヤキモチを焼かせてしまいそう。わたしが瑞姫ちゃんのことを大好きなように、瑞姫ちゃんも私のことが大好きだから。
大学の友達だよ、と無難な答えを返すと、《そっか、楽しんでね!》という返事がうさぎのスタンプと共に送られてきた。わざわざうさぎで合わせてくれたのが可愛い。
「喜んでくれましたか?」
「うん! ありがとう」
「いえ……こちらこそありがとうございます……」
崇めるような声音でお礼を言われてしまった。特に何かした覚えはないんだけどな……。
その後もうさぎに癒されて、きっかり一時間でカフェを出た。
卒論を提出したのは午前中だったので、ちょうどお昼時くらいだ。うさぎカフェにはドリンクしかなかったから、少しだけお腹が空いた。
「……よろしければお昼もご一緒しませんか!?」
「うん、時間もちょうどいいもんね。何か食べたいものある?」
「えっ……え、あの、え、えっと、」
一世一代の大勝負、みたいな顔をしていたのに、私があっさりうなずいたことに驚いたらしい。笹塚くんはあわあわと戸惑ってしまった。
「……く、玖須さんの食べたいものを」
「それなら、そうだなぁ。また少し電車に乗ることになるけど、好きなカフェがあるの。そこで食べるのはどうかな?」
「玖須さんのお好きなカフェに連れて行ってくださるんですか!? 僕なんかがいいんですか……!?」
問われて、はたと気づく。
行こうとしていたカフェは、私が通っていた高校の近くにある。それなりにおしゃれだけど、特に際立った特徴はない。
そのカフェが好きなのは、そこにある思い出が好きだからだ。――瑞姫ちゃんと、仲直りをした場所だから。
とても大切な場所に、自然と笹塚くんを誘っていた。
……どうして?
いや、別に誰も連れていきたくないなんて思ってはいないのだけど。
瑞姫ちゃんと仲直りして以降、あのカフェに瑞姫ちゃん以外の人と行ったことはなくて。
ないけど、でも別に、そこにこだわりなんてない。ないのだ。
それを特別なことだと思われてしまうのは嫌だった。
だけど、それ以上に、ここでやっぱりだめだと言って、落ち込む笹塚くんを見るほうが嫌だった。
「……うん、いいよ」
逡巡なんて微塵も感じさせないように、微笑む。笹塚くんはそれでも気遣わしげな目を向けてきたけれど、納得してくれた。
少しだけ移動して、大好きなカフェへ向かう。笹塚くんと二人で。
普段は全然混んでいないのだけど、今日は満席だった。SNSで話題になりでもしたのだろうか。
笹塚くんとおしゃべりをしながら並んで、中に入り――もう二度と顔も見たくなかった元彼を見つけて、足を止める。
なんで、ここに。
運の悪いことに、わたしが踵を返す前に向こうもわたしに気づいてしまった。
「え、月子!? 久しぶり!」
罪悪感や気まずさをまったく感じさせない笑顔。
気安く声をかけてきたその人は、向かいに座っていた女性を気にするそぶりもなく、わたしに近づいてきた。
「うわぁ、偶然だな。せっかくだし相席しないか? 店員さん呼べばたぶん席とか動かしてくれる――」
「結構です」
「そう? あ、じゃあ連絡先だけでも。月子、アカウント変えただろ。全然既読つかないし」
変えてない。ブロックしているだけだ。
「連絡を取る必要がありますか?」
「取りたいときに取っちゃだめなの?」
「だめです」
「えー……というかその喋り方何?」
「他人なので」
「付き合ってた相手にそんなひどいこと言う~?」
けらけらと笑うその人。
きもちわるい。
理解できない。
こんな人を好きだったわたしのことが。
「すみません、他のお店に行くので、後ろのお客様をご案内してください。笹塚くん、ごめん。せっかく並んだけどお店変えよう」
店員さんと笹塚くんに謝罪して、元彼にくるりと背を向ける。笹塚くんは「えっ、は、はい……」と戸惑ったような、心配してくれるような顔でうなずいてくれた。
そのままドアに手をかけたとき、元彼が驚愕の声を上げた。
「え、その人月子のツレだったの!? もしかして彼氏? ……めちゃくちゃ冴えなくない?」
――喉元で、醜い言葉がぐっと詰まった。
どんな言葉で罵りたいのか自分でもわからなかったけれど、わからないから詰まったのだけど、あらん限りの語彙で彼を傷つけてしまいたかった。
拳を握って、手のひらに爪を立てる。
怒りを抱く価値すらない人だ。わかってる。
だけどここで怒らないわけにはいかなかった。
怒りで熱くなる息をどうにか落ち着かせて、私は振り返って彼を睨みつけた。
「わたしの友達を侮辱しないで」
――ここで怒らなかったら、わたしは、笹塚くんへの侮辱を受け入れたことになる。
そんなの嫌だ。
絶対やだ。
「何も知らないのに失礼なこと言わないで。この子はとっても素敵な人だよ」
あなたなんかとは違って、と嫌味ったらしく言いたくなったけれど我慢する。
ここで彼を貶しめるのは、笹塚くんと比べているようで嫌だ。比べたくもないくらい、笹塚くんはいい子なんだから。
「さよなら。もう二度と会いませんように」
何か喚いている気もしたけれど、耳にも頭にも入れずに店を出る。笹塚くんも慌てたようについてきながら、後ろにいる彼に向かって叫んだ。
「あの! もっと人の気持ちを考えられる人になったほうがいいと思います! 玖須さんの顔もその女性の顔もまともに見ていないようなので!」
…………アドバイスなのか煽りなのか微妙なところ。笹塚くんなら、善意のアドバイスのつもりだとしてもおかしくない。
とにかく店から離れたくて、すたすた無言で歩き続ける。
大切なお店だったのに、嫌な思い出ができてしまった。今度また瑞姫ちゃんに一緒に来てもらって、こんな記憶は消してもらおう。
「……く、玖須さん」
遠慮がちに小さく名前を呼ばれ、はっとする。
どれくらい歩いただろうか。わたしはすっかり息を切らしていた。こんなに長く早歩きを続けたのは初めてかもしれない。
「ごめん笹塚くん、その……いろいろと」
何について謝ればいいのかもわからなくて、途方に暮れてしまう。
「最後、言い返してくれてありがとう」
「いえ……思ったことをついそのまま言ってしまっただけで……」
「……」
「……」
お互いに黙り込む。
もういっそ、このまま解散したいくらいだったけれど、ここは私が場を動かすのが筋だろう。
「えっと……あ、お昼、あそこのお店とかどうかな。ラザニアがおいしそう」
「……いいですね」
「そう? よかった。お腹すいちゃったよね、ごめんね」
「いえ、全然」
ぎこちなく、目に入ったラザニアのお店に二人で入る。
メニューを見ている間も、注文の品を待っている間も、食べている間も。ずっとぎこちない会話しかできなかった。
笹塚くんは不自然なほどに何も訊いてこなくて、それがありがたいような、逆に苦しいような複雑な気持ちだった。
会計を済ませ、外に出る。
駅まで着いたら、もうお別れ。私たちの電車は反対方面だ。
「……今日はありがとう」
楽しかった、と素直に続けられないことが申し訳なかった。
他に言葉も見つからなくて、仕方なく、ただの別れの言葉を口にする。
「それじゃあ、またね」
「――っあの!」
必死な顔だった。
「また、どこかにお誘いしても……いい、のでしょうか」
「うん、いいよ」
「……ありがとうございます」
また、沈黙。
わたしも笹塚くんもおしゃべりなほうではないから、もともと沈黙の時間は結構ある。普段なら気にならない沈黙も、今日はだめだった。
もう一度『またね』と言おうとして……とある確認を我慢しきれなくなってしまった。
「…………ひ、引いた?」
涙で声が濡れる。
ああ、最悪だ、瑞姫ちゃんの前以外で泣くなんて。笹塚くん、絶対困っちゃう。
「引いた……? とは?」
「……あんな、人として最悪な態度見せちゃって」
「いえ!!」
大声での否定に、びくっと肩を揺らしてしまう。周りの視線も集まって、そして散っていく。
笹塚くんはまた、「いいえ」としっかりと否定した。
「ありがとうございました。こんなことを言うと失礼かもしれませんが、僕のために怒ってくれて、嬉しかったです。かっこよかったです」
「……かっこ、よかった?」
どこが? どうして?
呆然とするわたしに、笹塚くんは優しく微笑む。その微笑みはきっと、彼のことをよく知らない人であっても『微笑み』と認識できるものだった。
「ますます、その……す、す、あの…………好きだって、おもい、ました」
――誰かに告白されるたびに、心の中がさあっと冷たくなるのを感じていた。
どうせその『好き』は大した感情じゃないくせに、と最低なことを思っていた。
だけど。
今はなぜか、全然心の中が冷たくない。
むしろぽかぽかしてきて、自分の感情が理解できなくて、声にならない無意味な呼吸を繰り返してしまう。
……なんで?
笹塚くんは、赤い顔でうつむいている。わたしの返事を待っているのかもしれない。
何か言わなければと気が急く。
でも返事って、何を言えばいいの?
普段なら一択だ。だけど笹塚くんには、どう答えればいいのかまったくわからない。どうして。
「……わたしのこと、やっぱり好きだったの?」
時間稼ぎについそう尋ねると、笹塚くんは目を見開いた。
「『やっぱり』!? 気づいてたんですか!?」
「き、気づいてたっていうか……一年生の最初のころは、そうかもって思ってて。でも全然そういうアピールとかもなかったし、気のせいだと思うようになった、んだけど……」
「そんなに前から……まさか気づかれているとは思いませんでした……」
「大分わかりやすかったと思う。結局気のせいだって結論付けたわたしが言うことでもないんだけど……」
ぽかぽか、心の中はまだ温かい。それどころか冷める気配もない。初めての感覚に戸惑う。
「わたし――恋愛なんてもうこりごりだって思ってたの」
初めてついでに、その言葉も口にしてしまった。
「さっきの人が元彼だってだけで、たぶん察するものはあると思う。詳しくは言わないけど、わたしの人生に恋愛はいらないって思うには十分な体験だった」
「……」
笹塚くんは、悲しい顔でうなずいた。振られる流れだから、じゃない。たぶん、過去のわたしのことを思って悲しんでくれているのだ。
そういう人だから、話したくなったんだろう。
自分のことなのに、他人事のように思う。自分の感情がこんなに理解できないのは初めてで、少し怖くさえあった。
「……恋愛はしたくないなって、今でも思うの。だけど」
言葉が止まる。わたしは何を言いたくて、『だけど』と言ったんだろう。
笹塚くんは、何も言わずに待っていてくれる。緊張している顔は、怖くて微笑ましい。
人を怖がらせやすい見た目であることを自覚しているから、彼の物腰はいつもやわらかかった。穏やかで、他人の喜ばしい出来事を素直に喜ぶことのできる人で、他人を尊ぶことが得意な人で、それで。
だから。
恋愛はしたくなくても……そんな笹塚くんと、なら。
「……だけど、笹塚くんとなら――怖くない」
そうだ。全然、怖くないんだ。
気づいて、びっくりして、同時に納得もした。
笹塚くんとなら、怖いわけがない。
瑞姫ちゃんもこんな気持ちだったのかな。まっすぐな男の子に絆されて、今でも仲良くお付き合いをしている親友のことを思う。
可愛くて綺麗で素敵でめんどくさくて意地っ張りで、優しくて臆病なわたしの親友。
彼女と同じような気持ちを体験できているのだと思うと嬉し――いや、瑞姫ちゃんを理由にするのはやめよう。
笹塚くんとなら恋が怖くないと思えている。その事実が嬉しい。
そこに、瑞姫ちゃんは関係ない。
「……僕は……」
わたしの言葉に、笹塚くんはきっと嬉しそうにしてくれると思っていた。
だけどなぜか、なんだか泣きそうな顔をされてしまった。
「玖須さんが初めの頃、どこかにお誘いするたびに困っていたこと、本当は知ってたんです」
「……え」
「玖須さんの優しさにつけ込んで、無理やり一緒にごはんを食べていただいていた、悪い奴なんです。きっとあの人と変わりません。さっき……好きって言ったのだって、玖須さんがそれを友達としての好きだと勘違いしてくれればいいって、そんなずるいことを考えました」
さっきの彼の言葉と表情を思い出す。
……あれはどこからどう見たって、私に恋をしていた。友達として、なんて勘違いできるわけがない。
「……そんなずるくて、悪い奴でも、大丈夫ですか? 怖くないですか?」
不安な面持ちで、彼は私の顔を窺う。
ずるいとか、悪いとか。そんな言葉が、瑞姫ちゃんと同じくらい似合わない人なのに、何を言ってるんだろう。
だけどそれを本気で訊ける人だから、怖くないのだ。
ふっと微笑んで、力強くうなずく。
「大丈夫だよ。笹塚くんこそ大丈夫? わたしたぶん……絶対、笹塚くんが思うよりいい子じゃないよ」
「えっ、それはないです」
「……即答だね?」
「す、すみません……でも、大丈夫です。絶対」
いまだかつてないほどに自信満々な肯定だった。
なんだかおかしくなって、小さく笑ってしまう。笹塚くんは真顔で「大丈夫です!」とさらに主張した。
「わかった。それなら……ええっと、笹塚くんはわたしと付き合いたい?」
「つきあう」
意思表示の言葉ではなく、単純なおうむ返しだった。笹塚くんの頭の中には、どうやらわたしと付き合うという選択肢はなかったらしい。
ゆっくりと、彼の中にその選択肢がなじむのを待つ。
固まったままの顔が、じわじわと赤く染まっていった。
「…………は、い」
「うん、これからよろしくね」
「よ、ろしく……お願いします……」
「ふふ、その顔初めて見た。感極まってる顔?」
「そうかもしれないです、なんにもわからないです……」
「あははっ、かわいいね」
笹塚くんはぎょっとして後ずさる。この顔も初めて。びっくりさせすぎてしまったみたいだ。
「それじゃあ、今度こそまたね。……これからのことは、また会ったときにゆっくり決めよう」
「はっ、はい! さようなら! また!」
ぴしっと姿勢を正した笹塚くんと、くすくす笑いながら別れる。
ホームに上がって電車を待つ。その間にスマホを取り出すと、メッセージが来ていた。瑞姫ちゃんからだ。
《みずき:ちなみに、その友達って男の子?》
……随分悩んだんだろうなぁ、とわかる時間差の質問だった。ついぷっと吹き出してしまう。
向かいのホームの笹塚くんを探す――いた。向こうの電車が来るまで、あと三分。速足で階段を上がって、下りて、笹塚くんのもとへ行く。
「笹塚くん!」
「玖須さん!? 何かありましたか……!?」
「あのね……わたしの親友と、通話してみてほしいの」
「え?」
「まだ時間大丈夫なら、ホームだとちょっと音がうるさいから、上に戻らない?」
「え、え?」
戸惑いながらもついてきてくれる笹塚くん。
比較的静かな場所で、瑞姫ちゃんにメッセージを送る。《そうだよ。さっき、わたしの彼氏になったの》――送った途端、予想どおり電話がかかってきた。
電話に出ると、『もしもし月ちゃん!?』ととっても焦った瑞姫ちゃんの声が聞こえてきた。
『どっ、なんで、え、あの、大丈夫!?』
「ふふ、大丈夫。びっくりさせちゃってごめんね。心配してくれてありがとう」
『う、ううん。私のほうこそ、急に電話しちゃってごめん。……彼氏さんって、まだ近くにいたりする?』
「隣にいるよ。お話しする?」
『していいの!? する!』
「笹塚くん、親友が……瑞姫ちゃんが、話したいって」
瑞姫ちゃんの知り合い以外に、瑞姫ちゃんの名前を言うのも初めてだった。
笹塚くんは目を白黒させながら、わたしのスマホを受け取ってくれた。
「あの……も、もしもし。笹塚優心と申します……いえ、こちらこそご丁寧にありがとうございます……」
それきり会話が止まってしまった。
数十秒の沈黙の後、助けを求めるように笹塚くんがわたしのほうを見てくる。手を差し出すと、スマホがわたしに戻ってきた。耳に当てる。
「もしもし、瑞姫ちゃん?」
『つ、月ちゃん……話したいって言ったの私なのに、上手く話せなくてごめんね……』
この二人はたぶん上手くおしゃべりできないだろうなぁ、とは思っていたので、ふふ、と笑っておく。
何も言わずにいきなり話させてしまったわたしが悪い。
「そしたら、顔を見たほうが話しやすいかもね。……ビデオ通話に、してみる?」
え、と微かな声が聞こえてくる。恐怖に染まった声。
いきなりいろんな覚悟を、彼女に強いている。申し訳ない。……だけどこのくらいじゃなきゃ、わたしも勇気が出せないのだ。
瑞姫ちゃんなら許してくれる。
許してくれる、と甘えることだって、許してくれる。
「大丈夫なの。きっと……大丈夫だから」
『――わかった。ビデオにする。あと、スピーカーにできる?』
即座に、瑞姫ちゃんの顔がスマホに映る。わたしのほうもカメラをオンにして、周りの人の迷惑にならなそうなのを確認してからスピーカーもオンにする。
「笹塚くん、お願い」とスマホを渡すと、彼は一瞬途方に暮れた顔をした。けれど、すぐにきりっと表情を引き締めて、スマホの画面を覗きこんだ。
そして二人同時に感想を漏らす。
『……月ちゃんが信じるのもわかる、優しそうな人だね』
「……玖須さんがお話しされていたとおり、とても綺麗な方ですね」
それだけだった。
『笹塚くんは月ちゃんのどこが好きになったの?』
「は、はい。一番は、努力家なところです」
『わかる。努力しなくたってすごいのに、それでも努力するからすごいよね』
「……親友思いなところもとても好きです」
『うん、私は月ちゃんに愛されてるから』
「あなたのことを話すときの玖須さんが、一番可愛いです」
『……そう? そうかなあ、ふふ』
なんだかちょっと恥ずかしい会話が始まっちゃったな……。
視線をあちこちに飛ばしながら、二人が和やかに話すのを見守る。見れてはいないけれど。
口を挟まないでいたら、わたしの好きなところを語り合うだけで三十分くらい経ってしまったので、さすがにストップをかけさせてもらった。
「あの……今日のところはその辺りにしない? ちゃんと顔を合わせたほうがもっといろんな話ができるだろうし……」
それでもまたわたしの話をされるんだったとしたら、いたたまれない気持ちになりそう。でもとりあえず今日は……もうおなかいっぱいだから、おうちに帰ってゆっくり休みたい。
熱くなった顔をぱたぱたと手で仰ぐ。
『月ちゃんがそう言うなら……』
「玖須さんがそうおっしゃるなら……」
しぶしぶ二人とも了承してくれた。しぶしぶすぎる……。
電話を切って、笹塚くんの顔を見上げる。
「……好きになった? 瑞姫ちゃんのこと」
「はい。玖須さんの大好きな親友さんですから」
「……っふ、ふふ、うん、そう。だいすき」
笑いながら、ちょっと涙が出てしまった。やっぱりほんの少し怖かったんだと、あらためて自覚する。
気づかれないうちに瞬きで涙を消して、息を吐く。
「またね、笹塚くん。これからもよろしくね」
「はい……! よろしくお願いします!」
「――きっとわたし、あなたのこと好きになる。だから、待ってて」
変な声を上げた笹塚くんに微笑んで、背を向ける。
わたしはまだ、笹塚くんのことを好きじゃない。
だけどいつか、そう遠くない未来、わたしは彼のことを好きになる。久しぶりに、恋なんてものをしてしまうんだろう。
そう思うとなんだか心が弾んで、小さく零れてしまう笑みを、わたしは手で隠した。